脳科学で最近クオリアということがいわれているのは、この道の宣伝マンである茂木健一郎東工大特任教授の著書等に紹介されているのでご存知の方も多いのではないだろうか。
人間の脳というのは一種の情報処理装置であるという捉え方は、認知脳科学の基本的な考え方である。情報処理装置という意味ではコンピュータと同じように見ることもできなくはなく、実際認知科学(わかるということはどういうことかということを研究する学問だとさしあたりお考え下され)の初期においては、短期記憶をワーキングメモリに、長期記憶をHDDに代表されるような記憶媒体になぞらえて説明がなされていたこともある。しかし、コンピュータはパターンマッチングや記号処理は得意(例えばキーワードによる検索やワープロにおける一斉文字置換など)だが、意味を理解することは未だに大したことが出来ないでいる。
クオリアというのは、記号ではなく、記号に付与された質感とか意味というようなものを総称する言葉であり、脳科学でも最近脳は記号処理ではなくクオリアを扱っているのだということが成果を伴って提唱されるようになってきたのである。
面白いのは、社会の成熟も、記号の追求からクオリアの追求へと変容してきているというところである。日本がかつて貧しかったときには、車が欲しかった。ここでの車は、記号と言ってもいいのです。つまりおよそ車であれば事足りたのであった。
しかし、現代はどうでしょう?多くの人々が車を所有するようになると、こんどは欲求のレベルが上がってくる。つまりどんな車でもいいわけではなく、エコカーであるとか、デザインの可愛らしさとか、そういうものを脳は欲求し始めるのだ。そういうものがクオリアのわかり易い例だと思う。
学びについても、そうなってきた。高度経済成長期には、均一な学力を備えた良質な労働者が産業界の求めるものであったし(そういう意味で労働者は記号だったのかもしれない)、一生懸命勉強して良い学校に入りいい会社に入ることが豊かで安定した人生を約束されることであった。勉強の動機は、そういう約束のためであったといってもよかろう。ここで豊かさとは経済的なそれであり、それもほとんど記号であった。しかし、今や不況であるといっても欲さえかかなければ298円のお弁当が出回るご時世であり、デフレ基調であるからものが安く手に入る。そういう意味では、みんなある程度豊かであるという言い方ができる。そうなると、豊かさを手に入れたり維持するための勉強ということの説得力が弱体化してくるのは当然の帰結である。例えば東大に合格するために勉強する。未だにこういうことを売りにして猛烈な受験勉強をさせている塾等があるが、おそらくは先行きに暗雲が立ちこめることになるだろう。なぜならば「それが何なの?」という反駁にあうことが目に見えているからである。東大は確かに素晴らしい大学である。しかし、それは合格する対象なのではなく、そこでどれだけの知遇を受けられるかという、これまたクオリアの世界の問題になってきているのである。すなわち「東大」という記号ではなく、その学びの場でどれだけ知性を高められるかが決定的になる時が早晩やってくるということだ。
わかりやすいので大学入試の話をしたのだが、テストのため、成績のために勉強するという方向に向けて子供を走らせるのはますます困難になってきている。過日急死した中川昭一氏はたしか慶應を出てから東大に学部入学し、日本興業銀行(当時)に就職してから政界に転身した「エリート」であった。しかし、朦朧会見をして醜態を曝した挙げ句、落選し、一人寂しくこの世を去ったのだった。彼の人生が豊かで幸福なものであったかは、今となっては分らないが、優等生の寂寥感に満ちた最期を目の当たりにして、頑張ってもあんな感じかよという気持ちになる感受性をもつ子供はちゃんと存在する筈だ。そうなると、優等生になるために勉強するというプッシュでは説得力がなくなってしまうのである。
だから、学ぶことによってより高いクオリアを経験できる、あるいはクオリアを消費できるという新たな欲求を子供に与えていくことがブレイクスルーになるのだと思っている。そのためには、自分の脳が扱えるクオリアをより豊かなものにしていかなければならないと思う今日この頃なのである。
人間の脳というのは一種の情報処理装置であるという捉え方は、認知脳科学の基本的な考え方である。情報処理装置という意味ではコンピュータと同じように見ることもできなくはなく、実際認知科学(わかるということはどういうことかということを研究する学問だとさしあたりお考え下され)の初期においては、短期記憶をワーキングメモリに、長期記憶をHDDに代表されるような記憶媒体になぞらえて説明がなされていたこともある。しかし、コンピュータはパターンマッチングや記号処理は得意(例えばキーワードによる検索やワープロにおける一斉文字置換など)だが、意味を理解することは未だに大したことが出来ないでいる。
クオリアというのは、記号ではなく、記号に付与された質感とか意味というようなものを総称する言葉であり、脳科学でも最近脳は記号処理ではなくクオリアを扱っているのだということが成果を伴って提唱されるようになってきたのである。
面白いのは、社会の成熟も、記号の追求からクオリアの追求へと変容してきているというところである。日本がかつて貧しかったときには、車が欲しかった。ここでの車は、記号と言ってもいいのです。つまりおよそ車であれば事足りたのであった。
しかし、現代はどうでしょう?多くの人々が車を所有するようになると、こんどは欲求のレベルが上がってくる。つまりどんな車でもいいわけではなく、エコカーであるとか、デザインの可愛らしさとか、そういうものを脳は欲求し始めるのだ。そういうものがクオリアのわかり易い例だと思う。
学びについても、そうなってきた。高度経済成長期には、均一な学力を備えた良質な労働者が産業界の求めるものであったし(そういう意味で労働者は記号だったのかもしれない)、一生懸命勉強して良い学校に入りいい会社に入ることが豊かで安定した人生を約束されることであった。勉強の動機は、そういう約束のためであったといってもよかろう。ここで豊かさとは経済的なそれであり、それもほとんど記号であった。しかし、今や不況であるといっても欲さえかかなければ298円のお弁当が出回るご時世であり、デフレ基調であるからものが安く手に入る。そういう意味では、みんなある程度豊かであるという言い方ができる。そうなると、豊かさを手に入れたり維持するための勉強ということの説得力が弱体化してくるのは当然の帰結である。例えば東大に合格するために勉強する。未だにこういうことを売りにして猛烈な受験勉強をさせている塾等があるが、おそらくは先行きに暗雲が立ちこめることになるだろう。なぜならば「それが何なの?」という反駁にあうことが目に見えているからである。東大は確かに素晴らしい大学である。しかし、それは合格する対象なのではなく、そこでどれだけの知遇を受けられるかという、これまたクオリアの世界の問題になってきているのである。すなわち「東大」という記号ではなく、その学びの場でどれだけ知性を高められるかが決定的になる時が早晩やってくるということだ。
わかりやすいので大学入試の話をしたのだが、テストのため、成績のために勉強するという方向に向けて子供を走らせるのはますます困難になってきている。過日急死した中川昭一氏はたしか慶應を出てから東大に学部入学し、日本興業銀行(当時)に就職してから政界に転身した「エリート」であった。しかし、朦朧会見をして醜態を曝した挙げ句、落選し、一人寂しくこの世を去ったのだった。彼の人生が豊かで幸福なものであったかは、今となっては分らないが、優等生の寂寥感に満ちた最期を目の当たりにして、頑張ってもあんな感じかよという気持ちになる感受性をもつ子供はちゃんと存在する筈だ。そうなると、優等生になるために勉強するというプッシュでは説得力がなくなってしまうのである。
だから、学ぶことによってより高いクオリアを経験できる、あるいはクオリアを消費できるという新たな欲求を子供に与えていくことがブレイクスルーになるのだと思っている。そのためには、自分の脳が扱えるクオリアをより豊かなものにしていかなければならないと思う今日この頃なのである。