キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に) -5ページ目

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

その直後だ。
ドアをノックする音が聞こえ、同時に院長のルパート・アンドリュースが入ってきたのは。
白衣に身を包んだ品のいい紳士は栗色の髪をしていて、そこには幾分白いものが混じっている。
年の頃は50代前半だろうか。
明るいグレーの瞳に穏やかな笑顔が印象的だ。
彼はホーウィット兄弟の父であるモーリスの同窓で、その縁もあってジェフリー、クリストファー、モニカはここに勤務している。
アンソニーやブライアンの指導医であるキルヒアイゼンの同窓でもあった。

「歓談中に申し訳ないね。実は今から帰宅するところなんだが、その前にどうしてもブライアンとアンソニーに話したいことがあってね」

二人の若者は姿勢を正し、何の話だろうかと互いの顔を見合った。
それでもルパートが切り出さないからアンソニーはすかさず挨拶の言葉を口にする。

「お目にかかるのは今日が二回目かと思います。ジェフ先生の結婚式でお会いして以来ですね。ご無沙汰しております」

はきはきした口調で話すアンソニーの聡明さを目の当たりにし、ルパートは満足げに頷いた。

「お元気そうで安心しましたよ」

微笑むブライアンのそばに歩み寄り、ルパートはそっと肩を叩く。
モーリスが亡くなって以来、彼を本当の息子のように思っているのだろう。

「いやいや元気でもないんだ。私も50を過ぎたからね。この病院は優秀な人材に支えてもらわなければ立ちいかない。勿論ジェフとクリスはよくやってくれてる。今や彼ら無しのアンドリュース病院なんて考えられないからね。だがここらでもう少し・・・」
「院長、大丈夫ですよ。はっきり言って頂いて。俺もクリスもへそを曲げたりしませんから」

言葉を選んで慎重に話そうとするルパートを気遣い、ジェフリーが横から口を挟む。
それに安堵したのかルパートは咳払いを一つして本題に入った。

「実はブライアンとアンソニーに折り入って頼みたいことがあるんだよ。研修医としてここに来る気はないか?ジェフの結婚式でも誘ったと思うが私は本気なんだ。この病院には若い君たちの力が是非とも必要だ。君たちさえ良ければ医師として研鑽を積む最初の場所にここを選んでほしい」

急な提案なのでアンソニーもブライアンもすっかり面食らってしまい、心の整理がつかないまま立ち尽くす。
キャンディも驚いて目を白黒させた。

「今まで頑張ってくれてたシニアレジデント(後期研修医)が都合でニューヨークを離れることになっちまってな。俺の結婚式のとき事情は聞いたかもしれないが」

ジェフリーの言葉を聞き、アンソニーもブライアンもルパートがその件について話していたのを思い出した。

「身に余るお話ですが指導医のキルヒアイゼン教授に許可を取りませんと・・・」

ブライアンが言いかけるとルパートは予想していたようににっこり笑う。

「それなら大丈夫。彼には話をつけてあるよ。引き継ぎが済み次第こっちに来ていいとゴーサインをもらった」
「もうそこまで・・・」

あまりの手際良さに二人とも顔を見合わせて感嘆のため息を漏らした。

「善は急げだ。優秀な人材は青田買いしておかなくちゃいけないからね」
「そんなに価値があると思いますか?僕ら二人に」

少々不安げにブライアンが尋ねると、その場にいた皆は大爆笑した。

(キルヒアイゼン教授の許可が出てるなら問題ないな。それに案じてきたローザさんはもうすぐ退院だし、これからは二コラとスタンレーがついてる。心配は要らない。足の悪いメイベルには最近ティモシーがつきっきりだし、彼女のことはこれからあいつに任せよう)

同い年の二人が少しずつ心を通わせ始めたらしい様子が初々しく、その姿がはるか昔のキャンディと自分に重なる。
心の奥に甘酸っぱい想いが流れた気がしてアンソニーの瞳は優しい色で満たされた。

(今まで気に留めていた一つ一つが、いい形で落ち着いてきたみたいだ。ボストンでの僕の役目はもう終わったのかもしれない)



心が軽くなった瞬間、ふと視線をずらすと幸せそうに微笑んでいるキャンディが見えた。
夢見るようなエメラルドの瞳はためらうことなく自分に向けられている。
それを認めた途端、心臓が踊り出した。
彼女が考えているだろうことと同じ夢を描いてドキドキする。

(キャンディ、君も思ってるんだろう?僕とブライアンがボストンからここへ引っ越して来たら・・・そしたらどんなに素晴らしいだろうって。同じ道を志し、努力を続けてきてやっと一緒に仕事が出来る。君と一緒にいられるならどんな苦労だって厭わない。今度こそすぐそばで同じ時を過ごせるんだ!)

晴れやかな笑顔でキャンディを見つめると、彼女は恥ずかしそうに下を向いた。
幸せのオーラが全身にみなぎっているのが分かる。
有頂天になって隣にいるブライアンの顔を見るまで、アンソニーは幸せの絶頂にいた。
どんより曇ったヘーゼルの瞳が何を訴えているのか、初めは全く分からなかった。
心はそれほどキャンディを求め、彼女と過ごす日々を思い描いてはしゃいでいた。
だが程なくしてアンソニーは悟ってしまったのだ。親友が浮かない顔をしている理由を。
直後、急に現実が襲ってくる。
それは奈落の底から頭をもたげ、ささやかな幸せをもぎ取っていく。

「気づいちまったようだな。俺だってホントは思い出させたくないんだ。でもぬか喜びはもっと酷だろう?」

申し訳なさそうに絞り出すブライアンの横顔が痛々しい。
部屋の中には電気が煌々(こうこう)と点いていて十分明るいのに、心には真っ暗な闇が幾重にも巣食う。
急に変化したアンソニーの表情にキャンディが気づかないわけがない。
今にも泣き出しそうなエメラルドの瞳は、必死で「どうしたの?」と訴えている。
ややあって彼女も気づいたのだろう。
ハッとした表情を浮かべた途端、目を哀しみ色に染め上げて俯いた。
ジェフリーもその場の空気を読み取り、アンソニーたちが何に悩んでいるのかを瞬時に理解した。

「院長、お話をお受けするのに一つだけ問題がありまして・・・」

うなだれたアンソニーを思いやり、代わりにブライアンが重い口を開くまで長い時間が流れた気がしたが、実際には二、三分も経っていなかったろう。

「いいよブライアン、その先は僕が説明するから」

意を決したアンソニーが相棒を遮るとブライアンは何も言わず目で頷いた。

「実を言うと僕には婚約する予定の相手がいまして――僕と同じハーバード大病院のレジデントなんですが・・・」

そう切り出すとルパートは「ああそうだった」と言い、先を続ける。

「知ってるとも。ニューヨークタイムズに写真入りで大きな記事が出ていたのを思い出したよ。知的で美しい女性じゃないか。彼女をボストンに残してここへ来るのは辛かろう。これは迂闊だった。なんて無粋なことを私は・・・」

直後、何を思ったのか「じゃあ分かった、こうしよう」と両手をポンと叩きルパートは満面の笑みを浮かべる。

「ボストンに帰ったら彼女とよく相談しなさい。もし許してくれるならこの病院で研修するも良し、ハーバードに残るも良し、いずれにせよ君に任せよう」

そしてアンソニーのそばへ来ると肩を軽く叩き、「全く君は隅に置けない男だな。あんな美人をどうやって口説いたんだ?」と冷やかし始める。
何も知らないルパートが冗談半分でからかうのは無理もないが、アンソニーにしたら引きつった笑いを浮かべるのが精いっぱいだ。
気の利いた返事をしなければと気ばかり焦るが、まともに口を利くことさえ出来ない。
見ればキャンディの瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
そばにいるブライアンも彼女の様子に気づき、あまりに気の毒だと思ったのか、アンソニーの代わりとばかりにそっと手を伸ばして院長に気づかれないように背中を撫でてやった。
エメラルドの瞳から涙が一滴(ひとしずく)、頬を伝って床にこぼれ落ちる。

「いけませんよ、若い者をそれ以上からかっちゃあ。さあさあ俺も引き揚げますから院長も一緒に出ましょう」

半ば強引に腕を掴み、ドア口までルパートを引っ張っていくとジェフリーは残った三人――アンソニー、キャンディ、ブライアン――に目配せし、静かにドアを閉めた。

「兄貴の奴、たまには気の利いたことするじゃないか」

部屋中に広がるどんよりした空気を一掃しようと、ブライアンは大袈裟なくらい明るいトーンで言う。
だがキャンディはそれでも顔を上げられず、ずっと下を向いたままだ。
もし正面を向いたらアンソニーに涙の跡を見られてしまう。
これ以上心配をかけまいと、理性が涙を押しとどめた。

「ボストンに帰ったらフェリシアを説得してみるよ。彼女ならきっと分かってくれるはずさ。ハーバード以外で研修することが将来どんなにか役立つって」

アンソニーはキャンディのそばへ行き、そっと髪を撫でた。
どんなに必死でこらえても涙は頬を伝って落ち、嗚咽を飲み込むのがやっとだ。

「ごめんなさい。私、みっともないわね、泣くなんて」
「大丈夫。フェリシアは分からず屋じゃないからきっと笑顔でニューヨークへ送り出してくれるよ。彼女は女であるより先ず優秀なレジデントだからね」
「そうそう、こいつの言うとおりさ」

少しでも元気づけようとブライアンも相棒に加勢する。
アンソニーは尚も赤みがかったブロンドを撫で、俯いたままのキャンディをそっと覗き込んだ。

「じゃあ俺、一足先に引き揚げるから。今夜は兄貴の家に泊めてもらうんだ。君はどうする?」
「僕はアーチーのアパートに泊る。大勢で押しかけちゃジェフ先生もレイチェルも迷惑だろうし」
「そんなことはないだろうけど・・・。分かった、君の好きにしろよ」

ブライアンはアンソニーに向かってウィンクしながら親指を立て、「上手くやれよ」とばかりに good luck の合図を送る。

「じゃあお二人さん、お先に」

出て行こうとするブライアンを見てキャンディは慌てて顔を上げ、赤くなりながら会釈した。

「さあ僕たちも帰ろうか。寮まで送ってくよ。もう遅いからね」

耳元で優しい声が聞こえた瞬間、アンソニーの手がそっと肩に触れた。

「心配しないで。全ていい方向に進むさ。アンドリュース病院で研修するチャンスを神様は僕にプレゼントしてくださると思う」

サファイアの瞳が揺れて水晶体にキャンディの顔を映し出す。

(ダメよ、そんなふうに私を見ちゃ。だってあなたにフェリシアがいることを忘れてしまいそうだもの)

その直後、体がフワッとしたかと思うと、自分がアンソニーの腕の中にすっぽり収まっていることに気づいた。
それはまるで羽根で包まれているような柔らかくて穏やかな感触。
熱い抱擁ではないのに、こんなにも愛され、護られているんだと分かって益々彼が愛しくなる。
離れたくない!たとえ互いに婚約者がいようと。

だからしがみつくように体を寄せる。
アンソニーも同じだけの情熱で抱きしめてくれた。
そしてブロンドのくせ毛を撫でる手の動きが止まった直後、彼は優しいキスをそっと前髪に落とした。
だがそれはほんの一瞬の出来事。
自分の振る舞いが周囲にどんな影響を与えるか十分理解している彼は、それ以上の踏み込んだ行為に出ることは決してなかった。

「ごめん。こんなことしたら困っちゃうよね。今のはテリィからだと思って」

そう囁くとアンソニーは腕の力を弱めてキャンディを自分の体からゆっくり離した。
彼女の目の前には少し照れた青い瞳。

「さあ、今度こそ行こうか。長居すると病院に迷惑がかかるし」
「そうよね、もう帰らなくちゃ」

やっと笑顔になったキャンディは先を歩くアンソニーの背を追って出口へ歩いて行き、彼が開けてくれたドアから廊下へ出た。
薄暗い空間が眼前に広がる。

そこは部屋の中に比べて照明が落としてあった。
窓から外を眺めると、かなり夜が更けたことに気づいた。
少し離れたところから靴音が聞こえてくる。誰かいるのだろうか。
初めは目を凝らしても顔が判別出来なかったが、程なくジェフリーだと分かる。
向こうも気づいたらしく、親しげに声をかけてきた。

「おお、二人ともまだいたか。ちょうど良かった。探してたんだ。テリィが迎えに来てるぜ。さっき稽古が終わったそうだ」

キャンディは「わざわざありがとうございます」と頭を下げ、アンソニーは手を挙げて了解の合図を出した。
それを確認したジェフリーは来た道をまた戻っていく。

「テリィ、来たんだ。僕が送るまでもなかったね」

心なしか寂しげな声にキャンディの声が重なる。

「今夜はあなたに送ってもらいたい気分だったわ。あ、でも心配しないで。今夜だけだから」

いたずらっぽくウィンクした後、「じゃあおやすみなさい」という声が続く。

「おやすみ、キャンディ」

優しい声が応える。

「僕は明日ボストンへ帰るよ。でもすぐ戻ってくるつもりだ。フェリシアを説得して必ず戻る。アンドリュース病院の研修医としてね」
「待ってるわ、きっとよ!」

涙がじんわり滲んできたのに気づかれないよう、キャンディは大袈裟な笑顔を作る。
そして振り向かずにテリィが待つエントランスへと歩き出した。




眠れない夜を過ごした翌朝、夜勤明けのモニカが帰宅したので、キャンディはよく冷えたレモネードをグラスいっぱいに注いで彼女の前に差し出した。

「聞いたわよ、ジェフ兄さんから」

待ちきれずにモニカが食いつく。

「アンソニーとブライアンがアンドリュース病院の研修医に誘われたんですって?」
「随分と早耳ね~」
「そりゃそうよ、一応ジェフとブライアンの妹ですからね。情報はそこら中から入ってくるわ」
「全く・・・あなたには隠し事が出来ないってことね」

モニカは勝ち誇ったような顔をしてウフフと笑う。
思えば彼女には今まで説教され続けてきた。
テリィと婚約していながらいつまでもアンソニーに未練を残しているなんてどうかしてる・・・とかなんとか。
今日こそはとびきり大きな雷を落とされるだろうと覚悟していたから、意外な言葉が彼女の口から飛び出した途端、拍子抜けした。

「何だか運命を感じたのよ、今回の話を聞いて。確かに私はテリィだけ見つめるべきよってずっと言ってきたけど、ことあるごとにアンソニーが現れたじゃない?今度こそお別れって思うのに、暫くすると再会しちゃうのよ。それを一体何回繰り返したかしら。極めつけがこの話。とうとう同じ職場で働くことになっちゃいそうでしょ?だから思ったの。もしかして運命の人はアンソニーのほうじゃないかって」

目を丸くしてモニカを見つめるキャンディ。

「だとしたら応援すべきなんでしょうね、あなたの親友として」

観念した様子のモニカは肩をすぼめてペロッと舌を出した。

「でもアンソニーは婚約しようとしてるのよ。なのにずっと追いかけるなんて、それこそ人の道に外れたことになるんじゃないかしら」
「婚約するって報道されただけで、まだしたわけじゃないわよね?そんなの、正式な婚約とは言えないわ」
「そりゃそうかもしれないけど・・・」

「それにアンソニーは本心から婚約したいと思ってるわけじゃないでしょ。そんなこと、キャンディは百も承知のはずよ」

それでもまだ不安げな顔つきのキャンディを覗き込むと、モニカは肩にそっと手を置いた。

「自信持って!アンソニーがあなたを好きでいてくれる限り、きっと奇跡は起きるわ。だから諦めちゃダメ。運命の赤い糸は最後の最後できっと二人を結び付けてくれるはずよ」

黒褐色の瞳に窓から日が差し込み、温かくキラキラと輝いた。
今までさんざん説教されてきたのに、アンソニーの件で初めてモニカに励まされたことがこんなにも嬉しい。
感極まった緑の目からは熱い涙の滴が一つ二つ滲んでは頬を滑り落ちた。

「運命を信じましょ。お互いにね」

モニカの励ましにキャンディは大きく頷き、涙の跡を指で拭った。

「あなたもきっと幸せになれるわ、クリス先生と」
「勿論よ、私は信じてるんだから。いつかあの人が私を女として見てくれる日が来るって」

キャンディはたまらなくなり、彼女の両手を取ってしっかり握りしめた。

「約束よ!私たち絶対幸せになりましょう」

モニカも頷く。睫毛にいっぱい涙をためながら。





同じ時刻、アンソニーはアルバートのオフィスにいた。
フェリシアとの婚約騒動の直後、慌ただしくシカゴを発ち、ポニーの家を訪ね、僅かな時間の滞在の後ニューヨークへ向かい、到着するなりスタンレーの事件があった。
後日アルバートのオフィスを訪れるには訪れたが、キャンディやテリィやアーチーが同席していたので突っ込んだ会話はおろか、妙な空気に呑み込まれて険悪なムードになってしまった。

列車は夕刻の出発だから、まだいくらか時間がある。
だからボストンに引き揚げる前に是非とももう一度顔を見たかったのだ。
他の全てに優先してアルバートと話す時間を大切にしたいと思った。
ほんの少しでいいから叔父とのぎくしゃくした関係を修復してボストンに戻りたかった。



接客用の簡単なテーブルセットにコーヒーを運ぶとアルバートは甥に声をかけようとした。
黙って窓辺に佇み、マンハッタンの街並を見つめる横顔に真昼の太陽が光の筋を長く伸ばしている。
照らし出される端正な顔立ちも、すっと伸びた背筋も広い肩も、アンソニーがとっくに少年を卒業して自分と同じ土俵に上っていることをアルバートに痛感させた。

(改めて思うよ。君はもう子供じゃない。そんなことは重々分かってたつもりなのに不思議なもんだな。今も真っ先に浮かんでくるのは必死でローズマリーを追いかけていた無邪気な笑顔だ。僕の中のアンソニーは永遠に歳を取らない愛くるしい幼子のままなんだ。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。成長して一人前の男になった君と争いたくないだけなのかもしれない。僕らが同時に好きになってしまった『彼女』を巡って)

複雑な思いが甥に届いたはずはないのに、ハッと我に返って窓辺を見たらアンソニーが凛々しい瞳をじっとこちらに向けていた。

「忙しいのにすみません、僕のために時間を割いてもらって」
「水臭いこと言うなよ。ちょうど話したいと思ってたところなんだ。スタンレーの件は本当にすまなかった。僕がもっと早く探偵を雇って探らせていたら君を悩ませることは無かったろうし、延いてはフェリシアと婚約するなんて話は挙がらなかったろう。迂闊だったよ。許してくれ」

 

申し訳なさそうに平身低頭する叔父を見たアンソニーは、元の姿勢に戻ってもらおうと慌てて駆け寄った。

「そんなことしないでください!悪いのはアルバートさんじゃない。誰も気づかなかったんだから仕方ないんですよ。まさかレイモンドがスタンレーだったなんて」
「本当に驚いたよ。彼に一本取られたな、我々アードレー家は」
「悔しいですけどね」

アンソニーが苦笑する。

「フェリシアと言えば、彼女との婚約騒ぎの後、慌ただしくシカゴを発ってそれっきりだろ?あれから無事にポニーの家へ行けたのかい?」
「勿論ですよ。アルバートさんが機転を利かせて連絡してくれたおかげでポニー先生は僕が訪ねていくのを待っていてくれました。凄く助かったなあ」

アンソニーが笑顔で礼を言うと、「それは良かった」とアルバート。

「いいところだったろう?」
「感動しました。周りの景色は絶品だし、先生方は優しいし、子供たちはみんないい子だし。何だか懐かしくてあのまま住みついちゃいたいくらいでしたよ」
「そんなことになったらブライアンがすっ飛んで行くだろう。君を連れ戻しにね」

瞬間、大きな笑い声が部屋中に響き渡り、二人は親しげに視線を合わせる。

「勿論ポニーの丘には登ったろうな?」
「そりゃあもう!じゃなきゃ、行った意味がないでしょ」
「違いない」

再び笑い声が広がる。

「で、どう思った?」
「想像どおりでした。緑が濃くて草の香りが心地良くて、胸いっぱい空気を吸い込んだら嫌なことなんかみんな忘れて心が満たされていくのを感じましたよ。それに目を閉じたら、幼い日のキャンディが無邪気にはしゃぎまわる姿が浮かび上がりました」

夢中で話す甥にアルバートは目を細める。
一方のアンソニーはポニーの丘の懐かしい情景に浸ると同時に、ほんの僅かだが息苦しい威圧感を覚えていた。

(丘の景色を思い出すと確かに幼いキャンディが目に浮かぶ。でも彼女だけじゃないんだ、頭に浮かんでくるのは。その傍らで6歳のキャンディを愛しげに見つめる「王子様」の姿も一緒に見えてしまう。あれは・・・まだ少年だったあなただ)

そう思った瞬間、サファイアの瞳は棘のある視線を叔父の横顔に注いだ。
それはアンソニーが得も言われぬ不安を覚えた初めての瞬間だったに違いない。
これから先、今までどおり仲のいい叔父と甥として向き合っていけるのか。
最も近い血縁でありながら、同時に恋敵として関わる宿命にあるのではないか――そう思ったら途端に胸が痛くなった。
髪を掻きむしりたくなるほど切なくなった。

(何だかおかしな気分だ。恋のライバルも何も、キャンディのフィアンセはテリィじゃないか!僕もアルバートさんも彼女の手を取る立場にないのに、どうしてこんなに意識するんだろう)

敢えて恋敵というならそれはテリィだろう。
なのにテリィの存在を通り越し、全く別の人物を恐れている自分が不思議でならない。
その後冷静さを取り戻す瞬間が訪れ、一体何のためにここへ来たのかアンソニーはやっと思い出した。

「そうそう、大事なことを言い忘れてました。今日お邪魔したのはそれを知らせるためだったのに」
「どうしたんだ?」
「実は昨日、アンドリュース病院の院長に言われたんです。ブライアンと僕に研修医として来てくれないかって」

寝耳に水とはまさにこのこと。アルバートは聞いた途端、脳天をかち割られたような感覚に襲われ、目を白黒させた。

「つまり君ら二人がボストンからニューヨークへ引っ越して来るのかい?」

「そういうことになりますね」

叔父の青い目がほんの少し曇ったと感じたのは気のせいだろうか。

「じゃあフェリシア嬢はどうするんだ?」

やはりそう来たか――覚悟していたかのようにアンソニーは身構える。
そして深く息を吸い込んで吐き出した後、言葉を選びながら静かに話し始めた。

「ボストンへ帰ったらすぐフェリシアに相談してみるつもりです。もし拒まれたらハーバードに残る――それだけの話です。彼女を傷つけてまでアンドリュース病院に来たいとは思わないし、またそうするべきじゃない。婚約を決めたのは僕自身ですから。自分の取った行動に責任を持つのは男として当然でしょう」

矢のような鋭い視線が向けられた気がしてアルバートは一瞬たじろいだが、甥の決意が揺るぎないものだと悟ると、年長者らしく冷静に穏やかな笑顔でアンソニーに向き合った。

「君らしい立派な覚悟だな。僕だって本当はニューヨークに来られるように応援してやりたいよ。でもさっき自分で言ったとおり、婚約を決めたのは他ならない君自身だ。こうなった以上、簡単にフェリシアを見捨てることは出来ないだろう。君が誠実であればあるほど」
「分かってます」

そう一言だけ応え、アンソニーはゆっくりと目を伏せた。

「心配するな。もし君がボストンを離れられないとしても、キャンディはテリィと僕でしっかり支えていくから」

肩をポンと叩き微笑む叔父を思わず見上げた。
まさか・・・という感覚が全身を支配し、暫くはアルバートの青い目から視線を逸らすことが出来ずにいた。

(テリィと僕で支える?どういう意味だ。キャンディを護るのはフィアンセであるテリィの役目じゃないのか)

思えば昨日もアルバートは同じようなことを言っていた。
あのときはテリィもアーチーも同席していて、二人とも腑に落ちない表情を浮かべていたっけ。

本当は他意などなく、アルバートは思ったことを素直に言っているだけかもしれない。

だが言外に隠れた意味が含まれているのではと、いちいち勘ぐってしまう。

 

一体どっちなんだ――本心をそのまま言っているのか、それとも裏があるのか。

叔父の真意が分からない。分からないから怖い。
彼は何を思っているのか、キャンディをどうしようとしているのか、考えれば考えるほど底なし沼にはまっていく気がして心が震える。
アンソニーは不安に押し潰されそうになり、瞳はうつろに揺れた。
そんな甥の気持ちを察したのか、アルバートは陽気にウィンクして再び肩をポンポン叩く。

「忘れてもらっちゃ困るよ。僕はキャンディの何だっけ?」

あっという顔をする甥に、「父親が娘を護るのは当たり前だろう。あの子は昔から苦労のしどうしだった。だからこそ幸せになって欲しい。それだけのことさ」とアルバート。

「分かります。よく分かってますよ、アルバートさんの言いたいこと」

アンソニーも大人の男として、努めて穏便に微笑で応える。

「さあ、あっと言う間に汽車の時間が来る。ブライアンやローザさんたちをやきもきさせたらいけない。そこのコーヒーを飲んでから出発しよう。車で送るから」

いつもどおりの愛想のいい顔で促すアルバートは少しも変わらぬ優しい叔父だ。
だがその優しさを却って怖く感じるなんて、何という皮肉だろう。
若輩者の狭い了見などとっくに見透かされている気がして悔しささえ感じた。
「叔父以外の顔」をアルバートの中に見つけてしまった今、昔のように無邪気に頼ったり甘えたり出来なくなるだろうことがアンソニーはたまらなく切なかった。






車でストラスフォードに戻ると、打ち合わせどおりローザと二コラが待っていてブライアンも合流した。
これから四人でグランドセントラルステーションへ向かい、ボストン行きの列車に乗る。

「キャンディには会わなくていいのか」というブライアンの問いに、「話は夕べのうちに済んでるから」とアンソニーは答えた。


しばしの別れを惜しむため、母と妹を見送りにスタンレーも顔を見せた。
本当のところ、彼の一番の目的はもう一度アンソニーに詫びることなのだろう。
目を合わせるなり、スタンレーは深々と頭を下げた。
その態度は誠実そのもので、今まであれほどの悪事を仕掛けてきた悪魔のような青年の面影は微塵も感じられない。
もし彼が初めからこういう人物だったなら、あるいはフェリシアと婚約することにもならず、今頃はキャンディの手を取って共に人生を歩き始めていただろうか――ふとそんな思いがアンソニーの脳裏をかすめた。

「母上や妹さんとゆっくり話が出来たかい?」
「ええ。まさかこんふうに再会出来るとは夢にも思っていませんでした。それもこれもみんなあなたのおかげです」

恐縮するスタンレーに、「そんなことないさ。照れるじゃないか」とアンソニー。
いつの間にか現れたテリィまでアンソニーを冷やかし始めた。

「今をときめくレイモンド・ブラッドリーがこんなに気を遣う相手なんて恐らく君くらいさ。ありがたく貰っとけよ、感謝の気持ちを」

スタンレーはテリィにも最敬礼し、決意に満ちた口調で切り出す。

「あなたにもいろいろご迷惑をおかけしました。申し訳ないと思っています。僕がここまでのし上がってこれたのは、前を行くあなたの背を夢中で追いかけたおかげなんです。きっと一人では何も出来なかった。星の数ほどいる団員の中に埋もれて、今頃は昔のようにまた街をさ迷っていたかもしれません」
「おっと!そこまでだ。お前に謙遜は似合わないぜ。俺がいようがいまいがレイモンド・ブラッドリーはストラスフォードのトップに立ってたはずさ。それだけは太鼓判を押す」

前髪を掻き上げながらテリィがいつもどおりのキザな笑いを浮かべると、スタンレーはもう一度「大先輩」に頭を下げる。
そして姿勢を正すとアンソニーにもテリィにもブライアンにも聞こえる、よく通る声で高らかに宣言した。

「実は・・・今度上演される『ヴェローナの二紳士』を最後に、『レイモンド・ブラッドリー』を卒業しようと思ってるんです」

全員が「え!?」という驚きの表情になる。

「どういうことなんだ」

動揺を隠せないテリィの問いかけに、「ストラスフォードを辞めて渡英しようと思うんです」という答えが返ってきた。