『ジーン・ワルツ』が、代理出産をしてもらう側からの話とするならば、『マドンナ・ヴェルデ』は、代理出産をする側からの話です。
だから、時系列は大体同じ。
出てくる登場人物も同じ。
ただ主人公が違うので、『ジーン・ワルツ』は自分の卵子を使って母親に代理出産をしてもらう理恵の話だし、『マドンナ。ヴェルデ』は娘の代理出産を受けた母親みどりの話なんです。

でも、これがまた後味が悪いんだな~。
だって、娘の言うままに何も分からず代理出産を引き受けた母親が、段々お腹の子が可愛くなり、人間としてどこか欠けている娘にこの子たちは渡せないって思って、離婚した娘の旦那に親権を主張しろと手紙を書き続け、出産した双子の一人を奪い取って育てるって話なんだもの。

代理出産を受けたものの、お腹の子供が可愛くなって渡したくなくなる気持ちは分かるんだ。
でも相手は自分の娘だよ?
自分の娘がどこか欠けているというのが分かったら、娘と一緒に住んで双子を育てりゃいいじゃん。
それが生まれてしまった子供たちに取って最善の道じゃない?
でも、彼女・みどりは、娘・理恵に子供を渡したらこの子たちが可愛そうと言って、娘の元旦那に「私は、あなたの子供を宿っているのだからあなたの妻です。妻として言うことを聞いて」というような手紙を書き、親権を放棄しようとしている元旦那に親権を主張させた。
すべて子供たちのためと言いながら、自分が子供を手放したくないだけ。
結局、最後には双子を分けるという方法を思いつき、一人は理恵が親権、もう一人は旦那が親権、でも旦那はアメリカで忙しいので、みどりにベビーシッターをしてもらうという契約を結び、双子は引き離された。

この著者は、この二つの本を通して色んなことを言っている。
ある時は「生殖医療は神の領域を侵している」と言い、ある時は「遺伝子が誰のかなんか問題じゃない。子供は社会の子であるべき」とも言っている。
時に相反する意見を、それぞれの登場人物を通して言わせている。
でも、「どんな形でこの世に生まれたとしても、すべてはその子供たちの未来のためにある」ということを一貫して主張してきたように思う。
なのに「双子を引き離して、めでたしめでたし」ってどうなのよ?
双子の一人は、出産した母親がベビーシッターさんだということを内緒にさせられ育てられる。
誰の子でも本人が知らなきゃいいみたいだ。みんな社会の子なんだし。
「これが新たな家族の創出」って、彼は言うけれど、要はどんな形を取ってでも自分の子供を産みたかった娘と、どんな形になってもお腹の子を手放したくなかったエゴの塊のような母親と娘の話に思えたよ。

決して、彼の扱っているモチーフは嫌いじゃない。
物語も面白い。
だけど、やっぱり出てくるキャラクターが嫌い。
自分の欲求に忠実で、「それの何が悪いの?自分の欲望を認めないあなたたちのが偽善者でしょ?」と開き直るようなキャラクターの集まり。
まあ、気分を害するなら読まなきゃいいだけの話なのだけど…。
こんなところでグダグダ悪口書いていてもしょうがないのだけど…。
感情的になってしまうほど、心が動く作品だったってことで、どうぞお許しください。
でも、基本『ジーン・ワルツ』のが面白いです。

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