10万人の虐殺 〜なぜ日本軍が犯人にされたのか? | 日本と中国の真実に迫る!

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長谷川です。


1945年2月に
フィリピンのマニラで大虐殺がありました。

国内外の一部勢力は、この10万人もの虐殺を日本軍の仕業だと吹聴しているようですが…


実は、すべてプロパガンダなのです。


まず…当時の状況を振り返ります。


フィリピンは1942年に日本軍により
アメリカの植民地から解放されます。


○フィリピンに大規模反攻を加える米軍


そして大東亜戦争末期の1945年1月、マニラが在るルソン島に連合国軍が上陸、
2月3日、アメリカ軍がマニラへ突入しました。


この時、マニラには約70万人近いフィリピン市民が残っていました。

しかし、アメリカ軍は、大規模な機動部隊も有していたため
史上空前の空爆、艦砲射撃でマニラに鉄の暴風を食らわせました。






市街地が灰燼と化すほど激しい砲爆撃でした。

そして…
1ヶ月程度で、10万人のマニラ市民が犠牲となりました。




○日本軍を裁き、米軍の責任を転嫁


このときの10万人の犠牲者は戦後、極東軍事裁判のマニラ法廷で
責任を問われました。


驚くべきことに!!

日本軍の司令官山下中将が裁かれたのです。


山下中将は、
「私は知らなかった。しかし、私に責任がないとは言わない」
感知していなかったにも関わらず、責任を認め、刑を受けたのです。




大岡昇平氏は、その著書で
日本軍による虐殺として裁かれたのは、
「米軍の行ったマニラ破壊を日本軍に転嫁するため」と述べています。


『レイテ戦記・下』(中公文庫版)より 大岡昇平著

彼(マッカーサー)はフィリピン解放を十分に果たした。
~軍事的拠点の徹底的砲爆撃という戦闘方式の結果、フィリピン人は家を焼かれ、多くの非戦闘員が死傷した。
~マニラは徹底的に破壊された。~ニミッツによれば、彼は自分の赴くところ、常に激戦地にならなければ気がすまなかった男だ。

この処置には、日本軍に強要された形式的なものであるとはいえ、対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒の意味が含まれていよう。
~そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった。破壊と放火はこれらの日本の部隊が行なったものだ、ということになっている。
そのため実際には責任がなかった山下大将が、不法な手続きによって絞首刑になったのだが、これは実際は米軍の行なったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためであった


(308・309頁)

レイテ戦記 (下) (中公文庫)/中央公論社

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○マッカーサー「これほど楽な戦いはない」

当時の日本軍は、兵力もほとんど残っておらず
艦艇もほとんど壊滅させられ、戦車、火砲などもほぼ有していませんでした。

マッカーサーは勝てる戦いを米軍の火力を総動員させ、マニラを破壊したのです。


『「マニラ海軍防衛部隊の悲劇」』より 峰尾静彦著
マッカーサーは「これほど楽な戦いはない」といったそうですが、マニラにおいても、
住民が日本兵の潜むのを見付けるとすぐに米軍に知らせ、すぐに猛烈な砲撃が始まり、
日本兵は逃げ場もなく物陰に隠れるだけだった、と当時の日本陸戦隊将校が回想しています。




・マニラ市民の虐殺を指令したマッカーサー



・マニラの記念碑。「空爆により悶え苦しむ様子」であることがよくわかります。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


マニラでの戦いは
日本兵の戦死が約1万6千人に対し、米軍は千人程度。
しかし、マニラ市民の死者は10万人を超えました。


この数字を見ても、後に伝えられた『日本軍の残虐な行為』が
プロパガンダによる死者数であることがよくわかります。


このプロパガンダの中で
「日本軍が赤ちゃんを放り投げて銃剣を刺した」という話が
そこかしこで語られているようですが…

これは中国大陸で伝わる子孫を根絶やしにするための虐殺行為として、古代から伝わるよくある方法だということをお伝えしておきます。


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