あの震災の日から13年。

このブログでも何度か書いたと思いますが、私にとっての3.11は駐在したてのドイツの地で。

海が荒れたせいで約一ヶ月遅れた国際引越(船便)の荷物がやっと届く日でした。

現地で急遽購入した最小限の生活用品で暮らしていたので、正に待ちわびていた日。

当時ドイツ語なんて一言も話せない私が、仕事で在宅出来ない夫の代わりに言葉の通じない屈強な作業員さん達4名をひとりで対応する現実に武者震いしつつ

実家の誰からも応援メッセージが飛んで来ないのは慌ただしいであろう私を

邪魔しないためかな〜と思っていました。


ところが少しして、虫の知らせか、その日は触るつもりがなかったパソコンをふと立ち上げると

渡独前まで住んでいた京都の友人からメールが届いていました。


「関東地方で大地震が発生して、しかしまだ状況がつかめず、日本が大混乱にあります。

こんな連絡をしていいのかどうか迷いましたが、ご家族に何かがあったら大変だと思い

迷いながらも連絡しています。」


急いで日本の家族に連絡しましたが、つながりません。

引っ越し当日なのでテレビもついていませんし、あったところで詳しい情報が手に入るわけもありません。

血の気が引くとはこのことで、大げさではなく意識が遠のくのを感じましたが、その最中に

超大型トラックが自宅前に到着し、こちらがドイツ語を理解しないなど全くお構いなく

作業グループのリーダーの男性にドイツ語でまくしたてられ、

「リストと荷物の個数が合うように、君は俺たちが読み上げる番号の横にレ点チェックを入れてくれ」

と依頼主であるにもかかわらず役割を与えらました。

もちろん数字の読み上げはドイツ語です。普通に考えたら何から何までそんなバカな!ですが、

容赦なく荷物が運び込まれ、数字をドイツ語で叫ばれ、記入漏れしたり聞き取れなかったりしたら

思いっきり舌打ちをされ、その最中にも何度も日本への連絡を試みましたが、つながる事はありませんでした。

大地震はどこで起きて、実際どのくらい深刻なのか。東京は機能不全なのか、横浜は潰れたのか。

何もわからず何も考えられず、体は震え、その時の私が解決策として導き出したのが

「もしお母さんもお父さんもお姉ちゃんも死んじゃったなら、私も帰国して死ねばいいんだから」

でした。

馬鹿だし罰当たりだし、とんでもない考えだったと思いますが、私は精神的に極限状態にいました。

その後の事は以前も書いたと通りです。


私は被災していないどころか日本にもおらず、その後延々と続いた災害報道を目の当たりにすることもなかったのに、PTSDと言ったらあまりにも大げさでしょうか、、、今でも、東日本大震災のニュースを見たりすると手が震え出して、唾がうまく飲み込めなくなるような不思議な現象が体に起きます。

毎年3月11日には「与えられた人生を丁寧に生きていこう」と改めて思います。


さて、先週末に出張地から夫が帰国したのでヴェスパ🏍️でブーンと10分ほど。

臨港パークで海と空を眺め、冷たい海風に当たってリフレッシュしました。


ちょうど日本丸(練習船)がハンマーヘッドに入港していて、

4本帆船(日本丸)、海保の巡視艇、そしてベイブリッジという横浜らしい風景です。


水信のジェラートを寒風に耐えながら食べたり、

極寒!

でも気持ちが安らぎました。


東日本大震災においては、未だ約30,000人の方々が避難生活にあるそうです。

失った多くのものを取り戻すことができない苦しみが少しでも救われて欲しいですし、

能登地震はまだ復興へのスタートすら切れていないのが現実だと思います。


募金以外に個人に何が出来るのだろうかと

夫とよく話すのですが、いつも答えは

「人の痛みに少しでも敏感でいよう。丁寧に生きよう。今を幸せに生きよう。」

です。