前回の記事で人が職業における個性に惹かれる事、その個性を得るために体験を苦心して得ようとする事、について考えてみた。そして終わりに本質的にその職業から得られる体験を認識出来れば敢えて就職する必要は無いと言った。もちろんそれなりの理由があっての事である。今回はその点について、つまり職業における体験の認識方法のようなもの、について掘り下げてみたい。そして最後には就職する事について考えられれば、と思う。

 ある青年がある職業人の性質に惹かれたとして、その職業の性質を個性と呼ぶことにしよう。彼はその個性を得たいが為にその職業人が体験している事を自分も体験したいと思うようになる。しかし、実はここで面白い事情が存在する。その青年はその職業人と同じ視点に立ちたいと思いその職業人の立ち位置を目指すわけだが、その職業人は全く別のところを目指しているものなのだ。もちろんこれは芯なる職業人のみが持ちえる心構えみたいなものだと思うのだが、彼らがその職業に従事しているのは、彼らの興味の達成を求めているからである。そして青年がその職業人の後を追いかけるだけでは決して彼と同じ視点に立つことは無いのである。また青年が欲するところの個性というものを獲得するのはまた別のきっかけとなるところが大きい。

 ところで少し話がそれるが、私はこの個性と言うものが客観的な視点からでしか認識する事が出来ないと思うのだ。つまり個性的な人が自分の個性を意識しているか、と言えばそうではなく、個性的な人はただ自分のベクトルに進むが為に個性的なのである。逆に自分の個性と言うものを認識し、それを前面に出している人ほどその個性を振舞っているにすぎない。前回の記事の引用文の通り、個性の無い人ほどそれが元々備わっている天性の個性のように振舞うのだ。つまり個性と言うものは意識して得られるものではなく、自分の本質的な価値観を追求していく内に自然とあふれ出すものなのだ。

 個性は英語に直すとしばしばアイデンティティと訳されることがあるが、ここで触れている個性とはそれとは全く別物である、というのもアイデンティティとはE.エリクソンの言うところの自己同一性であり、自分が社会の中でどうあるべきか?という自分の生きる環境に主体をおいているところが大きい。しかし、ここで私の言及するところの個性とは社会的立場などを全く無視した、完璧に自己の世界という事になる。つまり環境(社会)に立場を求めるのではなく立場から環境を自ら作り出す事にその目的をおいている、英語で言うところのNatureの方がしっくりきそうなものである。この事については長くなりそうなのでまた別の機会に触れようと思う。

 では芯なる職業人らの求めるものは何だろうか?マックス・ウェーバーは達成(エルフユレン)だと言った。私もそれに同感である。彼は学問を職業とする者、学者などが科学を発展させてきたのはそれによる技術的な恩恵を目的としたのではなく、むしろ科学によってこの世の真実というものが解き明かされる事を望んだからである、そして解き明かす度に彼らは達成を覚えると説いた。私も科学に一時期触れていた頃、そう期待していた時期があったのでなかなか共感出来る事柄である。ではそういった達成を求める人々が有意義な結果を残すのはなぜだろうか?

 世の中で新しい技術や文化が開発される時、そこにはある職業人の思いつきが存在する。そして思いつきとはある条件によってひらめくものである。それは作業に情熱を掛けたものである。

    思いつき=作業×情熱

こんな公式は成り立たないかもしれないが、ここで言いたいのは作業が0でも情熱が0でも思いつきは浮かばないという事である。発明王エジソンはHis genius, he was quite content in one brief sentence to define: of inspiration one percent, of perspiration, ninety-nine.と言い彼の発明が努力無しに成しえなかった事を説いた。私の中学の時の教師は、であるからして努力を怠るなと説いたが、また逆に努力さえすれば良いと言う話でも無い。常に何か新しいものを創造したいと言う渇望がその思いつき、閃き、発明の前提条件になるのだ。

 ところでこの情熱を掛けて作業をするというのは一般的に体験と呼ばれるものでは無いだろうか?

    体験=作業×情熱

なるほどこの様に書いてもしっくりくる。しかし、これこそが芯の職業人と個性に飢える青年の違いである。左辺を目的、右辺をそのアプローチとしよう。すると例えアプローチが共通だとしてもその目的が違う限りそれによって生み出される事情も異なってくるように思える。

以下は上記の職業人の性質についてまとめた図である。

$Poquitous Innovation.-職業人の性質
 就職内定率が過去最低と嘆かれている記事を今年初めによく見た。大企業安定志向の学生の狭い視野というのがその原因の一つとされていたが、問題は国全体で広く安定志向に陥りリスクを取ることに億劫になっている事だと私は思う。これは例えば新卒採用という制度を変えるとか、公共事業を増やす事による雇用創出とかそういった目先の解決では対処しきれない問題だろうと懸念している。安定志向というのは言い換えれば思考停止状態の事でもある、というのも安定志向の人がとる選択というのは先人たちが成功(経済的合理性の内における成功である)してきた道をただ辿るだけであり、みずから新しい道を切り開こうという冒険心を持ち合わせて無い以上、ルーチンワークのみ与えられた事をひたすらこなすように主体性の無い目的に沿って生きていくからである。私はこれがとても危険な事だと危ぶんでいる。というのも例えば熱中すべき趣味などを持ち合わせている場合を別として、その主体性の無い目的、他人から与えられた目的によって支配されている人が、もしそれを取り上げられようものなら生きる目的それ自体を取り上げられてしまうのと同義であるからだ。日本の自殺者数はWHOの調査によると世界の106カ国中5位ととても高い。リストラ、不良債権、イジメ、原因は色々とあるであろうが、もし彼らに自立的な生きる目的、つまり社会に存在することの意義などを無視し、ただ自分が主体的に生きる事の意味などについて少しでも考えていたなら、健全な精神を保てたかもしれないのだ。では、主体的な目的というのは一体どのようにして身につくのだろうか?私自身、明確な答えを持っている訳では無いがこの記事を通して一考してみたいと思う。
 
 若者諸君!君たちは何を求めるか?
 
 私は是非、受験や就職活動を間近に控えている人たちに彼らの抱いている夢について問いたい。なぜなら彼らがこれから取る舵はその夢から逆算された航路である事が殆どだからである。例えば一般的によくある夢として、ある職業に就いてその職業の成しえる有意義な結果を残す事が夢だったとしよう。その場合その有意義な結果というのは何かしらの価値があるのだろうと我々は予測できる。つまり主体的な生きる目的とはそういった価値というものを求める事ではないだろうか、と私は考えている。そして人は職業というものにその価値を投射する事で夢をより具体化するのではないかと。人の価値観というのはとても体言しがたいものである。自分の価値観を具体的に言葉で表現できる人がどれほどいるだろうか?主体的な目的が定まりがたい最もな原因は結局のところ、その職業に投射されるべき価値観というものが認識しづらいが為ではないだろうか?ではその曖昧な価値と職業を結びつけたものは何であろうか?そこには何かしらのモデルがいたのでは無いだろうか?そしてそのモデルが放った性質の様なものに惹かれはしなかっただろうか?つまり、自分もこうなりたい、といったような憧れを抱かなかっただろうか?これらの誘導的な質問を一言でまとめるとこうなる。あなたが欲する個性(性質)とは何であるか?と。

$Poquitous Innovation.

 
 職業についての個性を考える時、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが「職業としての学問」という講演の中で扱った個性と体験の関係について思うところがある。
以下引用
近頃の若い人たちの間では一種の偶像崇拝がはやっており、こんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広く見出される。ここでいう偶像とは、「個性(ペルゼンリヒカイト)」と「体験(センセーション)」のことである。この二つのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。この種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性を持つ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいには、人はすくなくもこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。(引用終了)

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 彼は1919年のミュウヘンにてこの講演を行ったわけだが、約100年が経った今の日本でも全く同様の事が言えるのではないだろうか?つまり人は個性を得るが為に体験を求める。今日ではその個性と言うものは何かファッションのようなものに成り下がっているようにも思えるが、若い人たちが何か職業の個性の様なものに惹かれる事が多いのは事実である。実は職業に限った話では無いのだが、もし彼らが生活する為の収入という第二の自立的な目的を持っていた場合、それら求める個性から発生する目的を併用させた上である職業を選ぶのである。そして彼は究極的にはその職業における体験を通し有意義な結果を求め、その先にある価値を追求していくのである。そしてその主体的な目的に従順である以上、見せかけの個性などには目もくれない、大企業志向などに陥るはずが無いのである。もし大企業が唯一の道と考えている人がいたら今一度、自分にどの様な個性を求めるのか、問いて欲しい。私自身はその職業としての体験が本質的に何であるか、を理解出来ればむしろ就職という意志すら湧かないものだと思うのである。

 現在私は教育問題について取り組んでいる。実際に何か事業を行っているわけでは無いが、いずれ始めたいとも思っている。教育問題というのはどの時代においても様々な形で議論されてきたものだ、そして現在も色々な教育改革案が流布している。それは例えばイジメ問題やゆとり教育問題など、現在の教育機関の内側で起こっている事への解決策を模索するものが殆どである。しかし、私が思う教育問題はその機関そのもののいかんに関するものであり、それを解決する事によってより面白い社会が作れるのではないか?と期待している。現状の問題を確認するためにまずは一般的な日本の教育というものを外面的な要素から想起されたい。
 これを読んでいる殆どの人はそうであったかもしれない。日本では基本的に小学校、中学校が義務であり、その後は高校、大学、専門学校へと進み、人それぞれの時期において仕事に就く。小学校や中学校で扱う科目は基礎的な知識とされていて、高校以降は専門的な分野における高等な知識を得ていく事が一般的な過程と思われる。この一般的な構造というのは明治初期の近代化の流れの中でイギリスの大学などから輸入されたモデルであるが、今日の日本のそれが独特だと思われるのは受験による進路決定が重要な意味を成すという点に尽きる。そして受験のサポートを主な役割とする塾や予備校の存在もまた独特である。そもそも塾とは幕末の開国に伴い自由に新しい学問を求める人々が通う所とされていた。例えば吉田松陰などが開いた松下村塾などは社会改革を行う為の志士を育成する塾として武士などを集め、教えを説いていた。そして当時の公的な教育機関である寺子屋とは全く別の趣旨で広く学問に携わっていたのだが、現在では学校であれ塾であれ受験を前提とした学問が中心に据えられている。
 受験を経験した事がある人はその意味について考えた事が必然的にあると思う。なぜ受験をしなければならないのか?私自身は未だその意味を理解できない。受験に際して問題だと感じているのは暗記やそれを助長する類の勉強法である。データを記憶する能力が最大限に活用されていたのはもはや遠い昔の話である。現在は通信機器などの発達により、その場ですぐに調べられる環境が整いやすい、よってその様な能力を試すことの意味は至極少ない事情に限ると思われる。むしろそれらの勉強法を基盤とする人間はテンプレートな発想・思考しか成しえず、社会に出て新しいものをつくり出す能力が無いことは明白である。テンプレート人間は戦前、富国強兵を目指した日本にとって世界観を統一しやすい、または思想的な反抗を起こさないという面では優秀であったが、現在の日本においては形式的な社会をモラトリアムな思考停止状態に停滞させる働きしか担っていない。
 兎にも角にも現在の日本の教育制度のおおよそは戦前の近代化に向けて構築されたものであり、それがこれからも通用するとはとても思えない。果たしてそれが消極的ながら改善されたとしても、その目的自体が違う以上いつまでも輸入されたモデルに頼るのではなく、ゼロベースで日本独自の教育を考えた方が懸命だと私は思うのだ。

参考文書
日本教育小史―近・現代 (岩波新書)/山住 正己

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