彼のその言葉に三人とも耳を疑った。
「いい加減なことを言うもんじゃありません」
そう吐き捨ててエルロイは反射的にヴィンセントを睨んだ。
だが口とは裏腹に、それがもし本当だったらという喜びの灯りがともり、枕元へ駆け寄ってアンソニーの手を握り締める。
「こんなことって・・・」
そう言ったきり彼女は口元を押さえて放心状態になった。
微かに伝わる掌の温かさに、この世の不思議を思い知らされ言葉を失ったのだろう。
孫息子も同然に慈しんで育ててきたアンソニーを神がこの手に返してくれたのか、老いて残される寂しさを哀れんで天が奇跡を起こしてくれたのか──ほんの僅かの瞬間に彼女はそんな思いを巡らせていたに違いない。
「この子の手はまだ温かいんです。死んじゃいませんよ。アンソニーは生きています。ああ、何てこと!こんな嬉しい裏切りがあるなんて」
老婦人の叫びに驚いてウォルターもジョルジュも駆け寄った。
そして代わる代わる少年の手を取り、頬に触れ、「生きている証し」を確かめようとしている。
極度に弱ってはいるが脈々と流れる赤い血潮を感じたとき、ウォルターは冷静な声でこう呟いた。
「信じられないことが起こるものですな。アンソニー様は確かに生きておいでのようです」
傍らではジョルジュがまだ呆然と立ち尽くしている。
さすがの教育係も事態の思わぬ好転にすっかり舞い上がってしまったのだろう。
代わりに若い当主が気を利かせて代弁してくれた。
「こうなったら早速パーキンス先生を呼ばなきゃいけませんよ。もう一度診察してもらいましょう。そして死んでいないとはっきりした暁には、みんなを集めて・・・」
「では主治医の手配を致します。出来る限り早急に」
アルバートがまだ言い終わらないうちにウォルターは低い声で遮った。
事が事だけに一刻を争うと判断したように見える。
その後間髪を入れず、「これは失礼を。ウィリアム様」と詫びて部屋を出て行こうとしたとき、エルロイが慌てた様子で引き止めた。
「ウォルター、このことはまだ内密にしておくように。事情は・・・分かっているでしょうが」
その表情に幾ばくかの困惑が混ざっていることは明らかだった。
「事情は分かっているでしょうが」という含みのある言葉がアルバートには理解出来なかったのだ。
いくら一族の頂点に立つ者とはいえ、若く経験の浅い彼には計り知れない未知の世界が存在しているのだろう。
狐につままれたような顔をして執事の背を見つめていると、ウォルターは急に振り返ってエルロイにこう応えた。
「はい、よく心得ております」
このとき、まだアルバートは知らない。
目先の展開で軽々しく判断したら、アードレー家の破滅を招く事態に陥ることを。
「アンソニー、私の可愛いベビーちゃん。どうしてこんなところにいるの?」
優しい声が耳元で聞こえ、驚いて目を開けると白いドレスを着た美しい婦人が女神のように微笑んでいた。
甘い香りが鼻先をくすぐる。
(これは何?彼女がつけている香水かな)
気になって辺りを見回すと、数え切れない可憐な花が突然視界に飛び込んだ。
(ああ、ここはバラ園なんだ)
赤、白、黄、ピンク、薄緑・・・鮮やかな色の競演を繰り広げる花たちに見とれてため息を漏らすと、柔らかい声がまた囁いた。
「バラを好きになったのね?私と同じだわ。奇麗なだけじゃない、とっても切ない花でしょう?だって美しく咲き誇っていられるのはほんの短い間だけですもの。でもバラはその刹那に自分の全てを燃焼させるの。みんなに愛されて、そしてあっという間に消えていく・・・私みたいに」
婦人は小さなため息をつくと少年と僅かに距離を取った。
金色の髪を秋風が撫でていく。
儚げな細い肩を見つめていたら、思わず支えてやりたくなって彼は近寄ろうとした。
そのときだ。
「来ちゃダメ!」
声の主はいきなり語気を強め、近づけまいと両手を広げて通せんぼをした。
「今はまだダメよ。ここから先は私だけの世界。だから素直にお帰りなさい」
婦人の目は優しい緑色をしている。だがなぜか寂しそうだった。
「あなたは誰?」
少年は初めて声を発し小首を傾げる。
「私が誰だか分からないの?そう・・・それは困ったわね。じゃあ、あの子が誰かも分からないんでしょうね」
白くて細い指が指し示すほうへ視線を向けると、あどけない笑みを浮かべる少女が飛び込んできた。
歳は自分より少し下だろう。
赤みがかったブロンドのくせ毛を左右で束ね、飾り気のない木綿のドレスを着ている。
日に焼けた夏の名残もあるのか──頬のあたりには数え切れないそばかすが点在し、健康的な明るい笑顔が魅力的だった。