ところで義務教育である以上生徒となる子供たちはその立場というのを強いられる事になる。前回の記事でマッピングした時にも出てきたこの立場についても少し私なりに考えてみた。

 人は人生において様々な問題を抱える。そしてその問題を解決しようと務めるか、背を向けるかはその人次第であり、人に強要されるべき事ではない。問題解決のプロセスというのは前回も紹介したとおり、立場、手段、目的の要素があり、教師が成しうるのはその手段を神聖化するか否かの選択の必然性を説く事である、と説明した。
『ある問題について実際上の立場はその究極の世界観上の根本態度から自己矛盾の無いように、本来の意味をたどって導きだされるものであり、けして他人の世界観上の根本態度から導き出されるモノではないのである。』
$Poquitous Innovation.-マックス・ウェーバー


これは言い換えれば他人の世界観を自分のものとして取り込んだ場合、いずれ自己矛盾が発生し自らの立場(究極的には自分は何者であるか?)を見失う。という意味だと私なりに解釈している。例えば移植手術を受けた際の拒絶反応に似ているかもしれない。他人の価値観によって作られた自己というのはいずれオリジナルの消滅に繋がる。逆に自己に忠実な人はみずからの価値観によって、他人と価値観を共有した場合においても、立場、手段、目的に一貫性を保つ。またその目的達成のプロセスにおける試行錯誤が人生と呼ばれるものに他ならない。

 この立場についての認識を前回の教師としての職分に付け加え、改めて教師の成しえる事についてまとめてみたい。
教師として生徒の持つ問題を手助けするには、

I. 生徒の立場を自己認識させる。
II. その立場から目的を達成させる為の不可避の手段を提案する。
III. a. その手段が受け入れがたい場合、目的によって手段を神聖化するか否かを問う。
     b. 選択後の付随現象を説く。

以上の3点でありそれ以上は教師としての職分を超えることを認識しなくてはならない。

 逆に生徒としての職分もある。生徒はIの立場の認識においてそれがすべて自己責任によって始まる事を了承しなければならない。そして教師にそれ以上の事を要求する場合、かれもまた生徒としての職分を超える事を認識する必要がある。時として教師も生徒もその職分を越える事でよい結果に導かれることがある。しかし、その時はもはや彼らはお互いに教師でも生徒でもない別の関係によって繋がっていること、そしてそうなった以上教師であるから、または生徒であるから、という道理が通用しなくなる事を承知しなければならないだろう。

 一昨日辺りの記事でマックス・ウェーバーの「職業としての学問」を、その中で触れられている個性と体験の関係が自分に合った職業を探す時に役にたつのではないか?と思って紹介させていただいた。しかし、そもそも私がこの講演を読んでみたいと思ったのは教育とはなんだろうか?と考えているとき、たまたま友人が書店で勧めてくれたからだ。実際この本の中ではその職業としての学問を次の3点で考察している。

1、 講師・研究者などが生計を支えるもの
2、 教師・研究者の取るべき心構え
3、 学問の職分そのものについて

因みにこのことは訳者があとがきにまとめてくれている。マックス・ウェーバーの語りはその比喩に使う事柄だったり、用語だったりがやたら複雑なので先にあとがきを読んでから本文を読んだほうが整理しやすいかもしれない、と個人的に思った。
 
 とにかく、この本を読み「職業」について多面的に考える機会を得た。そしてそれと同時に当初の目的、教育とは何だろうか?についても同様に成る程、と思うことが色々とあった。今回はこの本、全体を通して扱われていた「教師の職分」についてまとめ、私なりの考察を加えてみたいと思う。
職業としての学問 (岩波文庫)/マックス ウェーバー

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 彼は教師について三つの職分を唱えた。
I. 知識を売り歩く者
II. 知識を得る為の方法を与え訓練する者
III. 「明確さ」を提示する者
IとIIについては野菜売りに例え、それが教師の職分に限ったことでは無い事を明示した。野菜売りというのは言葉通り、野菜を売る者を指し、また野菜の作り方を売る者は鍬や鋤を与え農作の方法を伝授し訓練する、そして教職についている人がその知識を売り物にしている場合、また勉強方法だったりを教える場合、野菜売りと教職になんら違いはない。そしてこの様な訓練を目的とした職業についている人たちの事をトレーナー(Trainingする人)と呼ぶ。しかし、IIIの明確さについてはある意味教職に特有な性質である。そしてそれこそがトレーナーと教師を分ける決定的な違いである。

 トレーナーと言う存在は、ある生徒がすでに何らかの目的を持っていて、かつその目的によって果たしうる結果が価値のある物事だと認識している前提で成り立つ。例えば、野球少年団のコーチは、少年団諸君が野球が好きで、野球を上手くなりたい、という前提で指導する。そしてコーチが教える事はHowの部分が大きいと思う。(付随的に協調性であったり精神面であったり成長に繋がる価値観を説く事もあるが)一方教師というのはむしろその価値のいかんについて、つまり野球とは何か?というWhatの部分を教える。ここで重要なのは、教師は野球がどういうものなのか?を教える事が出来るが、彼は生徒諸君に野球は面白いものだ、と教える事は出来ない。そして彼の出来ることの限界は、野球は面白いか?面白くないか?を生徒が選択する必要があるという必然性を説くというところまでである。この選択の必然性を説く、という事が明確さである。

 一応、原文に忠実にウェーバーの言う明確さについて言及しておこう。ある人がある目的を持っていて、ある不可避な手段によってそれが達成されるとする、しかし彼の立場上その手段はあまり好ましいものではない、そこで教師の教える事の出来る明確さというのは、そのある人が目的によってその手段を神聖化するか否かを選択する必然性を問う事であり、それが教師としての限界である。また教師は神聖化した場合としなかった場合の付随現象を説く事が出来るが、それ以上のこと、つまりそれによってどちらか一方を優遇し誘導する事は出来ない。
$Poquitous Innovation.-教職者の限界


 因みにウェーバーは明確さについて言及する前に教師にあってはならない事、についても言及している。それは生徒に教師自身の世界観や価値観を押し付ける事である。なぜなら教師としての客観性を失った時、教師は指導者や煽動家になってしまうからだ。指導者や煽動家は教壇に立つべきではない、なぜなら彼らは批判を受ける事を覚悟して街頭などに立ち演説をすべき人たちであって、もし彼らが単位や成績という権利をかざして彼らの価値観を生徒に押し付けようものならそれはとても卑怯なことである。もし究極的にそのような事が広まればナチズムのような思想も生まれるだろう。私は確かに教師というのは客観的で在るべきだと思う。そしてクラス内で彼による価値観の差別などはあってはならないと思う。しかし、それは今の学校の教育システムと完全に矛盾する。というのは今の教育システムが価値観を生徒に押し付けるところから始まっているからだ。

 義務教育というのは今の日本では中学までだが、それまでに絶対に知っておかなければならない知識、つまりそれが無いと生死に関わる、または生活が送れないというような知識はどれだけあるだろうか?むしろ知っていてもどうしようも無いような知識というのは多いのではないだろうか?またそんな雑学を試すような受験というものにも疑問を覚える。雑学というのは強制的に覚えるものではなく、欲する人に与えるべきものだ。であるからして、現在人々が将来自分の理想とするところに落ち着くまでに随分な遠回りを強いられている気がしてならない。教師は子供たちに将来の為、と言い受験を神聖化しているのではないだろうか?これは大学の空洞化にもつながっていると私は思う。身にならない知識ばかりをつけさせられ、受験によってステータスや立場を押し付けられ、人は自分を知らないし考えない。まったく私が偉そうに言える事では無いのだが、私自身受験などを経験しているときにそう考えていた。そしてとてつもなく不安だった、自分がこれに失敗すれば将来はどうなるのか、と。今はただあの頃もっと色んな好きなことを好きなだけやりたかった、と少し後悔している。

 とにかく今日本は受験という手段を神聖化するもので溢れている。そして受験以外の手段をとるものは例外を除けば自らの試行錯誤によって気付いた結果としてその道に進んでいるように見える。教師が意識的であれ無意識的であれ神聖化を促しているのであるならそれは教師としての職分を超えた行為である。
 ところでマックス・ウェーバーはこのように職業人が思いつきにより達成を目指す事を説いたわけだが、それらの職業人というのはどこか冒険者や開拓者の様な要素が見受けられる。しかし、果たして職業人というのはそのような冒険者や開拓者のみを指すのだろうか?当時のドイツの事情はあまり詳しくないが、彼の本の中では熟練工などと言ったような職業はどこか下の位、ステータスの低い職種の様に扱われていた。しかし、日本の場合は昔から刀鍛冶などの熟練した職人などがステータスなどを問わず尊敬の念を集めていた。どうやらここには日本独自の美徳が隠れているようだ。私自身熟練された、また洗練された技術、スキル、テクニックには何か芸術的な感覚を覚える。私が思うに職業人というのは作業や情熱の性質の違いで職人的(熟練工)であるか開拓者的であるかの色が分かれるのだ。

 では職人の場合の作業・情熱の性質というのはどのようなものか?先ほどの例に取った通り日本の職人として代表的なのは例えば刀鍛冶であったりする。刀鍛冶は毎日同じ様な作業を何十年も積み重ねた上で感覚的な要素によって洗練された技術を磨いていく、毎日同じ様な作業を繰り返すというのはまた決まった時間や場所で意識的な作業をするという事だ。そして昨日よりもより良い物を生み出そうとする。普通の人には昨日作った物と今日作った物の違いと言うのは一見してわかるものでは無いかもしれない。だが職人の目には違った風に見えるのでは無いだろうか?そして彼らの情熱によって求められるものはより良い物が作れたか作れなかったか、といった結果に注がれるように思われる。意識的な作業、より良い結果、それらの積み重ねが熟練に至るのではないだろうか?

 一方開拓者と言うのは日々目に見えて違った作業をしているように思える。地道な調査などと言ったことを別として、学問を開拓する研究者などはその時その時で考えすべき事を実践していくのでは無いだろうか?それらの作業は先ほどの職人とは違い何をすべきという意識が無い。よって無意識的な作業と言えるだろう。また彼らが情熱を注ぐ先には新たな発見を堪能するような快楽にも似た欲求が見受けられる。それらが思いつきを育み達成へといざなうのだろう。

 これら別々の職業人の性質らは作業や情熱の性質の違いによって発生したのでは無いのだろうか?それらを下にマッピングしてまとめてみた。

$Poquitous Innovation.-職人と開拓者の性質


 彼ら職業人を見る目は作業や情熱の性質に問わずそれらを一概に体験として認識する。また職業人としての性質も職人的であったり開拓者的であったりするのだが、それらも一概に個性として写るのだ。もし将来の職業について考えているのであればその職業の性質のようなもの、またそれによって達成されるうる事柄について考えてみるとまた別のアプローチが見えるかもしれないので是非一考していただきたい。私が前回、本質的にその職業から得られる体験を認識出来れば敢えて就職する必要は無いと言ったのは、つまりそういう事である。医者を志す人は本質的に医者という職業が人命を助けるという認識があるからでないだろうか?では人命を救助するという体験に主体を置いて考えると、彼が取るべき道というのは何も医者という職業に限定されるものでは無い。同じような知識を備えていたとしても、ある人は福祉や介護にまわったり、また災害ボランティアになる人もいるだろう。また特に一つの職業にとらわれず、その時その時で体験から得たフィードバックを元に思いつきであったり熟練であったりを経て新たな達成に向けて別々の趣旨の活動を行う者もいる。現在の日本ではどこか職業というものにとらわれ過ぎている感じがする。普段は営業のサラリーマンで会社以外の時間をバンドなどの趣味に費やしている人、というのはなかなか多いように思えるが、人によっては思い立った事を集中的にやりたい人もいるので、この一月はサラリーマン、この一週間はバンド、といったように活動の矛先をリアルタイムで変える事が出来ればその人の思う達成に向けてより効率的に近づけると思うのだ。自分は職人的であるからとか、開拓者的であるからとかで自分の性質を決め付けてしまっている人は是非1月ほど何もしないで過ごしてみてもらいたい。何もしなくて良いのだ、という感覚が一番外的な負荷を和らげる。すると主体的な目的が自然と芽生えるものだ。

 もちろん社会の一員として時には責任を感じる必要があるかもしれない、しかしそれは社会から押し付けられるものではなく、自ら請け負って初めて意味がある責任、つまり自己責任である。それは例えば社会貢献的な役割を担うときに発生する事が多いものだ(最終的によりよい社会形勢は自分へフィードバックする)。よって重要なのは誰かの為に、という外的な目的、そして自分の為にという主体的な目的、それらのバランスであると私は思う。