ところで義務教育である以上生徒となる子供たちはその立場というのを強いられる事になる。前回の記事でマッピングした時にも出てきたこの立場についても少し私なりに考えてみた。
人は人生において様々な問題を抱える。そしてその問題を解決しようと務めるか、背を向けるかはその人次第であり、人に強要されるべき事ではない。問題解決のプロセスというのは前回も紹介したとおり、立場、手段、目的の要素があり、教師が成しうるのはその手段を神聖化するか否かの選択の必然性を説く事である、と説明した。
『ある問題について実際上の立場はその究極の世界観上の根本態度から自己矛盾の無いように、本来の意味をたどって導きだされるものであり、けして他人の世界観上の根本態度から導き出されるモノではないのである。』

これは言い換えれば他人の世界観を自分のものとして取り込んだ場合、いずれ自己矛盾が発生し自らの立場(究極的には自分は何者であるか?)を見失う。という意味だと私なりに解釈している。例えば移植手術を受けた際の拒絶反応に似ているかもしれない。他人の価値観によって作られた自己というのはいずれオリジナルの消滅に繋がる。逆に自己に忠実な人はみずからの価値観によって、他人と価値観を共有した場合においても、立場、手段、目的に一貫性を保つ。またその目的達成のプロセスにおける試行錯誤が人生と呼ばれるものに他ならない。
この立場についての認識を前回の教師としての職分に付け加え、改めて教師の成しえる事についてまとめてみたい。
教師として生徒の持つ問題を手助けするには、
I. 生徒の立場を自己認識させる。
II. その立場から目的を達成させる為の不可避の手段を提案する。
III. a. その手段が受け入れがたい場合、目的によって手段を神聖化するか否かを問う。
b. 選択後の付随現象を説く。
以上の3点でありそれ以上は教師としての職分を超えることを認識しなくてはならない。
逆に生徒としての職分もある。生徒はIの立場の認識においてそれがすべて自己責任によって始まる事を了承しなければならない。そして教師にそれ以上の事を要求する場合、かれもまた生徒としての職分を超える事を認識する必要がある。時として教師も生徒もその職分を越える事でよい結果に導かれることがある。しかし、その時はもはや彼らはお互いに教師でも生徒でもない別の関係によって繋がっていること、そしてそうなった以上教師であるから、または生徒であるから、という道理が通用しなくなる事を承知しなければならないだろう。
人は人生において様々な問題を抱える。そしてその問題を解決しようと務めるか、背を向けるかはその人次第であり、人に強要されるべき事ではない。問題解決のプロセスというのは前回も紹介したとおり、立場、手段、目的の要素があり、教師が成しうるのはその手段を神聖化するか否かの選択の必然性を説く事である、と説明した。
『ある問題について実際上の立場はその究極の世界観上の根本態度から自己矛盾の無いように、本来の意味をたどって導きだされるものであり、けして他人の世界観上の根本態度から導き出されるモノではないのである。』

これは言い換えれば他人の世界観を自分のものとして取り込んだ場合、いずれ自己矛盾が発生し自らの立場(究極的には自分は何者であるか?)を見失う。という意味だと私なりに解釈している。例えば移植手術を受けた際の拒絶反応に似ているかもしれない。他人の価値観によって作られた自己というのはいずれオリジナルの消滅に繋がる。逆に自己に忠実な人はみずからの価値観によって、他人と価値観を共有した場合においても、立場、手段、目的に一貫性を保つ。またその目的達成のプロセスにおける試行錯誤が人生と呼ばれるものに他ならない。
この立場についての認識を前回の教師としての職分に付け加え、改めて教師の成しえる事についてまとめてみたい。
教師として生徒の持つ問題を手助けするには、
I. 生徒の立場を自己認識させる。
II. その立場から目的を達成させる為の不可避の手段を提案する。
III. a. その手段が受け入れがたい場合、目的によって手段を神聖化するか否かを問う。
b. 選択後の付随現象を説く。
以上の3点でありそれ以上は教師としての職分を超えることを認識しなくてはならない。
逆に生徒としての職分もある。生徒はIの立場の認識においてそれがすべて自己責任によって始まる事を了承しなければならない。そして教師にそれ以上の事を要求する場合、かれもまた生徒としての職分を超える事を認識する必要がある。時として教師も生徒もその職分を越える事でよい結果に導かれることがある。しかし、その時はもはや彼らはお互いに教師でも生徒でもない別の関係によって繋がっていること、そしてそうなった以上教師であるから、または生徒であるから、という道理が通用しなくなる事を承知しなければならないだろう。


