思えばこれまでの私は『見』の人生を歩んできた。

 

 

『見』とは見ること、不用意に他人に干渉しないこと、自分の意見を秘めておくこと。

 

 

集団の中にいることは苦ではない。むしろ群れるのはどこか落ち着く。

 

 

寂しさを紛らわすことができるから。

 

 

寂しがり屋。

 

 

それは恐らく幼少期の孤独からと考えられる。

 

 

小学校に上がる前に親が離婚、

 

中学校に上がる前に祖母が療養のため親族の家に行き僕は父親と二人暮らし。

 

 

父には感謝している。ここまで育ててくれてありがとう。

 

 

だが母親がいないこと、大学卒業後父とも疎遠になったこと、ずっと一人暮らしを続けていたこと。

 

 

人に心を許すということをいつからか避け始めていた。

 

 

思えば小学校の時から『見』の人生を過ごしてきた。

 

 

人の意見をまとめるのは得意だが、それは自分の意見を心に秘めているから。

 

 

だから全体を見渡すことができ、均衡を図り意見をまとめあげることができる。

 

 

だがここ半年ほど人との関りがなかった。集団に紛れることがなかった。

 

 

だから本当に寂しかった。

 

 

でも寂しいという自分に気づくことができた。

 

 

『見』の人生を過ごしてきたということも分かった。

 

 

だからようやく次の一歩へと進めそうだ。

 

 

これが僕だ、僕なんだ。

 

 

強さと、ほんの少しの弱さを心に秘めて。

僕は一体なにをしているんだろうか。

 

 

そう自問自答したくなる日がある。

 

 

今日がそういう日なわけだが、起き抜けの不安感というものは何度経験しても慣れないものだ。

 

 

 

この先どうなるのか、なんて考え始めたら不安で不安で仕方がない。

 

 

周りのビジネスパートナーたちは活動を行っている。

 

 

自分もやるべきなのは頭では理解しているのに行動に移せない自分を見て

 

ついつい自分自身をdisってしまう。

 

 

 

さて、こういう時は決まって他人の考えに振り回されているときに過ぎない。

 

 

大丈夫。自分を取り戻そう。

 

 

こういう時に大切なことは自分の好きなモノに触れること。

 

 

動画、音楽、Youtube、読書、なんでもいい。

 

 

自分らしく生きている人たちに触れることで僕の感性はゆっくりと自分の中に戻っていき、元気が戻ってくる。

 

 

「気を元に戻す」と書いて元気。

 

 

そう思うと元気というのはあまり派手なものではないのかもしれない。

 

 

その人がその人らしくあることを元気というのだろう。

 

 

安心しろ。この文章を書いていたら落ち着いてきた。

 

 

大切なことは自分が良いなと思うことに触れること。

 

 

さぁ、新しい人生を今日から始めようじゃないか。

 

 

頑張ろう。今日もまた一日頑張れる。

なぜそこに人が魅了されるのか、とふと思ったときそこには感性が宿っていることに気づかされる。

 

 

とある家具屋さん(living houseというお店だった)に入ったのだが、非常に居心地がよかった。

 

 

そこではすべての商品が「そこにある理由」を持っており、景色の一部として確かに存在しているのである。

 

 

これがダメな店だとこうはならない。

 

 

 

「もっと配色を考えたほうがいいのに」

とか

「イスとテーブルの位置がアンバランス」

とか

「ソファーの上のクッションがへたっている」

とか

 

不愉快極まりないことに気づかされてしまう。

 

 

家具屋というのはお店自体がショールームなのだ。

 

 

だからこそそこには魂が宿っていなければならない。

 

 

 

そのことを今回訪れたお店の中の彼は分かっていたのだろう。

 

 

彼は真剣にお店を観て、スタッフに指示を出していた。

 

 

彼こそがお店の魂である。

 

 

なんともはや職人気質を感じたものである。

 

 

ついつい長居をしてしまった。

 

 

置かれている椅子、テーブル、ソファー、クッション、ランプ、置物、絵画、花瓶。

 

 

すべてが目の行き届いた素晴らしいお店だった。

 

 

配色、配置、バランス、景色。

 

 

お店でありながらも美術館の中にいるように、まるで一つの作品の中に入り込んだ印象である。

 

 

ああ、僕もあんな家具の似合う家に住みたいものだ。