※こちらのブログは下記の記事を翻訳したものです。 

Kids?Just say no

 

 

 

子供?お断りしましょう。

 

子供を作ることで与える害について理解するために、私たちは子供を嫌いになる必要はありません。そこには出産に対する道徳的な議論が存在するのです。 

 

By デビッド・ベネター ケープタウン大学の哲学学部の哲学学部長であり、生命倫理センター長でもある。彼の最新の書籍は「The Human Predicament: A Candid Guide to Life’s Biggest Questions (2017)」。 

 

 

 

2006年、私は「Better Never Have To Been」という本を出版しました。私は生まれることは常に深刻な危害であると主張しました。人々はいかなる状況下でも子供を生み出すべきではない−「アンチナタリズム」と呼ばれる立場です。読者からの応答としては、感謝の手紙や支援、それから当然、激しい怒りがありました。しかし私はこのようなメッセージも受け取ったのです。私が受け取った中で最も胸の痛む反応です。

 

 「私は学校で受けた深刻ないじめにより学校をやめなければならず、その深いトラウマ(心的外傷)に十代の頃からひどく苦しんできました。不幸にも、私は外見もひどく、外に出れば通常ほとんど毎日のように、私があまりにも醜いという理由で、知らない人からさえも、決めつけられたり、からかわれたり、侮辱されたりしています。私は、彼らが今まで見た中で最も醜い人物と呼ばれてきました。それに向き合い対処することは非常に難しいです。そして、それにとどめを刺すかのように、私は18歳の時に深刻な先天性心疾患と診断されました。20代前半の現在、私を殺す恐れのある重度の心不全や悪性の不整脈に苦しんでいます。私の心臓がほとんど止まってしまうことは何度もあって、私は日々、突然死する恐怖と向かい合っています。私は死の恐怖によってぼうぜん自失の状態であり、差し迫った死の苦痛

と苦悩は言葉で言い表すことはできません。私にはもうあまり時間がなく、その不可避の出来事はもうすぐ起こります。私の人生は純粋に地獄であったし、私にはもう何を考えたらよいのかさえ分かりません。確かなことは、誰かにこのような世界に生まれることを押し付けることは、すべての犯罪の中でも最悪のものであり、深刻な道徳の侵害だということです。もしこれが私の両親の利己的な欲求によるものではなかったなら、私は今ここで何の理由もなく苦しむことは全くなかったでしょうし、非存在の絶対的な平和の中で救われたのかもしれませんが、私は毎日ここで生き地獄を生きているのです。」 

 

 

誰もがこれらの言葉(許可を得て引用されているものです。)によって心を動かされてアンチナタリストになる必要はありません。一部の人々は、私のやり取りした相手の状況は例外的なものであり、アンチナタリズムに心を傾けさせるべきものではないと言いたくなる人もいるかも知れません。しかし、深刻な苦しみは稀な出来事ではないため、アンチナタリズムは少なくとも、真剣に取り上げられ、開かれた心で考慮されるべき視点なのです。 

 

アンチナタリズムの考え方は新しいものではありません。 ソポクレスの「コロノスのオイディプス」では、合唱隊が「生まれないことは、すべての判断を超えて最高のことである。」と力説します。伝道の書においても同様の考えが示されています。東部では、ヒンズー教と仏教の両方が、存在することへの否定的な見解を持っています(出生に反対するまでには至らなくても)。それ以来、様々な思想家たちが蔓延する苦しみへの問題を認識し、明確に出生に反対するようになりました。アルトゥル・ショーペンハウアーが最も有名かもしれませんが、ピーター・ヴェッセル・ザプフェ、エミール・シオラン、ヘルマン・ベッテルなどです。 

 

アンチナタリズムは、子供を作ることの根深い生物学的衝動に反するため、常に少数派の意見に過ぎないでしょう。しかし、アンチナタリズムはそのような不利な状況に直面しているという、まさにその理由から、思慮深い人々はそれを狂ったものまたは不快なものとして早急に退けようとするのではなく、一時停止して考えなければならないのです。アンチナタリズムは狂ったものや不快なもの、そのどちらでもないのですから。もちろん、アンチナタリズムの歪み、特にそれを強く押し付けるような試みは危険であるかも知れませんが、同じことは他の多くの意見にも当てはまります。適切に理解されるのであれば、危険なのはアンチナタリズムではなく、その逆の考えなのです。そこにどれほどの不幸が存在するのかを考えれば(すべての不幸は生まれることによって伴う結果なのです。) 、もしそこに出産に関する耐え難い軽率さではなく厳粛な考察があったなら、より望ましかったことでしょう。 

 

しかし、例えもし生命が純粋な苦しみではないとしても、生まれることは依然として、生殖は間違いであると言えるほどに、十分に有害なものとなり得ます。単純に言えば人生は殆どの人々が思うよりも遥かに悪いものですが、それが悲惨なもので

ある時でさえ、そこには生を評価する強力な動機があります。人々は、自分の人生が実は始める価値のないものであるかも知れないということを認識することなく生きているのかも知れません。 

 

人生は殆どの人が思うよりも悪いものだという示唆は、しばしば人々を憤慨させます。あなたは私の人生の質がいかに悪いか、よくもそんなことを私に言えるね!と。確かに、人生の質の良さは、自分で感じる良さの程度と同じであることに間違いないはずですね?つまり、自分で人生には悪いことより良いことの方が多いと感じているなら、どうしたらそれが間違いになり得ると言うのでしょうか?

 

これと同じ論理が、鬱状態や自殺願望のある人にはめったに適用されないのは不思議なことです。このような場合、殆どの楽観主義者は、鬱状態の人や自殺を望む人々の主観的評価が間違っているのではないかと考える傾向があります。しかし、もし人生の質を過小評価することができるのであれば、過大評価することもできます。実際の人生がどれほど良いのか悪いのかということと、その人がどう考えているのかということとを分けて考えれば、人々は現実について誤解をしているかも知れないということが明らかになります。人生の質を過大評価することと過小評価することはどちらも可能ですが、様々な認知バイアスの経験的証拠、特に楽観主義のバイアスは、過大評価がより一般的な誤りであることを示しているのです。 

 

 

破壊することは建設することよりも簡単である。多くの欲望は決して満たされない。

 

問題を慎重に考察すれば、良いことよりも悪いことが多いということは明らかです。良いことと悪いことの間には経験的な非対称性があるからです。たとえば、最悪の痛みの悪さは、最高の快楽の良さよりも強烈なものです。もしあなたがこれを疑うのなら、最大級の楽しみ1〜2分間と引き換えに、最悪の拷問を1分間、受け入れるかどうか、あなた自身に正直に尋ねてください。それから、痛みは快楽よりも長く続く傾向があります。味覚や性的な楽しみの儚い性質を、ひどい苦痛の永続的な性格と比較してみてください。例えば、背中や関節の慢性的な痛みなどがありますが、慢性的な喜びというものはありません。 (持続する満足感もありますが、不満感もまた持続しますので、この比較は快楽の優位性を優遇することはありません)。 

 

怪我は簡単にしますが、その回復は緩やかなものです。塞栓や弾丸はあなたを瞬時に倒すことができます。そこで、もしあなたが死んでいないとして、回復するのは遅いでしょう。学習するのには一生涯を要するのに、学んだことは瞬時に消失する可能性があります。破壊するのは建設するより簡単なのです。

 

欲望を満足させるとなると、物事の条件は難しくなります。多くの欲望は決して満たされません。そして、たとえ満足するとしても、それはしばしば長い期間、不満を経験した後のことです。また、欲望を満足させることは新たな欲求を導き、将来的にそれさえも満足させる必要が出てくるために、満足感は持続しません。空腹のような基本的な欲求を定期的に満たすことができると、より高いレベルの欲求が生じます。そこには欲望のトレッドミルとエスカレーターがあるのです。 

 

言い換えるとしたら、人生は絶え間ない努力の状態です。痛みの予防、喉の渇きを満たす、不満を最小限に抑えるなど、私たちは不快感を回避する努力を費やさなければなりません。私たちの努力が欠如すると、不愉快なことはいとも簡単に起こります。それがデフォルトだからです。 

 

人生が実際にうまくいっている時でさえ、それは理想と比べたら遥かに悪いものです。例えば、知識と理解は良いものです。しかし、私たちの中で最も知識が豊富で洞察力のある人でさえ、知ったり理解できることは、驚くほど僅かなのです。この場合もやはり条件はよくありません。仮に、長寿(健康な状態で)が良いことだとすればそれもまた、私たちの置かれた状態は理想的なそれよりもずっと悪いということになります。安定した90年間の人生は、10,000年または20,000年間生きる人生よりも、10年または20年間しか生きられないことに遥かに近いのです。現実は(殆ど)常に、理想には遠く及びません。 

 

楽観主義者たちは、これらの見解に対し、何食わぬ顔で答えます。彼らは、人生には多くの悪いことが含まれるが、良いことを得るためには悪いことが(何らかの形で)必要であると主張します。痛みがなければ怪我を回避できないし、飢えがなければ食事をしても満足できず、努力なしに物事を達成することはできないでしょう、と。 

 

しかし、多くの悪い出来事は明らかに不当なものです。先天性異常を抱えて生まれる子供たち、何千もの人々が毎日飢えて死に至ること、それから、末期患者を苦しめる激しい苦痛は本当に必要でしょうか?喜びを味わうために苦痛に耐える必要が本当にあるのでしょうか? 

 

良いことを理解するためには、もしかしたら悪いことが必要であると、たとえ思ったとしても、悪いことが起こらずに済むのならその方が良いということは認めなければなりません。つまり、もし私たちが悪いことを経験することなく良いことを手に入れることができるのなら、人生はより良いものになるのではないでしょうか。このように、私たちの人生は私たちが思うより遥かに悪いものなのです。ここでもまた、現実は理想よりずっと悪いということがわかります。 

 

さらに他の楽観主義的な返答は、私が不可能な基準を設定している、というものです。この反論によれば、我々の知的レベルと最長寿命が人間的に不可能な基準によって判断されるのは不合理であるというものです。人間の生は人間の基準によって判断されなければならないのだ、と彼らは主張するかも知れません。 

 

問題なのは、この議論が「人が無理なく期待できる人生とはどれくらい良い人生であるのか?」という疑問と、「人間の生はどれくらい良いものであるのか?」という疑問を混同しているということです。最初の質問に答えるのに人間の基準を採用するのは全く合理的です。しかし、2番目の質問に興味があるとすれば、そこに単に人間の基準を採用し、「人間の生は人間の生と同じくらい良いものである。」というような答え方をすることはできないのです。(類比:野生のねずみの寿命が通常1年未満であることを考えると、2〜3歳のねずみは本当によく生きたかもしれませんが、それはねずみとして考えた場合だけです。それはねずみが長寿であるということではありません。この点において、ねずみは、ホッキョククジラよりも悪い人間よりも、さらに悪いと言えるのです。) 

 

 

そのショーは途中で席を立つほど悪くはないかも知れないが、いかに悪いか知っていたとすれば、そもそもあなたは観に来ただろうか? 

 

前述のことをすべて踏まえれば、すべての人生は、良いことよりも多くの悪いことが包含されているという結論から逃れることは難しく、そしてそこに含まれるよりも多くの良いことが奪われているのです。しかし、生の肯定は強いものなので、ほとんどの人々はこれを認識することができないのです。 

 

この事柄についての一つの重要な説明は、彼らの人生は始める価値があるかどうかについて熟考することですが、実は(通常、無意識のうちに)多くの人々は異なる質問について考えます。具体的に言うと、彼らは、自分の人生は続ける価値のあるものかどうかについて考えるのです。なぜなら彼らは存在していない自分自身を想像するため、非存在への彼らの考察は、既に存在する自己を参照したものになるのです。そこから誤った方向に考えが導かれることは非常にたやすく、彼らは自己を失うこと、つまり死とは何であるかということについて考え始めるのです。生への強い衝動を考えれば、存在することは望ましいという結論に人々が達することは驚くべきことではありません。 

 

存在しない方がよいかどうかを問うことは、死んだ方がよいかどうかを問うことと同じではありません。存在していなければ、存在することへの関心はありませんが、一度存在してしまえば、存在を終わらせないことへの関心を持ちます。存在し続けることへの利害関心が覆されるほどに耐え難い苦しみで生を終わらせる悲劇的なケースが頻繁にあります。しかし、もし誰かの人生を、継続する価値がないものであると言うには、その人生における悪い出来事は、生き続けたいという関心を覆すほど、十分に悪いものである必要があります。それとは対照的に、はじめから存在しないものは、存在し始めることには関心がないので、私たちは、出産はしない方がいいだろうという主張をするために、わざわざ悪い出来事を考慮する必要はないのです。従って、続ける価値のない人生の質は、始める価値がない人生のそれよりも、よりいっそう悪いものでなければなりません。 (この種の現象は珍しいことではありません。例えば、その劇場での演劇は、途中で観るのをやめるほど悪くはないかも知れませんが、それがどれほど悪いかということを事前に知っていたとすれば、はじめから観に来なかったのではないでしょうか。) 

 

続ける価値のない人生と始める価値のない人生の違いは、アンチナタリズムがなぜ自殺または殺人を意味するものではないかを、部分的に説明します。たとえ人生が始める価値のないものだとしても、続ける価値のあるものになる場合はあります。もしも、人生の質が依然として十分に悪いものではなく、死にたくないという関心を無効にするようなことがなければ、現在および将来的な害が人生を始める価値のないものにするには十分であるにもかかわらず、生き続けることはいまだに価値があるのです。その上さらに、総合的に考えてそれがもし悪いものではなくなっても、死は不快なものなので、アンチナタリズムは殺人や自殺への反対同様に、生殖に反対する考えなのです。 

 

アンチナタリストが殺人に反対すべき、さらなる理由があります。そのうちの1つは、他者の人生が続ける価値のないものかどうかを、ある人が、判断能力のある他の人に強制してはならないということです。誰もが他人の問題について確信することはできないので、生きるか死ぬかは本人によって決定され行動されなければなりません。 

 

人生を始めることと人生を続けることの混同は、強い生の肯定が、人生が良いことよりも多くの悪いことを含んでいるということを見る人々の目を曇らせる唯一の理由ではありません。子供を持つことは、もちろん、困難な仕事ですが、人ができる経験の中で最も深く満足できることの1つであるというふうに大いに認識されています。生物学、文化、愛を理由に、多くの人々がそれを行います。それがどれほど有益で広く受け入れられているかを考えれば、出産が間違っていると見なすことは本当に難しいのです。 

 

出生に反対する議論は、私がこれまで主張してきた、存在することは決して存在しないことよりも常に悪いという見解に頼る必要はありません。深刻な被害を受ける危険性が十分に高いということを示すだけで十分なのです。 

 

ほとんどの人がそう考えるように、もしあなたも、死が深刻な危害であると思うなら、我々がそのような災難に苦しむリスクは100%です。死は生まれたすべての人に定められたものです。あなたが子供を身ごもった時、その究極的な被害がその子に及ぶことは単に時間の問題なのです。少なくとも乳幼児死亡率の低い時期や場所では、多くの人々は、出産のこの最悪の結果を目の当たりにしたことがありません。それはその恐怖から彼らを守るかもしれませんが、それでもなお、すべての出生を待ち受けているのは死であるということを知るべきです。 

 

 

私たちに起こり得るすべての不幸の累積的なリスクによって、その可能性はどの子供に対してもひどく不利な状況にある。 

 

死自体が悪いということを否定するエピクロス主義者を模範とすることを望む人もいるかも知れません。しかし、死それ自体を考慮しないとしても、そこには飢餓、レイプ、虐待、暴行、深刻な精神疾患、感染症、悪性腫瘍、麻痺など、すでに存在しているどの子供に対しても広範囲に降りかかる、恐ろしい問題があります。これらは人が死ぬ前に、膨大な苦しみを引き起こす原因となります。これから親になろうとする人々は、自分の子供にこれらのリスクを負わせることになるのです。 

 

リスクの規模は、地理的および時間的な配置や性別などによって異なります。たとえ、これらの変化し得るものを操作しても、一生涯のリスクを定量化するのはしばしば困難なことです。たとえば、レイプは実際より著しく少なく報告されますが、それがどのように過小報告されているかについては相反するデータがあります。同様に、単極性障害(鬱病)などの精神疾患に関する研究では、被験者の一部がまだ、後の人生において彼らに影響するであろう鬱病を経験していないため、一生涯に渡るリスクが過小評価されることは珍しくありません。たとえ低い推定値を見積もったとしても、人々に起こる可能性のある、あらゆる不幸の累積的な危険性において、その確率はどんな子供に対しても不利な状況です。癌のリスクだけでも相当なものです。: 英国では、およそ50%の人々がこの病気を発症します。もし人々が、出産以外の状況で、他人にそのような危害のリスクを負わせるとすれば、彼らは大いに非難されることでしょう。それと同じ基準が出産にも適用されるべきなのです。

 

前述の議論はすべて、出産が生まれる人に何をもたらすかという理由で出産を批判しています。これを私はアンチナタリズムの博愛主義的な議論と呼びますが、同様に、厭世主義的な議論も存在します。この議論の特徴は、生まれた人が(恐らく)及ぼすであろう害を理由に出産を批判することです。他者に重大な危害を加える可能性のある存在を新たに生み出すことは、推定的には間違った行いです。

 

ホモ・サピエンスは最も破壊的な種であり、この大量破壊は他の人間へ引き起こされています。人類はその種の起源以来、互いに殺し合ってきましたが、殺戮の規模(比率ではなく)は拡大しています(特に現在では人類の歴史の大部分のものより多くの人が殺されるため)。何百万人もの人間が殺されたその手段は、恐ろしく多様なものでした。彼らは刺し、切りつけ、鞭を打ち、吊るし、ガスを撒き、毒を盛り、溺れさせ、爆弾を落とします。人間はまた、迫害し、抑圧し、殴り、焼印を押し、不具にさせ、苦しめ、拷問し、レイプし、誘拐し、そして奴隷化するなどして、自分の仲間に恐怖を与えます。

 

楽観主義者たちは、将来の子供たちはそのような邪悪な加害者の一員になる可能性は低いと主張しますが、それは事実でしょう。少数の子供だけが人間に対する最悪に野蛮な加害者になります。しかし、それよりも遥かに大きな数の人類がそのような悪を手助けするのです。迫害と抑圧は度々、多くの人間の黙認または共謀を必要とするのです。

 

いずれにしても、人間が他の人間に与える危害は、人権に関する最も重大な違反行為に限られません。日常生活は不誠実、裏切り、過失、残酷さ、有害さ、苛立ち、搾取、信頼の裏切り、プライバシーの侵害で溢れています。たとえこれらの事柄が、殺したり、身体的に傷つけたりしない場合でも、心理的に深い傷を負ったり、その他の損害を引き起こす可能性があります。このような害については、様々な度合いで、誰もが加害者なのです。

 

普通の子供が他の人間に与える害が、アンチナタリストの結論を支持するのに十分であるということに、いまだに納得ができない人は、人間が動物に与える計り知れない害について考える必要があるでしょう。 630億以上の陸生動物、そして非常に控えめに見積もって、推定で毎年1,030億以上の水生動物が、人間の食用のために殺されています。その死と苦しみの総量は、実に驚異的なものです。 

 

 

もしも、人間と同じ規模で害をもたらす種が存在するとしたら、我々は、その種をこれ以上繁殖させるのは間違っていると考えるのではないだろうか。 

 

すべては、動物の肉や製品に対する人間の欲求を理由に引き起こされます。大多数の人間が共有する食欲によって、です。極めて控えめに見積もっても、すべての人間(ベジタリアンでもビーガンでもない人たち)は平均して、年間27匹、または一生涯に渡り、1,690匹の動物の死亡の原因となります。 

 

もしかしたら、ビーガンの子供たちを育てることによって、厭世主義的な議論に達するのをうまくかわすことができると、あなたは考えるかも知れません。しかし、たとえビーガンであっても、新しく生まれた子供たちはそれぞれ、人間が人間や他の動物に害を与えることで、環境破壊の一因となる可能性が非常に高いのです。先進国では、1人当たりの環境劣化問題への負担はかなり高いです。それは途上国では非常に低いのですが、そこでの遥かに高い出生率は一人当たりの蓄えを相殺します。

 

他の種が、もし、人間のように多くの害を与えた場合、私たちは、その種を新たに繁殖させるのは間違いであると考えるでしょう。ヒトの繁殖に関しても同様の基準を持つべきなのです。

 

これは、私たちがさらに飛躍し、種全体の「最終的解決(※ホロコースト)」を通じて人間を根絶しようとすることを意味するものではありません。人間はこの上なく破壊的ではありますが、種を全滅させようとすると相当の害を及ぼしたり、殺人に関する適切な禁止に違反するでしょう。多くの乱暴な夢想家たちが行ってきたように、それはまた、逆効果で、予防しようと試みるよりも大きな破壊を引き起こすかも知れません。

 

アンチナタリズムの厭世的な議論は、人間が害を及ぼすことだけではなく、善いこともできるということを否定するものではありません。しかし、その害の規模を考えれば、大抵の場合、善がそれを上回る可能性は低いと思われます。個々を見た場合には、害を与えるよりも多くの善を行う人がいるかも知れませんが、この点で、自己欺瞞の危険性を考慮すれば、出産を考えているカップルは、彼らが生み出す子供たちが稀な例外となることについては、特別に懐疑的であるべきでしょう。

 

コンパニオンアニマルを欲しがっている人たちが、新しく動物を繁殖するのではなく、生まれたことを望まれなかった犬や猫の里親になる方がよいのと同じように、子育てをしたい人は、出産するよりもむしろ養子をとるべきなのです。もちろん、そこには、親になることを望むすべての人の希望を叶えるのに十分な数の子供たちはいないし、望まれない子供を出産する多くの人たちがアンチナタリズムを真摯に受け止めるなら、さらに少なくなるでしょう。しかし、そこに望まれずに生まれた子供たちがいる限り、彼らの存在は、他者が新たに出産することに反対する、更なる理由となるのです。

 

子供を育てることは、それが生物学的に血の繋がった子であろうと、養子であろうと、満足感をもたらすことができます。もし、望まれずに生まれる子供の数がゼロになることがあれば、アンチナタリズムは、子供を作ることの道徳的な禁止を受け入れた人々から、子育てをする満足を奪うという結果を伴うことになります。しかし、それは私たちがアンチナタリズムを否定すべきであるということにはなりません。人が親になることで受ける利益は、出生が他者にもたらす重大な害を上回るものではないのです。

 

問題は、人間は絶滅するのかどうかということよりも、いつそうするのかということです。もし、アンチナタリストの主張が正しく、今後すべての状況が同じであるなら、絶滅は遅いよりもむしろ早く起こる方が良いでしょう。なぜならば、それが早ければ早いほど、より多くの苦しみや不幸が避けられるのですから。

 

 

 

 

Published by Aeon on: 19th October 2017

AD