壱…。弐…。参…。と、
つけた順番は自分がつけた番号。
つまりは自分の勝手でしたこと。
こうであるはず、こうでありたい。
そういった様々な思いから生まれたもの…
壱でつまずき、弐で転んでヤケになって参を投げ捨てる。
そして全てをあきらめ目の前に有るものさえ見えなくなる。
つまずいた先に有るもの、転んだ場所に有るもの
投げ捨てた時につかむもの。
それらは必ずある。
気づかぬだけ。
壱弐参と、勝手付けた順番にも大きな意味がある。
つまずき転ぶためだと思えれば多くを得よう。
そして、多くを得た新しい自分としてまた再び壱弐参と進んでゆく。
つまずく事もなく転んだこともない人生は何の彩りもなく寂しいものだ。
人としての深さを知ることができない。
全てを自由に手に入れることができる人生は悲しいものだ。
何も手に入れることが出来ない。
ありがたみを知ることができないからだ。
苦労して手にしたものだからこそその価値を見いだし愛を得る。
つまずき転ぶことは確かに痛みがある。
すべてが暗闇に包まれ何も見えず息も出来ず
すべての消滅を望んでしまうだろう。
しかし、そから顔を上げて見上げることができたとき
多くを眼にし多くを知る。
そんなときこそ視野を広げて見ることが出来ていればの話だが
人はそんな時は必ず視野を狭くする。
傷つくのを恐れているから
受け入れるのを拒んでいるから。
やることが逆だよ!
辛いときこそ視野を広げ
楽しいときこそ一点を見る。
その一点とは己が心……
その一点には多くが詰まっている。
ただ楽しいだけで終わらせては勿体ないものだ。
その一点を見つめソレが見えたとき 楽しいとは"有り難い"ことだと気づくことになる
"有り難い"とは有ることが難しいこと
よって、有ることが難しい状態になりうるのだと覚悟も同時にする事になる。
そして、その覚悟した事態に陥ったときソレをそのまま受け入れられる。
もし受け入れられないときは、その覚悟が足らんのだ。
ありがたみを知らんのだ。
