グローバリゼーションとは、自由化と規制緩和によって国家秩序を融解させ、有機的統一体としての国家を、無機質で画一的な市場へと解体する過程である。


国家が国民を保護していたあらゆる規制を取り払い、外国企業が自由に経済活動を行える環境を作る。


グローバリゼーションに絡む全ての政策の背景には、このような市場化原理が存在している。


グローバリゼーションの思想的本質が国家の市場化にある以上、その目的が国民の福利向上であるはずはなく、その意図するところは徹頭徹尾、多国籍企業の自由な経済活動の保証による私的利得の最大化にある。


自由化・規制緩和を求める政策の真意は以下の通りである。


安い労働力を確保するために非正規雇用を拡大

人件費削減の為の長時間労働の抑制

フレキシブルな雇用調整の為の解雇規制撤廃

人件費下降圧力の為の外国人労働者受け入れ

あらゆる業種業態を株式会社化し、配当利益獲得機会を増やす

株主の力を最大限に強め、より効率的且つ確実に配当収入を得られる仕組みを作る

株主にとって魅力的な投資環境となるよう、企業統治の厳格化や株主代表訴訟の仕組みを作る

私企業が国家を訴えることの出来る条約を作る


等々


これらの真意は当然世論に対して直接的に語られることはない。


民主主義国家の建前上、法律を通す為には世論の支持という体裁が不可欠である為、これらの私企業の利益を第一とした政策は、マスメディアを通じて語られる際には必ず国民の利益であることを装って我々に対して紹介される。


労働時間ではなく成果に対して報酬を払う、雇用の流動性を促進する、外国企業の投資を呼び込むなど、苦しい正当化の詭弁が並ぶ。


また、このようなグローバリゼーションの教理を広めるために、個人の利益よりも、全体の調和や安定を最優先する日本的経営慣行の思想が徹底的に貶められるという点も見逃してはならない。


日本的経営慣行の思想は、私的利得の最大化を志向するグローバリゼーションの思想とは対極に位置するものであり、また、全体の調和と安定の為に、競争激化や格差の拡大を防ぐための政府の介入や規制を正当化する為のものでもある。


私的利得最大化の為にあらゆる政府の関与や規制を忌み嫌うグローバリゼーションの思想にとっては不倶戴天の敵でもある。


従って、日本の世論が抵抗なくグローバリゼーション改革を受け入れるためには、日本的経営慣行の思想は古臭く、封建的で、非合理的で、ナンセンスなものでなければならず、大多数の国民が反射的に日本的なもの=古き陋習、グローバリゼーション=進歩的で先進的というイメージを想起するようになるまで徹底的に概念の刷り込みを行う必要があるのだ。


グローバリゼーションの影響の強い新聞程執拗に日本的慣行を否定・批判する傾向があるのは決して偶然ではない。



最後に、グローバリゼーションの思想には、単に国家を経済的な市場へ解体するだけでなく、これに加えてもう一つ別の意図があるであろうことも見逃してはならない。


それは、ある国家の国家主義的・民族主義的精神の根絶である。


グローバリゼーションの思想では、経済にかかわる分野以外でも様々な政策がパッケージとなり、改革の為の方針を形作っている。


特に目を引くのは異常とも思えるほどの外国人誘致熱である。


外国人が医療を受けやすい仕組みを作る(外国人にやさしい病院を政府が顕彰することも検討されている)

日本の文化にはない家事使用人を持ち込み、外国人の雇用の受け皿にする。

建築や介護などに積極的に外国人を受け入れる

留学生を大量に受け入れる

国立大学の制度を変え、外国人でも学長になれるようにする

外国人の雇用を促進する

小学生から英語を学ばせ、国家試験にも難関英語試験を導入する


これだけ執拗に政府が外国人を日本の国内に入り込ませる為に精力傾けるのは明らかに度を越えているとしか言いようがない。


まるで将来的に日本をアメリカのような多民族国家に変質させることを意図しているかのようである。


本来、まともな政府であれば、第一に国民の利益を優先し、その利益を害さない範囲で外国人の処遇を検討するのが普通だろう。


自身の経済的便益の為に自発的に日本に来る外国人の為に、我々日本人の生活様式が変更されたり経済的な不利益(雇用の圧迫等)を被るのは本末転倒である。



さらに言えば、文化的背景が全く異なる外国人を大量に国内に入り込ませることは、国家の内側に深刻な内部分裂の危険を背負い込むようなものだ。


全く文化的背景を異にする人々が其々に自己主張をして譲らないような社会に於いては、法律に基づく司法的解決が唯一の利害調整の道である。


歴史的に民族としての共同意識を形成して来た日本人同士のように、個人の利害を超えた視点、全体の調和の観点から利害の一致を見出すことの出来る精神的前提が成り立たなくなる。


グローバル化は素晴らしく、外国人が過ごしにくい日本が異常と考えることは本当に正しいのか。

日本人の日常的な静謐を取りかえしのつかないほど毀損してまで受け入れる価値のあるものなのか。

多民族国家の特殊環境を単一民族国家の日本が受け入れる必要が本当にあるのか。

多人種混合社会が本当に人類一般にとっての望ましい姿なのか。

意気を通じた単一民族の共同体が望ましいという考え方が何故批判されねばならないのか。


我々は今一度根本に立ち返ってよく考えてみる必要がある。



私の個人的な見解では、日本はこれ以上多国籍化するべきではないし、日本人が歴史的に培ってきた調和と協調の精神を守り抜くためにも、国家民族主義的な価値観が復興し、グローバリゼーションの容赦ない圧力から国民の一体性と生活の安定を守るための政治的主張をしていかなければならないと考える。