主賓の二人が退出してしまったので、ニールとイライザは早々に引き上げ、少し世間話をしたあとで、エルロイとアーチー、それにアニーも三々五々退室した。
残ったのはアルバートとキャンディ。
二人はがらんとした部屋の中に、たった二人でいる。
「アンソニーと話せて良かったね。まだまだ話し足りないだろうけど」
「そんなことないわ」
キャンディは頬を染め、恥ずかしそうに笑う。
その手にはスイートキャンディ。
アンソニーが握らせてくれたまま、決して離そうとしない。
まるでそれが、彼の分身であるかのように。
「さっきからずっと持ってるね。そんなに大切?」
「ええ、とても」
キャンディはそれしか言わないが、十分だった。
アルバートはもう一度、自分に言い聞かせる。
──この恋は・・・アンソニーの勝利──
そんなのは、もうずっと前からわかってた。
それが今日、もっとはっきりしただけのこと。
だから何も言わないよ、キャンディ。
女性として君を意識し始めたことも、一緒に生きていけたらいいと思ったことも。
君に言いたかった言葉は、胸の一番底に沈めておく。
そうすれば、これからもずっと、いい関係でいられる。
僕にとっては、そっちのほうがずっと大切なんだ。
「あの・・・アルバートさん、ごめんなさい」
心の中が透けて見えたのだろうか。
実にいいタイミングでキャンディが切り出したから、アルバートは驚いた。
「『ごめん』って、何が?」
「いろいろ・・・」
「いろいろ」って、なんだい?──本当は聞いてみたい。
君は僕の本心に気づいてたのかい?
でも気づかない振りをしてたの?
聞きたいことがむくむくと頭をもたげたが、そっとしまいこんだ。
胸の奥底の、一番奇麗な場所に。
「いいんだよ。謝るなんてキャンディらしくないぞ」
「だって私、いつも迷惑ばかりかけて」
「そんなことないさ。僕だって、随分君に助けられてる。第一、こうやってアードレー家の当主におさまっていられるのも、優秀な看護婦さんに世話してもらったおかげだし」
「まあ、アルバートさんったら」
「だから、辛いときは頼ってくれていいんだよ。僕に出来ることなら力を貸す。いつでも、どこにいても」
感激のあまり、エメラルドの瞳がうるんできた。
(いつもそうだった。悲しいとき、困ったとき、必ず現れて元気づけてくれた。ああアルバートさん、大好きよ!)
キャンディは迷わず広い胸に飛び込んだ。
激しく燃える感情ではなかったが、これもやはり「愛」なのだと確信していた。
静かで穏やかな想いだった。
「今だから告白するよ。本当は、アンソニーとレイチェルを君に会わせたくなかった。どうしてって?テリィとスザナを連想させるからさ。テリィと別れてようやく立ち直った君に、また同じ思いをさせるのはいやだったんだ。だけど君は、二人を見つけてしまった。こんなことなら、最初からレイチェルにアンソニーを看護させるんじゃなかったよ。僕の誤算だった。結果的に、君を苦しめることになってしまって」
「違うわ!アルバートさんが悪いんじゃない。こうなる運命だったのよ」
エメラルドの瞳の奥に、たとえようもないほど哀しい色が見え隠れした。
「今でもアンソニーが好きだね?レイチェルと闘ってもいいくらい、愛してるね?」
キャンディは夢中でうなずく。
真剣そのものの眼差しが、熱い本音を物語っている。
「じゃあ決まりだ!僕の役目は、全力で君をサポートすること。だから辛いときは、遠慮なく相談しにおいで。これは当主命令。わかったね?」
「勿論よ!さすがはアルバートさん。これで百人力だわ」
さっきまで涙顔だったのに、からっと陽気に笑っているキャンディ。
アルバートはおでこをチョンとつついてウィンクした。
(そうだ、その意気だよ。君にはやっぱり笑顔が似合う。その微笑みを守るために、僕はなんだってしよう)
お披露目のお茶会から一週間が過ぎた。
アンソニーとレイチェルは準備を急ぎ、レイクウッドの別荘へ移ってきたし、アルバートもシカゴの本宅から、ここへ移り住むことになった。
キャンディやアンソニーが気がかりだからだ。
キャンディはあれ以来、アンソニーとレイチェルのことが頭から離れず、何も手につかなくなっていた。
彼らと同じ邸宅に住んでいるのだから、いつどこで会ってもおかしくない。
それが嬉しくもあり、恐くもあった。
──これからあの二人と、どう接していけばいいんだろう──
その日は日曜だった。
朝から天気が良く、キャンディは久々の休日をゆったり過ごしていた。
普段は仕事に追われて目の回るような忙しさだから、庭を散策する時間などない。
たまには外の空気を吸って気分転換しようと、一人で庭に出る。
爽やかな初夏の陽差しが降り注ぎ、草も木も花も、みんな力強く息づいている。
鮮やかな緑が目にまぶしい。
レイクウッドの庭園は広くて手入れが行き届いているから、散策するにはもってこいの場所だ。
一日かけて、のんびり過ごすことが出来る。
強い陽差しのせいか、ゆっくり歩いていても体は熱くなり、汗ばんできた。
日影に入ってちょっと休もうかと思っているとき、背後から男性の声がする。
「ハロー、キャンディ」
驚いて振り返ると、そこにはアンソニーが・・・!
そうだ、彼は今ここに住んでいるのだ。
こんなふうにして屋敷の庭で会ったとしても、別に不思議なことではない。
「ハ、ハロー」
キャンディは頬を染めて言う。
赤くなったのは、暑い陽差しのせいか。それとも・・・?
「今日はお休み?」
「ええ。しばらく庭を歩く暇がなかったから、一人で散歩してるの」
「へぇ、散歩ね。僕も一緒にいいかな」
「勿論!!」
キャンディの胸は躍った。
アンソニーとこうして二人で歩けるなんて、何年ぶりだろう。
二度とかなわない夢だとあきらめていたから、神様に心から感謝した。
「今日はレイチェル、一緒じゃないの?」
「うん。今、アルバートさんのところに行ってる。話したいことがあるそうだから、しばらく戻らないと思うよ」
それを聞いてキャンディはホッとした。
束の間の時間、アンソニーと二人きりで過ごすことが出来る。
レイチェルがアルバートに何を話しに行ったのか気になるが、アンソニーと一緒にいられるなら、そんなことはどうでも良かった。
「レイチェルはもう大丈夫なの?この前のお茶会で具合が悪そうだったでしょ?」
「ああ、あれならすぐ治ったよ。慣れないところへ出た上、初対面の人に囲まれて、緊張したんじゃないかな」
レイチェルの名前が出た途端、心なしかアンソニーの表情が曇ったような気がした。
なぜだろう?
「彼女はあなたのことを、一生懸命看病したんでしょうね」
独り言ともとれるキャンディのつぶやきに気づいたのか気づかなかったのか、アンソニーは何も言わずに黙っていた。
「きつね狩りの日から、すごく大変だったでしょ?私は何もできなかったわ。本当にごめんなさい」
申し訳ない気持ちで一杯になり、思わず顔がゆがむ。
「君は悪くない。なんの責任もないんだ!だから、そんなふうに言うのはやめてくれ」
アンソニーの語気が少しだけ強まった。
彼には珍しく、イライラしているようだ。
「私、ニューヨークであなたがどんなふうに暮らしてたのか気になって・・・。それだけなの。気に障ったなら謝るわ」
アンソニーはしばらく考え込むふうにしていたが、やがてはっきり言う。
「ニューヨークのことはもういいよ。僕がここに来るまでの話はやめよう。君と二人でいるときは、思い出したくないんだ」
アンソニーは何かを自分に言って聞かせているようにも見えた。
過去を話したがらないことが気になったが、「君と二人でいるときに、他のことを考えたくない」と言ってくれたことが、すごく嬉しい。
「それより君はきつね狩りのあと、どこで何をしてたの?ずっとレイクウッドにいたのかい?」
お返しとばかりに、今度は彼がキャンディの過去を聞いてきた。
「違うわ。ステアやアーチーたちと一緒に、ロンドンの寄宿学校に留学したの。あ、ステアのことは誰かから聞いたかしら?」
「うん。志願兵になって戦死したアーチーの兄さんだろ。どんな人だった?」
「機械いじりが大好きで、とっても明るい人だったわ。いつも変な発明ばかりして、みんなを笑わせてた」
「へーぇ、発明ね。そりゃすごいや」
「でもそれが全部失敗なのよ~」
キャンディは笑った。アンソニーもつられて笑った。
ああ、今ここにステアがいたら、どんなにいいいだろう!
アンソニーが生きていたことを知ったら、心から喜んでくれたに違いない。
それなのに、彼は何も言わずに戦地に赴(おもむ)き、それきり帰っては来なかった。
ステアのことを思い出すとキャンディは切なくなり、思わず泣き顔になってしまった。
「ごめんごめん。悲しいことを思い出させてしまったね」
真珠の粒を見て、アンソニーはあわてる。
「私こそごめんなさい」
涙をぬぐい、できるだけの笑顔を見せた。
「そうそう、それがいい。君は笑った顔のほうがかわいいね」
「えっ?」
一瞬耳を疑った。
アンソニーは昔もそう言ってくれた。
記憶をなくした今も同じことを言うなんて、本当に本当に、本物のアンソニーなのね?
そう思うと、嬉しくてたまらない。
「何を驚いてるの?」
「だってそれ、初めて会ったときに、あなたが言ってくれた言葉なのよ」
アンソニーは意外な顔をした。
何一つ覚えていないのに、口をついて出たセリフは、体に染みついているのだろうか。
「イライザたちにいじめられてバラの門で泣いてたら、あなたが声をかけてくれたの。『泣かないでベビーちゃん、君は笑った顔のほうがかわいいよ』って」
「そうか、そんなこと言ったの・・・」
アンソニーはすっかり照れてしまった。
キャンディを見たら、彼女も顔を真っ赤にしてうつむいているので、話題を変えた。
「さっきロンドンに留学したって言ってたけど、なんていう学校?」
「聖ポール学院よ。規則がものすごく厳しくて参っちゃったわ。英国一の紳士・淑女を育てる由緒ある学校だって言われてたけど、ステアもアーチーも『ローゴク』って呼んでた」
「その『ローゴク』で、君はレディになる勉強をしてたの?」
「そうよ」
アンソニーはククッと笑って、からかう。
「君には辛そうな学校だなぁ。なんとなく想像できるよ。相当窮屈(きゅうくつ)だったんじゃない?」
自分のお転婆ぶりを、早くも見抜かれてしまった?
焦ったキャンディは、ムキになって否定する。
「そんなことないわ!真面目にやってたわよ。アンソニーったらひどい」
そう言いながらキャンディは、学院でテリィと過ごした日々を思い出していた。
五月祭の出来事。奪われた初めてのキス──
アンソニーの面影をいつまでも捨てきれない自分を、テリィは思い切り打ち砕いたのだ。少々強引な手段で。
その荒々しさにショックを受けて、頬に平手打ちをしてしまったけれど、憎みきれなかった。
あんな行為に及んだのは、好きでいてくれたから──そう気づいたときは嬉しかった。
それからは益々惹かれるようになっていった。
初めて会ったときから気になって仕方なかったから、テリィを愛したのは運命だと思う。
でも・・・こんなこと、アンソニーにはとても言えない。
今ここでテリィを思い出すことさえ、罪深く思えてくる。
そういえば、ついこの前、アニーからびっくり仰天のニュースを聞いたっけ。
スザナが婚約するというのだ。
雑誌で偶然見つけたという記事を、アニーは興奮しながら見せてくれた。
フィアンセの名前を知ったときは、もっとびっくりした。
だって、聞いたこともない名前だったから。
そう──スザナが選んだ男性はテリィじゃなかった・・・
二人の間に、何があったというんだろう。
彼女はあんなにもテリィを愛していたはずなのに。
もしずっと前にこのことを知ったなら、迷わずブロードウェーに行っただろう。
いても立ってもいられなくて、テリィのところへ飛んで行っただろう。
そして会うなり、こう聞いたはずだ。
「ねえ、あなたは一人になったの?もしかして私たち、もう一度やり直せる?」
でも今は、もう・・・
アンソニーが生きていることを知ってしまった今は、もう・・・
テリィに会って真相を確かめようという気にならないことが、自分でも不思議でならない。
辛い別離から月日が経つうち、心の傷はすっかり癒え、何かを乗り越えたのだろうか。
「僕も行きたかったな、その聖ポール学院に。君と一緒にね」
すっかり妄想の世界に入り込んでいたら、アンソニーの声が現実へ引き戻した。
もし彼が一緒に行っていたなら、テリィとあんなふうにはならなかっただろうか。
それとも、二人の少年の間で揺れ動いただろうか。
だとしたら、アンソニーとテリィの、一体どちらを選ぶことになったろう。
とりとめのない考えが頭に浮かんでくる。
折角アンソニーと二人でいるのに、ありもしないことに気を取られている自分が腹立たしい。
うち払うように、キャンディは頭を振る。
そう、「ありもしない、くだらないこと」なんだ。きっと・・・!
「それで、ずっと学校で勉強を続けてたの?」
「ううん。自主退学して、アメリカに帰って来ちゃった」
「ほら~、やっぱり。窮屈に耐えられなかったんだろ?」
キャンディは少し赤くなりながら、「まあね」と答えた。
(違うのよ、アンソニー。本当はそんな理由じゃないの。私はテリィを追って、アメリカへ戻ったの。たった一枚の手紙だけを残して海を渡った彼を、夢中で追って来たの)
でもそんなこと、絶対言えない。
今は胸にしまっておこうと、キャンディは巧みに話題を変えた。
「そのあとは、看護婦になる勉強を始めたのよ。記憶をなくしたアルバートさんの世話をしたりして、結構大変だったわ」
「そうそう、アルバートさんも記憶をなくしてたんだよね。つくづく物忘れの多い一族だなぁ」
「まあ、アンソニーったら」と、キャンディは笑う。
こうしていると、彼に記憶がないなんて思えない。
すっかりうち解け、昔と変わらないアンソニーとキャンディに戻っている。
「僕も君に看病してもらいたかったよ。そばかすの可愛い看護婦さんに」
そう言ってもらえて、ときめいた。
が、同時に切なくなった。
(私もそう思ってるわ。あなたの看病をしたのが私だったら、どんなに良かったかしら)
だが言葉にならなかった。
いつの間にか二人の足は、バラの門へと向いていた。
アンソニーが丹精込めて作ったバラが、見事に咲き誇っている。
あふれるようなバラの甘い薫りが漂う。
まるで夢の世界を歩いているようだ。
「わあ、すごいわ。本当に奇麗!みんなあなたが育てたのね?」
「そうだよ。不思議なものでね、記憶をすべてなくしてるのに、バラのことだけは、はっきり覚えてる。小さい頃の僕が、泣きながらバラの中を駆けていくと、そこで誰かが待っててくれるんだ。その人の顔、よく思い出せないんだけどね」
キャンディは、アンソニーからその話を聞いたことがあった。
幼い頃の彼をバラの中で待っていたのは、ローズマリー。
その夢を見てから間もなく、母は死んだと言っていた。
「その人はあなたのお母様よ。『ママはバラの花が大好きだったから、きっと僕もそうなんだろう。ママの育てたバラを、今度は僕が育てていくんだ』って、あなたは言ってたわ」
「そう?」
瞬間、アンソニーは肖像画を思い浮かべた。
「母の顔をはっきり思い出すことは出来ない。だけど肖像画を見たんだ。奇麗な人だったよ。君と同じ色の瞳をしていた」
そう言って、改めてキャンディの目をじっと見つめる。
そうだ、再会したあの日、一番初めに飛び込んできたのも、この緑色の瞳だった。
「ねえキャンディ、この前のお茶会で、聞き損ねたことがあるんだ」
「なあに?」
「『スイートキャンディ』のこと。その名前だけ、僕は覚えてた。そして君とバラの門で会ったあの日、君の目を見てたら、自然と口をついて出たんだ、『スイートキャンディ』って」
「覚えてるわ」
あれから一ヶ月ほどしか経っていないのに、ずっと遠い昔のように思える。
だがアンソニーは変わらずここにいる。
今度はもう、突然消えたりはしない。
彼の繊細な指が、スイートキャンディの花弁をもてあそぶのを、キャンディは夢見心地で見つめた。
「僕はこのバラに、君の名前を付けたの?」
小さな声が、遠慮がちに「ええ」と答える。
「長い間かかって、品種改良に成功したバラだって言ってたわ。やっとつぼみを付けた一枝を、あなたは私に持ってきてくれたの。『名前はスイートキャンディ』って。その日が私の誕生日になった」
「君の誕生日?」
「ええ。私ね、教会の前に捨てられてたの。だからいつ生まれたのかわからないでしょ?あなたに誕生日を聞かれても答えられなくてモジモジしてたら、『今度僕と会った日が君の誕生日だよ』って言ってくれたの」
そこまで話すと、キャンディは真っ赤になってしまった。
淡く優しい初恋の物語。
彼も自分もほんの子供だったが、もう恋の味を知っていたのだ。
「僕と会った日が君の誕生日・・・か。キザなこと言ったんだな」
つぶやいた瞬間、アンソニーははっきり悟った。
自分はこの娘を、限りなく愛していたのだと!
そしてこれからも、ずっと愛し続けるだろう。
それは確かな予感だった。
たとえ記憶を失ったままでも、そんなことはどうでもいいとさえ思えた。
このままキャンディと一緒にいられれば・・・心の声は、何度もそう叫んだ。
だが夢を現実に引き戻したのは、レイチェルの声。
「アンソニー、今戻ったわ。こんなところで立ち話をしてると、体に悪くてよ」
そう言ってキャンディのほうを向き、キッとにらみつける。
あまりのすごさに圧倒され、挨拶すら出てこない。
「あ、あの・・・ごめんなさい。私、そろそろ失礼するわ」
そう言うのがやっとだった。
別に悪いことをしているわけではないのに、アンソニーと二人でいるところを見られてしまって、後ろめたかったのだ。
「レイチェル、彼女は悪くないよ。偶然会ったから、一緒に散歩しようって僕が誘ったんだ」
「あなたが?」
レイチェルは悲しそうな顔をした。
アンソニーはアンソニーで、オロオロしている。
しばらく戻れないと言っていたのに、こんなに帰りが早いなんて想定外だ。
彼もまた、キャンディと同じような罪悪感にさいなまれているのだろう。
「アンソニー、お部屋に戻ったほうがいいわ。先に入っててちょうだい」
「う、うん・・・そうするよ。じゃあキャンディ、またね。今日は楽しかった」
こんなことしか言えない自分が情けない。
本当はキャンディと一緒にいたいのだ。誰にも遠慮せず、いつまでもずっと。
だが本音とは裏腹に、レイチェルの期待には背けない。
だって彼女は命の恩人だから。
自分が今ここにあるのは、彼女のおかげだから。
一生かかっても返しきれない恩義を思うと、あまりの重さに、アンソニーは辟易(へきえき)した。
レイチェルが喜ぶことをしよう、レイチェルを悲しませてはいけない──今まではそれを当然のことと思ってきた。
これからの人生をそうして生きていくことが彼女への恩返しだと、心に誓って疑わなかった。
キャンディに会うまでは。
でも、今は・・・
アンソニーが引っ込んでしまうと、キャンディは早々に退散しようとした。
だがそれを止めたのはレイチェル。
「ちょっと待って!話があるの。少し歩きましょう」
びくっとする。
出来るなら、顔を突き合わせたくなんかない。
でもはっきり呼び止められてしまったのだから、逃げるわけにはいかないだろう。
観念して、「ええ、いいわ」と答えた。
二人はバラの門から正門へとゆっくり歩いていく。
これから何を言われるのか、大体想像がつくだけに辛い。
「キャンディって言ったわね?」
レイチェルが切り出す。
「お願い!これ以上アンソニーに近づかないで。昔どんなことがあったか知らないけど、迷惑なのよ」
予想はしていたが、面と向かってはっきり言われると、心臓がえぐられるようだ。
「私はただ、アンソニーに早く記憶を取り戻してほしいから・・・」
「記憶なんて戻らなくてもいいの!」
レイチェルは肩を震わせながら、大声で叫んだ。
「昔のことを思い出したからって、なんになるの?あの日、バラの門であなたに会うまで、私たちは幸せだったわ。放っておいてほしかったのよ。それなのに、あれからアンソニーは変わってしまった。恐いのよ、あの人が変わっていくのを見てるのが・・・」
へーゼルの瞳は、涙でうるんでいる。
(ああ、この人もアンソニーを愛してるんだわ!)
彼女の瞳に光ったものを見て、キャンディは確信した。
「記憶が戻らなくてもいいなんて、そんなこと言っちゃダメよ。今のアンソニーがあるのは、昔のアンソニーがいたからでしょ?過去を思い出すことは大切だと思うわ」
「そんなの奇麗事よ。きつね狩りのあと、アードレー家の人たちはみんな、アンソニーを見捨てたくせに!キャンディ、あなたもよ。彼を本気で愛してたなら、どうしてそばにいてあげなかったの?何年も放っておいたの?その間、あなたは何してた?まさか、他の人を好きになったなんて言わないでしょうね」
キャンディはびくっとした。
絶対に言われたくないセリフを打ち込まれ、みるみる蒼白になっていく。
足がすくむ。心臓が、狂ったように不協和音をかき鳴らす。
「だって私、アンソニーが生きてること、知らなかった。誰も教えてくれなかった・・・」
弱々しい言い訳が、やっとの思いでしぼり出されたが、レイチェルに聞こえるはずもない。
益々激昂(げっこう)した声が、そこらじゅうに響き渡る。
「もしもアンソニーがずっと障害を抱えたままなら、アードレー家には一生呼び戻されなかったはず。それを今になって、外傷が完治したから戻って来いなんて、あまりに調子が良すぎない?だから『アンソニーを返してください』って、アルバートさんにお願いしてきたの」
やっぱり!
思ったとおりだ。
レイチェルはアルバートに抗議しに行ったのだ。
アンソニーを蘇らせたのは自分だから、誰にも渡さない・・・と。
「彼は言ってくれたのよ、『ずっと二人でいようね』って」
キャンディには苦い言葉だった。
アンソニーは、レイチェルと結婚の約束をしていたんだろうか。
そして自分と再会した今も、変わらずそうしようと思っているのだろうか。
「レイチェル、安心して。アンソニーがそう言ってくれたなら、何も恐れることはないじゃないの。記憶が戻っても、あなたのそばを離れていくような人じゃないと思うわ。でもアンソニーの人生は、アンソニー自身が決めるものよ。そうでしょ?」
キャンディは自分にも言い聞かせるように言った。
そうだ、アンソニーの人生は、彼自身が決めるもの。
彼がこれからどんなふうに生きていくのか、ただ見守るしかない。
落ち着いて話すキャンディに焦りを感じたのか、レイチェルは半ばヤケになって言い放つ。
「これだけは覚えといて。アンソニーを守ってきたのはあなたじゃなくて、この私だってことをね!」
残されたキャンディは、絶望しながら彼女の背を見送った。
きっとレイチェルは、本来いい人なのだろう。
それをあんな激しい気性に変えてしまったのは、自分かもしれない。
申し訳なく思いながら、アンソニーへの想いだけは、どうしても断ち切れなかった。