第七部・第四章・5(スタンレーの旅立ち、テリィの覚悟、フェリシアの動揺) | キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

キャンディキャンディ長編二次小説(バラの薫る季節に)

アンソニーメインの二次創作・ファンフィクション「バラの薫る季節に」を掲載しております。

「シェークスピアの本場で演劇を一から学び直したいんです。若さと運だけでここまで来た僕には、役者としての基礎が何一つとして身についていない。今まではそれで良かったかもしれませんが、いつまでも20代じゃいられませんからね。ここらで本腰を入れて将来のための足場を築きたいんです。本名のスタンレー・ヘイワードに戻って。そうでなければあと数年で僕は干されてしまうでしょう」

その顔は強い決意にみなぎり、キラキラ輝くプルシアンブルーの瞳は眩しいほど奇麗だった。
思えば今までの彼は本当のスタンレーではなく、周りを欺く仮の姿だったろう。
稀有な色合いを呈する虹彩は本来なら類まれな美しさを放つはずなのに、歪んだ復讐心とよこしまな欲望のせいで檻がたまったように不気味な光をたたえていた青い目。
邪心が奇麗さっぱり取り除かれた今、初めてこの男の真の姿を見れた気がした。

「お前、本気で演劇が好きなんだな」

テリィが目を細める。

「はいいや・・・正確に言うと、いつの間にか本気になってました。初めは金儲けの手段にしか思ってなかったのに」
「良かったじゃないか。たとえ偶然でも天職に出会えて。演劇界にとっても幸運だったと思うぜ。人気、実力、容姿とも申し分ない本物を世に送り出せて。なぁに、きっかけなんてどうでもいいのさ。お前の芝居が数知れないファンの心を震わせてきた――大事なのはその一点だけだよ」

アンソニーも笑みを浮かべ、「テリィの言うとおりだ」と言いながらスタンレーの肩をポンと叩いた。

「そう言って頂けるとホッとしますよ。そうそう、この件を母と妹に話しましたが、二人も僕と一緒に渡英したいと言ってます。向こうには弟のフランシスもいますから。これで漸く、本当に十何年ぶりかで一家が顔を揃えられます」

見るとローザも二コラも嬉し涙を浮かべている。

「良かったですね、本当に」

ブライアンはいたわるように、両脇にいる二人の肩にそっと手を置いた。

「もっともそう簡単にフランシスと会えるかどうか疑問ですけどね。なんていってもあいつは誇り高き公爵家の跡取りですから。僕らとは身分が違う・・・」

珍しく弱気な表情を浮かべるスタンレーにアンソニーが活を入れる。

「そんな顔するな。もっと弟を信じてやれよ。血のつながりは生涯消せない最強の絆なんだ。公爵家だろうがなんだろうが関係ない。むしろ離れて暮らした年月が長いほど彼はヘイワード家を懐かしく思ってるはずさ」
「そうでしょうか」
「当たり前さ。現にここにも公爵家出身者がいるけど、お高く留まって特別な生き方をしてるわけじゃない。それは君が一番よく知ってるだろ?」

言うなり、アンソニーはテリィに向かってウィンクした。
いきなり引き合いに出され、少々照れ気味に「公爵家の人間がすべて排他的とは限らない。フランシスだっていい奴に決まってる」とテリィ。

「よし!お前の留守中は俺がしっかり主役を張ってやる。ショーン・マコーレー率いるローゼンバーグ劇団に出し抜かれないようにストラスフォードを護る。約束するよ」

先輩の頼もしい一言にスタンレーは膝につきそうなほど深く丁寧に頭を下げた。



アンソニーはローザ母娘に歩み寄り、優しく二人をハグした。
ローザは既に涙目になっている。

「なんとお礼を申し上げて良いか・・・。先生にお会いできて私の人生は大きく変わりました。死を覚悟して病院のベッドに横たわっていた日々が嘘のようですわ。あなたは私の病気を治してくださっただけでなく、息子を解放し、広い心で赦してくださいました。私たちが親子の絆を取り戻せたのは、あなたがいらしたおかげなんです。この御恩、一生忘れません。だからどうぞお幸せになってくださいませ。フェリシア先生は素晴らしい方だと思います。ですが、もしあなたの心が他の女性を求めておいでだとしたら、素直になってください。ご自分を騙して誤った人生を歩くことだけはしないと誓ってください。私の最後のお願いです。だってあなたは誰よりも幸せになる権利が、いいえ、義務があるのですよ」

大粒の涙を頬に伝わせながら、ローザはアンソニーの手を固く握りしめた。
それはとても力強く、か細かった彼女のイメージとはかけ離れたものだった。
まさに包み込むような母の愛。
ローズマリー亡きあと、自分が包まれることは二度と叶わない、温かく大いなる愛を感じさせた。
こんなにも深い愛情をこれからの人生で注いでもらえるスタンレーと二コラが心底羨ましく思える。

「どうか心配しないでください。大丈夫ですよ、僕は必ず幸せになりますから」

微笑み返すアンソニーの青い目は限りなく澄み、そして優しい。
母をいたわるようなその姿に心を打たれ、テリィもブライアンも言葉を失ったまま立ち尽くした。




ローザ親子が先に部屋から出た後、残ったアンソニーは初対面のテリィとブライアンを引き合わせる。

「テリィ、こいつは相棒のブライアン。ボストンに来てからの腐れ縁だ。良かったら仲良くしてやってくれ」

失礼千万な紹介文句にブライアンはしかめっ面をして見せた。

「腐れ縁とはご挨拶だな。君の泣き言に文句一つ言わず付き合ってきた有難いお人は誰だっけ。あ、そうそう、ストラスフォードのスーパースターのことも、君はあーだこーだ言ってたっけな」

薄目を開けてニヤリとする相棒の口を思い切り塞ぐと、アンソニーは気まずそうに照れ笑いした。

「あはは、昔の話だよ。誓って今は違うから」

二人の様子にテリィは思わずぷっと吹き出した。

「キャンディが言ってたとおりだな」
「え?キャンディが何だって」

聞き返したのは二人同時だった。

「君らは実にいいコンビだってこと。ブライアンの名前は幾度となく聞いてるよ。なるほど確かに仲がいいんだな。男の俺が見ても妬けるくらい」

からかい半分に言ってのけたテリィに、「だから言ったろう。腐れ縁だって!」
そう言い返したのも二人同時だった。

「ムキになるタイミングまで似てる。いいじゃないか、仲がいいってことは。出来たら俺も仲間に入れてくれよ」

テリィはそう言ってブライアンに右手を差し出した。

「勿論大歓迎さ。ストラスフォードのトップと親しくしてるなんて凄い自慢の種になりそうだもんな」

「君ねえ・・・」

テリィが呆れ顔になるとブライアンはすかさずウィンクした。

「冗談はさておき、俺はテリュース・グレアムを誤解してたようだ。あんた、いい男だよ。顔じゃないぜ。ハートがさ。アンソニーが急に友人として認めたわけが今日分かったよ」

今度はテリィがウィンクを返す。

「そりゃあ良かった。俺の真価が分かるのが遅すぎなくて」

自信過剰気味の売れっ子俳優に、今度はブライアンが口をあんぐり開ける。
間に割って入ったアンソニーは二人と肩を組んで「一番嬉しいのは僕だよ。こうやって紳士協定が広がってくと思うとワクワクするんだ」
「は!大袈裟な奴だな。紳士協定だって?キャンディ不可侵協定の間違いなんじゃないか」

ブライアンの軽口でその場は爆笑の渦になった。その直後、三人の間で固い握手が交わされる。

この場にアルバートさんがいたらどんなにいいだろう。
以前ならこういう輪の中心にはいつもアルバートさんがいてくれたんだ。
僕が物心ついた頃からずっと。
だから安心して何でも出来た。
母さんを失ったときも、父さんが不在のときも、陰になり日向になり見守ってくれたのはいつだって彼だった。
だから信じていていいですよね?
これから先もずっと、今までと変わらない叔父と甥でいられるって。


陽気にじゃれ合いながらアンソニーは心の中でそっと呟いた。




ボストンに引き揚げてからローザは暫くリハビリに励み、主治医から退院許可が出ると二コラを伴って再びボストンを発った。
一方「ヴェローナの二紳士」の全公演を終えたスタンレーは、養父ケビン・ブラッドリーとの養子縁組を解消し、劇団側にイギリス行きを切り出した。
退団を打診されてから渡英までほんの僅かの期間しかなく、まさに青天の霹靂だった団長は、なかなか首を縦に振らなかった。
それも当然だろう。いきなり看板俳優を失うのは相当な痛手なのだから。
だがテリィとシェリルの熱心な説得が功を奏してやっと願いが受理された。
ストラスフォードとの契約が絶妙のタイミングで切れる時期に来ていたのも幸いした。

レイモンド・ブラッドリー退団、渡英のニュースは各方面に衝撃を与えたが、何よりショックを受けたのは熱烈なファンだろう。
何も手につかない、寝込んでしまった、は当たり前。
中には自殺する少女まで現れ、いかに彼の人気が過熱していたかを物語った。
それでも渡英を強く望むスタンレーの気持ちは揺るがなかった。
合流した母と妹を伴い、スタンレーはサザンプトン港へ向けてニューヨークの港を出港した。

ローズマリーの面影を色濃く宿すローザは、アンソニーの心に幾輪ものバラを咲かせ、母の慈しみを与えてくれた。
不治の病を乗り越え、失いかけた家族の絆を取り戻した彼女の行く手には、限りなく広がる第二の人生が幕開けを待っている。

1920年秋、忘れえぬ数々の思い出を残し、「もう一人の母」が静かにアメリカを去っていった。







アンソニーがボストンへ帰った翌日、休暇が明けたキャンディには再び忙しい日々が訪れた。
午前中は息もつけないほどの慌ただしさで患者の処置に追われ、やっと昼食を摂れることになったとき、時計の針は二時を指していた。
白衣の上に薄手のカーディガンを羽織ったままの姿で近くのベーカリーにパンを買いに走る。
表通りから引っ込んだところにあるこの店は、安くて美味しいわりに混んでいないからキャンディもモニカも贔屓にしていた。
小走りで店の入口まで行くと、突然後ろから背中をポンと叩かれ、驚いて振り返る。

「キャンディ?キャンディでしょ?」

見ると、つば広の黒い帽子で顔をすっぽり覆い隠した細身の貴婦人が立っていた。
声を聞いただけで誰なのか大体の見当はついたが、ちらっと見えるブロンドのおくれ毛と形の良い紅い唇が「彼女の正体」を確信させた。

「お義母様!」

嬉しそうに叫ぶキャンディに、その女性――エレノア・ベーカーは、帽子のつばを少しだけ上げ、青い瞳を覗かせて優しく微笑んだ。

「お久しぶりね。同じニューヨークに住んでいるのになかなか会えないものだわ」
「私こそご無沙汰して申し訳ありません」

恐縮して頭を下げると、羽織っていたカーディガンがはらりと落ちて白衣が露わになる。

「お仕事中なのね。時間があるならお茶でもしたかったんだけど」

残念そうなエレノアに、キャンディは再び「すみません」と謝罪する。

「私もゆっくりお話したいのに・・・残念です」
「大丈夫よ。これからチャンスはいくらでもあるわ。だってあなたは私の大事な娘になるんですもの」

エレノアは目を細めると、嬉しそうにキャンディの手を取った。

「楽しみにしてるのよ、あなたのウェディングドレス。どんなにか可愛らしい花嫁さんになるでしょう。きっとテリィは益々夢中になるわ」

まるで少女のように頬を紅潮させる彼女を見て胸が痛くなる。
自分たちの結婚をこんなにも待ちわびているエレノアに、今の心境を打ち明けることなど到底出来ない。

(ああごめんなさい。私の気持ちを包み隠さず話したら、この人はどんな顔をするかしら。きっと痛々しいほど哀しい目に涙をいっぱいためて私を見つめるんだろうな)

悲しませたくないと思った。
グランチェスター公爵との悲恋の末、愛する人とも実の子とも泣く泣く引き離され、それでも必死で大女優としての地位をつかんだのだろう。
数えきれないほど流した涙や悩み苦しみをおくびにも出さずに。
そして十数年もの月日が流れ、今になってやっと息子と絆を取り戻し、彼の門出を祝えるまでになったのだ。
誰より幸せを噛みしめているのは、他ならぬエレノア自身ではないかとキャンディは思った。
そんな彼女のため、何としてもテリィと幸せな家庭を築きたい。
でもそれにはアンソニーを諦めなければ!
考えれば考えるほど胸が苦しくなってくる。
最愛の人と結ばれたい気持ちとエレノアへの思いやりの間でキャンディの心はゆらゆら揺れた。

「何か心配事でもあるの?」

急に声が聞こえたのでハッとして目の前を見る。

「顔色が悪いわ。お仕事が大変なのかしら。ちゃんと眠れてる?」

本当の母親のように心配顔で覗き込むエレノアからは、ほんのりいい香りがする。
花びらのように美しい彼女の娘になれるなら、それはそれで幸せだろう。
この人のそばにいると素直にそう思えるから不思議だ。

「お義母様に心配かけちゃうなんて看護婦失格ですね。でも大丈夫ですから安心してください」
「もしかしてあの記事のことを心配してるんじゃなくて?ちょっと前になるけど、テリィとシェリルが・・・あの・・・」

そこまで言って急に黙り込む。
だがキャンディは優しい目をしてにっこり微笑んだ。

「あんなデタラメ、少しも気にしてません。私はテリィを信じてますから」

エメラルドの瞳は奇麗に澄み渡り、無理して嘘を言っているようには思えない。
エレノアはホッと安心したように微笑み返した。

「それを聞いて安心したわ。やっぱりあなたで良かった、テリィの奥さんになる人が。私たちの仕事は常にゴシップと隣り合わせなの。身に覚えがないことでも、まことしやかに書き立てられたり引きずり降ろされそうになったり。周りは好意的な人ばかりじゃないわ。むしろ敵だらけよ。でもたとえどんなことが起きようと、あなたならテリィを支えてくれる。もしあの子が間違った方向に歩こうとしたら、引き止めて正しい道に導いてくれる。それだけは自信を持って言えるわ」

エレノアは再びキャンディの手を取って強く握りしめる。

「私に出来るでしょうか?」
「勿論よ!」

信頼されている嬉しさにキャンディが顔をほころばせた瞬間だ。
エレノアは急に顔をしかめ、「痛っ」と声を上げて腰を押さえた。

「どうされました?」

慌てて華奢な腕を支えると、「時々こうなるの。すぐ治るから心配しないで」とエレノア。

「長いこと立ち話をしてたからお疲れになったんでしょう。私ったら気が利かなくてすみません。どこかでちょっと休みましょう」
「ううん、大丈夫。私こそ余計な心配かけてごめんなさい。すっかり話し込んでしまったわね。そろそろお仕事に戻らなくちゃ。私のことは気にしないで早くお行きなさい」
「でも・・・」

確かに昼休みは終わりに近づいていたが、このまま放っておけるはずがない。
事情は病院に戻ってから話すことにして、とりあえず彼女に付き添おうと思った矢先、黒塗りの車が真横に停まり、運転席からショーファーが降りてきた。

「こちらにおいででしたか。なかなかお戻りにならないので心配しました。皆リハーサルの再開を待っております。お連れ様とお話が終わりましたらお車へどうぞ」

黒いスーツで正装した品のいい紳士はキャンディにも恭しく頭を下げたあと、後部座席のドアを開けてエレノアを促す。

「悪かったわね、キングストン。ちょっと息抜きに街へ出たかったの。そうしたら偶然息子のフィアンセと会って話し込んじゃったわ」

女神のような笑みを浮かべる彼女は既に大女優エレノア・ベーカーの顔に戻っている。
キャンディに向き直り、もう一度手を取ると小さい声で一言だけ「テリィをよろしく頼むわね」と囁いた。
そしてゆったりした足取りで開かれたドアまで歩くと、ドレスの裾をそっとたくし上げ、優雅な物腰で車に乗り込んだ。

容姿は勿論、心も美しすぎる義母――そんな完璧な女性に巡り会えた幸せを噛みしめながら、キャンディは去っていく黒塗りの車をいつまでも見送った。
車体が視界から完全に消えるまでずっと。
そして深いため息を一つつく。

(あの人から笑顔を奪い去るなんて出来ないわ。テリィとの結婚を何より楽しみにしていてくれるのに、裏切るなんて絶対出来ない。私はもう二度と引き返せない道を歩いてきてしまったの。これから行く先にアンソニーはいない。訪れる未来に私と一緒に立ってくれるのはあの人――テリィなのよ!)




その晩キャンディは久しぶりにテリィのアパートを訪ねた。
「シカゴへ行ってアンソニーととことん話し合うといい」と優しく肩を押されて以来初めてのことだ。
次の公演を間近に控えて稽古に忙しい最中だからあまり時間は取れなかったが、キャンディと二人きりで話せたのはテリィにとって何より幸せな時間だったろう。
今はすっかり昔の気持ちに戻ってキャンディを想っている。
いや、シェリルを意識していた当時よりずっと穏やかな思いでキャンディを見つめている。
図らずも彼女以外の女性に心が向いて初めて、自分が本当はどんなにキャンディを大切に思っているか、はっきり分かった。
だから以前のように強引に結婚を迫ったり、アンソニーを攻撃したりするつもりは毛頭ない。
ただひたすら寄り添い、キャンディが自分を必要とするなら温かく受け入れ、そしてもし他の男を愛すというなら、距離を置いてそっと見守ろうと心から思えた。
彼の優しい決意を知っているかのように、窓外に広がるマンハッタンの夜の街並みはいつもよりずっと澄み渡り、幻想的な風景を二人に映し出してくれる。
普段はネオンに掻き消されてしまう星々のはかなげな光すら、今夜は明るく輝いて見えた。

「今日はとても静かなのね。何かおしゃべりしてちょうだい」

思いが伝わったのか、キャンディも穏やかな笑みを浮かべてテリィを促す。

「君から話せよ、シカゴで何があったのか」

アンソニーからいろいろ聞いていたから大体は分かっていたが、それでもキャンディの口から直接聞いてみたくてたまらない。
だが彼女は視線を下に落としたまま、寂しげな表情を浮かべるだけ。

「無理に話させちゃいけない・・・かな。フェリシア嬢のことは全然知らなかったんだ。すまない。もし知ってたら、あのタイミングでアンソニーに会ってこいなんて絶対言わなかった」

申し訳なさそうな顔をするテリィにキャンディは激しく頭を振って、「ううん、あなたは悪くないわ。気にしないで。全部神様のいたずらなのよ」と涙目で訴える。
口では強気なことを言っているが潤んだ瞳は嘘をつけない。
今彼女がどんなに打ちひしがれているかを思うとテリィは切なくなった。

(不覚にも俺の目の前で涙を見せるなんて、君の心はあいつでいっぱいなんだな。分かってたとはいえ、現実を突きつけられると胸が苦しいよ)

だが本音は見せられない。
見せたら余計にキャンディを混乱させてしまう。
だから役者モードを全開にして平静を装って見せる。
今こそストラスフォードトップの演技力を披露する絶好の機会なのだから。

昔のテリィだったらすぐさま食いついただろう。

君の婚約者は一体どっちなんだ?俺か、それともアンソニーなのか。
もし俺を選ぶつもりなら、その涙を拭いて笑ってくれ。
それが出来ないなら今すぐ出て行け。
これ以上揺れる君を見るのは耐えられないんだ。


だが今は違う。
自分とアンソニーの間で揺れ動くキャンディの気持ちを、そのまま素直に受け入れる覚悟が出来た。
たとえ短い間でも、シェリルを想って心が震えたあの日々があったから。

何にも動揺していない涼しげな顔でテリィは至って普通の会話をし始める。

「じゃあ話題を変えよう。君がシカゴに行ってる間、こっちではちょっとした事件があったんだ。なんだか分かるかい?」

キャンディはきょとんとして首をかしげる。

「聞いて驚くなよ。これまでずっとテリュース・グレアムと犬猿の仲だった男が晴れて飲み仲間に昇格したんだ。めでたい話だろ?」

まさかという表情のあと、エメラルドの瞳がキラキラ輝き出した。

「知りたいだろ、そいつの名前。君もよく知ってる奴なんだけど」

少し震える声が、「もしかしてアンソニーなの?」と聞いてくる。
テリィはウィンクしながら「大当たり~」と得意がる。
途端にキャンディの目には熱いものがじんわり滲んできた。

「アンソニーとあなたがそんな仲良しになれたなんて信じられないわ。でも、とてもとても嬉しい・・・」
「何が起こるか分からないのが人生さ。俺だってほんの少し前まで、まさかあいつと笑いながら酒を酌み交わす日が来るなんて考えもしなかったからな」

テリィがそう言い終わるか終わらないかのうちに、ひとしずくの真珠が薄紅の頬をはらりと滑り落ちた。
なぜこんなに胸を打たれるのか分からないが、初恋の相手とフィアンセ――大切な二人の男性が固い絆で結ばれたことに運命を感じる。
テリィと結婚しても、これから先ずっとアンソニーと繋がっていられる――そう考えるだけで幸せと思えた。

「おまけにアーチーも今は飲み仲間だぜ。どうだい、驚きが倍増しただろ?」

二度目の仰天ニュースを聞いた途端、これ以上無理というくらい緑の瞳は大きく見開かれた。
聖ポール学院時代からの「因縁の二人」が今では親友同士だなどと俄かには信じられなかったが、夢なら冷めないでほしいと心から願う。

「アンソニーにアーチーにテリィ――ちょっと前ならあり得ないスリーショットね」
「俺もびっくりだよ。全く世の中何が起こるか分かったもんじゃない」
「でもこんな嬉しいハプニングなら大歓迎だわ」
「これからだって起きるかもしれないぜ、思いもしない大事件が」
「そうかしら?これ以上驚いたら寿命が縮んじゃうわ」

軽口をたたきながらテリィを見上げる。

「寿命が縮むどころか心臓が止まるかもな」
「脅かさないで!一体何が起こるっていうの?」
「たとえばアンソニーとフェリシア嬢が破談になるとか」

ウィンクしながら言うテリィに、「まあ」と呆れた声が続く。

「いくらなんでも失礼よ。アンソニーは覚悟を決めたんでしょうし、フェリシアは彼のことをきっと・・・愛してるわ。だから変なこと言わないであげて」

寂しげな顔になったキャンディが心配になり、慌てて「ごめん、冗談が過ぎた」とテリィは謝る。

「でも俺は本気で思ってるんだ。もしかしたらあの二人は結婚どころか婚約にさえ漕ぎつけないんじゃないかって。理由は分からない。強いて言うなら直観ってやつかな。アンソニーと長年恋敵だった男としてのね。いずれにしても心配するな。君の気持ちが落ち着くまでそばにいて守るから。アンソニーとフェリシア嬢がどうなろうと、絶対寂しい思いはさせない」

あまりの優しさに驚き、テリィの瞳の奥にどんな思いが隠されているのか、キャンディは懸命に探ろうとした。
アンソニーの名前が出るたびに険しい表情で責め立てた彼は、もうどこにもいない。
今テリィが見せてくれるのは、すべてを理解して包み込んでくれる大きな人間性。
その寛大さと温かさにアルバートの姿が重なる。
だからここに一緒にいるのは「大おじ様」であるかのような錯覚を起こさせた。

「今やアンソニーは大切な友人だ。だから彼の代わりに君の行く末を見届けたい。何も俺を選べと言ってるんじゃないんだ。いつもそばにいて、君が困ったときには必ず支える・・・それだけだ。俺を選んでくれたら、そりゃあ最高に嬉しいさ。絶対幸せにすると誓うよ。でも相手が俺じゃないなら潔く身を引こう。アンソニーであろうと、それ以外の男だろうと、選ぶのはキャンディ自身だ」

アルバートさんであろうと――その名が喉まで出かかったが、口にするのはためらわれた。
声に出して言った途端、現実になりそうな気がしたから。
未だ独身を貫き、有り余る財力を持ち、社会的地位を誇り、知性、品格、容姿、人間性、そのどれをとっても抜きん出ている Mr.Right。
そんな男が本気でキャンディを妻に望み、堂々と名乗りを上げたら、自分もアンソニーも太刀打ちできるだろうか。ほんの少しでも勝ち目があるのだろうか。
考えるだけで背筋が寒くなる。
今まではアルバートを「いつも親身になってくれる器の大きい兄貴」くらいに考えていたが、そんな自分がおめでたく思えてきた。
最後の最後に悟ったこと――彼はとてつもなく大きな壁。キャンディの手を取ろうとしているすべての男たちにとって。
それはアルバートを初めて「怖い存在」と認識した瞬間だったかもしれない。

一方のキャンディは、すぐそばでテリィが不安に怯えていることなど微塵も気づかず、ひたすら感激していた。
アンソニーに激しく嫉妬していた頃の青臭さやとげとげした表情は鳴りを潜め、格段に成長した大人のテリィ。
そんな彼に護られているのを実感し、羽毛に包まれたような心地よさに浸る。
こんな気持ちになったのは彼と出会って以来初めてだろう。
何かが彼を変えた。大人にさせた。
テリィに何が起きたのか分からないが、キャンディはその変化にはっきり気づいていた。

「ありがとうテリィ。本当に嬉しいわ。あなたに見守ってもらえるなら百人力よ。だからね、私にも言わせて。もし他の女性が気になってたまらない日が来たら、そのときは教えてちょうだい。心から応援するから。あなたが幸せになれるように私もそばで見守る。約束するわ。そうなったら本当は寂しいけど・・・一番大切なのはテリィの気持ちだもの。私のことは心配しないで。あなたが思ってるより、これでもずっとずっと強いのよ。なんたってターザンそばかすですからね!」

大袈裟に胸を張るキャンディが少しだけ痛々しく思え、テリィは静かに彼女を抱き寄せて囁いた。

「そんな日は来ないさ。残念ながらね。俺はどこへも行かないし、誰も好きになったりしない。君にとっては迷惑かもしれないけど」
「そんなわけないでしょ!」

少し怒ったような顔をして、夢中で否定するキャンディの頬に涙が伝う。
本当は今日偶然街角でエレノアと会って話したこと――結婚式を楽しみにしていると言われたことを伝えようと思ったが、言い出せなかった。
今はまだ胸の奥にそっとしまっておくのが一番いいことだと思えた。






アンソニーとブライアンがボストンに戻った翌日、フェリシアがシカゴから帰ってきた。
唐突に婚約が決まってからまだいくらも経っていないのに、何年も過ぎた気がする。
それほどまで、ここ何日間で多くのことがあり過ぎた。
キャンディとの再会、ポニー先生、レイン先生、ポニーの家の子供たちとの出会い、テリィとの和解、スタンレーの改心――アンソニーを取り巻く環境は目まぐるしく色を変えた。
だから今日久しぶりに student caféで顔を合わせたフェリシアが、初対面の見知らぬ人に思えたのも不思議ではないだろう。

照れ隠しなのか、アンソニーは前髪を掻き上げながら少し気まずそうに微笑んだ。

「帰ってきてたんだね。ごめん、挨拶にも行かないで」

いつもと変わらない青い瞳を見てホッとしたのか、フェリシアもつられて微笑む。

「いいのよ。来てもらったところで寮は男子禁制ですもの。お茶も出せないなんて申し訳ないわ」
「ああ・・・そう言えばそうだったね」

次の言葉を繋げられず、アンソニーはそれきり口をつぐんでしまう。
彼の気持ちを察したフェリシアは愛する人をかばうように助け舟を出した。

「婚約のこと、嬉しかったわ。でも焦らなくて大丈夫よ。気持ちの整理がつくまでずっと待つつもりだから。たとえ何年先になっても平気。悔いの残らないようによく考えてね」

慈愛に満ちた申し出に胸を打たれ、改めてフェリシアを素晴らしい女性だと思う。
彼女なら自分がニューヨークで研修することを許してくれるのではないかと確信し、勇気を出して切り出すことに決めた。

「君の寛大さを見込んで相談したいことがあるんだけど」
「何かしら?」
「実はブライアンの父上の同窓生がニューヨークで個人病院をやってるんだ。そこのレジデントとして来てくれないかって言われてね。誘われたのは今回が初めてじゃない。二度目だ。あちらは是非にと言ってくれてる。ハーバードで研修するのもいいけど、毛色の違う場所で経験を積むのはチャンスかなと思って。勿論ブライアンも一緒だよ。君はどう思う?」

ボストンを離れるという提案に、さすがのフェリシアも顔色を変えた。
男勝りでも中身は恋する女だ。
最愛の人が遠いニューヨークへ旅立つと考えただけで足が震えてくる。

(行ってしまうの?私一人を残して。婚約もしないまま・・・)

明るく照りつけていた陽の光が建物の隙間に姿を隠した刹那、エメラルドの瞳がどんより曇る。
最善の努力でなんとか平静を装うが、ひきつる口元は隠しようがない。
アンソニーに気取られないように振る舞うのが倒れそうなほど辛かった。

「どれくらい・・・研修期間はどれくらいなの?」
「そんなに長くないと思うよ。一年くらいじゃないかな。君を不安にさせるような真似はしないから僕を信じてて」

少し安堵したフェリシアは静かにふっと息を吐き出したが、その安心感は長くは続かなかった。

「ただ一つ、伝えておかなきゃいけない大事なことがあるんだ。聞いてくれる?」
「勿論よ」
「その病院、看護婦としてキャンディが勤務してるんだ」

その瞬間、フェリシアの心は凍りついた。
アンソニーの声が優しければ優しいほど、今知らされたばかりの内容は残酷な響きを持って鼓膜を揺さぶった。