こんにちは。
長谷川です。
昨日、10月7日は
65年前、中国がチベットへ
軍隊を侵攻させた日でした…。
こんな日に「彼」がいたなら…
〇「チベットに不利」とはいえ話し合いに応じていた中国
1949年、建国しチベットを領土の一部だと宣言した中華人民共和国。
1950年3月、チベット政府代表団は
新しく成立した中華人民共和国と対話を行っていました。
チベット代表団は1950年9月にデリーで中国側大使の袁仲賢と会いました。
袁は
1.チベットの国防を中国の管轄とすること。
2.チベットが中国の1部であると認めること。
という2点の提案を伝えたのです。、
ついで代表団は、北京に赴いて
正式に同意を表明するよう求められましたのですが…
。
中国の要求を聞いたチベット政府は、
代表団に提案は受け入れないように指示を与え、交渉はこうして暗礁に乗り上げたのです。
〇突如、チベットへ軍事侵攻
そんな折
10月7日に中国兵は東チベットへと侵攻し、
8地点から「事実上」の国境を超えました。
目的は、チベット全土への侵攻ではなく、
チベット軍をチャムドで包囲殲滅し、
ラサ政府の思惑をくじき、その圧力下で北京に交渉者を送らせて
平和的にチベット編入を行う条約に署名させることでした。
このとき、解放軍は4万の軍隊で、8千のチベット軍に出血を追わせ
4千人のチベット人が亡くなりました。
〇全面侵略へ
翌年、1951年から中国は話し合うという選択肢は取らず
一方的な軍隊の派遣を続けます。
中国人民解放軍は、新疆方面、青海方面、チャムドの
3方面からラサに向けて進軍を始めます。
各地でチベット義勇軍との戦いが起きました
兵力・武力で圧倒する解放軍が次々に領土を拡大していきます。
中国共産党は、僧侶へ自己批判を迫り、次々と洗脳させていきました…
このとき、1950年に
彼がいたなら…
歴史は異なるベクトルに向かって突き進んでいたかもしれません。
歴史にイフはありませんが
彼を登場させてみましょう。
〇平和の使者登場!
あれ( ̄□ ̄;)!!
ヒトラーも打倒できると公言した彼が
やられてしまいました(x_x;)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
失礼しました。
呼んだ方を取り違えたようです…
本当はシールズを呼ぶところでした。
シールズのメンバーは
「中国がせめて来ても、酒を飲んで彼らと話し合って
止められる」と言っていました。
1950年、10月7日
シールズが、チベットにいたら
無辜の民が殺されなくて済みましたよね?
出典:ダライラマ法王日本代表部事務所、保守速報
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