映像 | 【 楓 】

【 楓 】

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映像を見る。

目をつぶると映像が見える。


昨夜、寝ようとして床に入ったが寝付けずに何やら考え事をしていた。

それと重なるように流れるイメージ。

ふと、目の前の映像をみる。

断続的に流れる映像とイメージ。


『私はジョージアに乗る!』と言っている私。ジョージアと言う名の馬。

黒い馬がこちらに向かって駆けてくる。

黒い馬。昨日の夢の中にも出てきた。さっき見た映像にも出てきた。

天に一点、光り輝く空に向かって両足を高々と上げいなないてる。

その口から光が尾を引いて天に輝く一点の光めがけて飛び出した。

それは龍のようにも見えた。


昨夜見た映像はほかにもたくさんあって、何が言いたいのかも分からない。


大黒様と恵比寿様の石像が出てきて、それを私は庭に飾らなくてはと思っている。と同時に同じ様な夢を前日に見たことを思い出した。


もう一つは、右手で筆を持ち画用紙に二本の線を書いた。

書いているのは私。

画用紙の端と端に一本づつ。
初めは何を書いているのか分からなかった。

次は枝を描き始める右手。
どんな枝が良いか考えながら描き続ける私。

そして流れるイメージ。


そしてその意味を理解する。

私は映像の中でとてつもなく大きな大木を描いている事。

始めに描いた二本の線は幹の部分のほんの一部。

画用紙は、人が持つ知識、理解力、想像力といったうつわ。


大木は世の成り立ち仕組み、車軸。


その大木を描き出すには何枚の画用紙必要になるかなんて想像すらできない。

映像の中で私は何十枚もの画用紙を使い幹のほんの一部と枝を二本描いただけだ。

だが、まだその何十倍何千倍描いていないところがある。

描こうとも思わない。描けるとも思えない。


私が描いた幹の一部と二本の枝は、それを描くのに四十七年の歳月をようした。

人の一生を費やしても描けるものではない。


画用紙といううつわも簡単には手に入れられるものではない。


描くことが必要かと問われればそんな事はない。


その大木の一部は自分なのだと気付けばいいだけのこと。


その一部である自分の手足、心を広げれば遥かなる大木に行き渡りそれ自身となる。

描かずとも"ここにある"

すべてはすでに我がものである。


それに気づけば何もする必要はなくなる。



シラー