アンソニーVSテリィ in 聖ポール学院  ~第5話~


翌日の昼休み、キャンディは約束どおり男子寮の裏庭へとやってきた。
今日こそはアンソニーに告げなければならない・・・夏休みはアメリカに帰るのではなく、スコットランドのサマースクールに参加するのだと。
言ったら、彼はどんなにガッカリするだろう。悲しい顔を想像しただけで、キャンディの胸はチクチク痛む。


アンソニーは「にわかバラ園」にもう来ていた。一体彼女がどんな答えを用意してくるか、待ちきれないという顔をして。
それを見たキャンディは、申し訳ない気持ちで一杯になり、どう切り出していいのか途方に暮れた。近づいていくことさえ出来ない。
立ち止まったままモジモジしていると、遂に見つかってしまった。
アンソニーが大股でこちらへ歩いてくる。

「やあ!来てくれたんだね。忙しいのにごめん」
「ううん、そんなこと・・・」

そう言ったきり下を向いてしまった彼女の顔は沈んでいる。
口を開かずとも、それを見ただけでアンソニーには察しがついた。

「何も言わなくていいよ。君の目を見れば、答えは分かるから」
「アンソニー」

グリーンの瞳が思わず彼を見上げた。

「残念だけど仕方ないね。でも帰ろうと思えば、アメリカにはいつでも帰れる」
「本当にごめんなさい。でもね、テリィに誘われたからサマースクールに参加するわけじゃないのよ。それだけは信じて」
「じゃ、やっぱりテリィも君を誘ったんだ・・・」

アンソニーの表情が曇ったのを見て、キャンディは「しまった」と言う顔をしたが、後の祭り。

(私ったらバカね。言わなきゃ良かった。彼を悲しませるだけなのに)

そして慌てて付け足した。

「丘の上の王子様はスコットランドの人じゃないか、ってパティが言ったの。だからそれを確かめたくて」
「王子様?」
「ほら、いつか言ったでしょ。私が6歳の時、ポニーの丘で会った・・・」
「ああ、覚えてる。君の初恋の人だよね?」

アンソニーが笑うと、「違うわ」とムキになるキャンディ。
「初恋は王子様じゃないの。王子様じゃなくて・・・あなただわ」

無意識に出た言葉に、頬が紅潮した。
顔が火照って熱くなり、キャンディは思わず手を当てる。

「嬉しいよ。今でもそう言ってくれて」
言葉とは裏腹に、寂しげな色が漂って揺れる。
自分を慰めるために一生懸命気を遣ってくれるのが、却って惨めだったから。
だが彼女に気づかれないよう、努めて明るい声を出した。

「じゃあ、僕も一緒にスコットランドへ行くことにするけど、それでもいい?」
「勿論よ!とっても嬉しいわ」

キャンディは目を輝かせ、今にも飛び上がらんばかりの勢いだ。
一挙に悩みが吹っ飛んだかのように、晴れやかな表情で引き上げていった。

アンソニーが快く自分の結論を受け入れてくれた上、サマースクールに同行するのがよほど嬉しいのだろう。
そんな彼女の無邪気な後姿を見送りながら、心の中でそっと呟いた。

(キャンディ、丘の上の王子様はスコットランドの人なんかじゃないよ。本当は君のすぐそばにいて、いつも見守ってくれるあの人・・・。でも、僕の口から今は言えない)



その時、強い風が吹いて裏庭の木々を大きく揺らした。
そのせいか、濃い緑に色づいた葉が頭上から何枚も落ちてきた。
何気なく見上げたアンソニーは、驚きのあまり「あっ」と声を上げる。

「君!そんなところで何やってるんだ」
「見つかっちまったんならしょうがない」
木の上から返ってきた声は、ちょっと鼻にかかったアッパークラスアクセント。

「高い所で覗き見するのが英国紳士の流儀とは、恐れ入ったね。僕はてっきり卑怯者がすることだと思ってたよ」

怒りをあらわにするアンソニーをからかうように、声の主はヒラリと地上に舞い降りた。

「卑怯者とはご挨拶だな。生憎と、ここは俺の特等席なんでね。断りもなく勝手にラブシーンを始めたのはそっちだぜ。尤も、振られたようにお見受けしましたがね、お坊ちゃま」
鼻でせせら笑うと、テリィは嫌みたっぷりの視線を投げた。

「振られてなんかいない!」
「同じことさ。キャンディはスコットランド行きを選んだ。つまりは俺の勝ちってことになる」
「それは違う。彼女がスコットランドに行くのは丘の上の王子の・・・」
「細かいことなんかどうだっていい。結局あんたの思い通りにはならなかったんだろう?それが彼女の答えさ。諦めるんだな」
アンソニーの言葉を遮ると、テリィは大声でまくし立て、更に挑発を続けた。

「負け犬の遠吠えはみっともないぜ」
「黙れ!それ以上言うと、ただじゃおかない」
「へえ~。ただじゃおかないって、どういうこと?」
「こういうことさ!」

ニヤニヤ笑うテリィの顔面めがけ、強烈な右ストレートが炸裂したのはその瞬間だった。
もんどりうって地面に倒れたテリィは、口元から血を流しながらも不敵な笑いを浮かべる。

「意外だったな。ただの腰抜け優等生だと思ってたが、やるときゃやるんだ。見直したよ」
青い瞳に炎が燃え上がり、アンソニーの肩は荒い呼吸で激しく上下している。真剣な眼差しで拳を握り締めたままだ。
「ふざけるな!今日という今日は白黒つけてやる」
「ほおー、面白い。やってやろうじゃないか。借りは即座に返すのが俺の流儀なんでね」

そう言うが早いか、テリィは全身をバネのようにして跳ね起き、相手の左頬に電光石火の一撃を食らわせた。
予期しなかったアンソニーは、仰向けに倒れこむ。

「大怪我しないうちにやめといた方がいいぜ、坊や」
「それはこっちの台詞だよ」

アンソニーは寝転んだ姿勢のまま、テリィの左足に自分の足を引っ掛け、なぎ倒した。
「うわあっ」と悲鳴に近い声を上げながら、テリィは地面に倒れ、上から覆いかぶさったアンソニーと取っ組み合いになる。

「君なんかにキャンディを渡せるか!僕らはずっと前から付き合ってるんだ」
「そんなの関係ないね。キャンディにとっちゃ、もう過去だろう。今更出てきたって遅いんだよ」
「彼女に聞いてみなきゃ分からない」
「分かりきってるさ。でなきゃ、夏休みはあんたと一緒にアメリカへ帰るはずだろう」
「だからさっきも言ったじゃないか。彼女の初恋の人がスコットランドに・・・」
「しつこいんだよ。俺は回りくどい話は大嫌いなんだ」

土の上を転がり、互いの胸倉を掴んでパンチの応酬をしながら、二人は息を切らして感情を激突させた。
甲乙付けがたい大激戦だ。力が拮抗していて勝負がつかない。
大の男が全力でぶつかり合っているので、普段は静かな裏庭の空気が、かき乱されるように大きく揺れた。
運悪く、見回りのシスターたちが向かってくる。

「まあ、大変です。見て下さい!男子生徒が二人、バラ園の脇で大ゲンカをしてますわ」
「誰だか分かりますか」
「はっきり見えませんが、一人はアンソニー・ブラウンじゃありませんか?あのバラ園は彼のですから。もう一人は・・・」
目を凝らした後、「テリュースですわ。テリュース・G・グランチェスター」と答えた同僚に、シスター・クライスはため息をついた。
「相手はあのテリィですか。問題児の・・・」
「ええ、そのようで」
「とにかくシスター・グレーに連絡しなければ。私が呼びに行っている間、大事に至らないようにあの二人を見張っていてくださいよ」
「はあ」
そう言われたところで、近づくのさえ怖かった。生徒とはいえ、もう立派な男。うっかり止めに入ったら、自分の身が危なそうだったから。


そして30分後。二人は院長室に並んで立たされていた。
ズボンはボロボロ。シャツは泥まみれ。顔中傷だらけ、全身アザだらけになりながら・・・。

「テリュース・G・グランチェスター、アンソニー・ブラウン。これは一体どういうことです?神聖な学院を何と心得ます。あんな野蛮な行為が許されると思っているのですか。テリュースはともかく、アンソニー、あなたまで。罰として3日間の反省室入りを命じます!」

冷静を取り戻した今、アンソニーは深く反省して頭をうなだれたが、テリィはどこ吹く風という顔で、窓の外を見ていた。

自分のせいで二人がとんでもない目に遭っているとは露知らず、キャンディは午後の授業を受けながら、呑気に居眠りをしているところだった。




アンソニーとテリィが罰則を食らったことは、キャンディの耳にもすぐ入った。

それは午後の授業が全て終わって、そろそろ寮へ引き上げようとしていた夕方のこと。
血相を変えて教室に飛び込んできたルイゼが、イライザの席へ直行した。

「大変よ!たった今、シスターたちが立ち話してるのを聞いちゃったんだけど、アンソニーとテリィが反省室行きになったらしいわ」
「なんですって!」
「裏庭のバラ園で取っ組み合いのケンカをしたそうよ」
「まあ、なんてこと・・・」

驚いたのはイライザだけではない。キャンディも椅子を蹴って立ち上がり、ルイゼの所へ駆け寄った。

「その話、もっと詳しく聞かせてくれない?」

だがイライザは目をきっと吊り上げ、居丈高に拒絶した。

「こんな子に話してやる必要なんてないわ。どうせあんたが絡んでるんでしょうよ。そうでなきゃ、あの優しいアンソニーがケンカなんかするわけないわ。学院一の不良を相手にして。テリィだけじゃ飽き足らなくて、アンソニーまで毒牙にかけるつもり?そんなの、この私が許さないわよ。事故はきつね狩りだけでもう沢山。これ以上アンソニーに近づかないでちょうだい!」

茶色い瞳をギラギラさせて言い放つと、「行きましょ、ルイゼ。ここにいるとその子の『下品』が移るから」と吐き捨て、連れ立って教室を出て行ってしまった。

諦めて席に戻ろうとしたキャンディが体勢を変えると、そこには心配顔のアニーとパティが・・・
「大丈夫?イライザを敵に廻したら、また厄介なことになるわ・・・」
「平気よ。二人ともそんな顔しないで!彼女の意地悪にはもう慣れっこ。それにこのまま引き下がるキャンディ様じゃないわ」
「え?」
「任せといて!いい考えがあるの」
自慢げに鼻を鳴らすキャンディだったが、アニーもパティも、気が気ではなかった。




陽の光が殆ど差し込まず、薄暗くて湿気のこもった反省室──
高い天窓があるだけで、ここから外の様子は見えない。
置いてあるものといえばベッドだけ。
塗装のはげかけた壁。かび臭い匂い。救いようのない陰気な空間。
静かにしていると、余計に気が滅入った。
アンソニーは両腕を枕代わりにしてベッドに寝転がっている。

(なぜあの時、僕は手を出したりしたんだろう。こうなることは分かりきってたのに)

最初にテリィの顔面を殴ったのはアンソニーだった。
いわば「ケンカの発端」を作ってしまったのだ。
争いを好まず、いつも冷静に対処する自分が、前後の見境いもなく殴りかかったことが、相当ショックだった。

(あいつ・・・余裕たっぷりだったな。それほどキャンディと心が通い合ってるのか?深い絆があるのか?悔しいけど、今の僕にそんな自信はないよ。そう思ったらたまらなくなって、いつの間にか殴ってた)

そして右手を見つめる。

(しっかりしろよ、アンソニー!こんなことじゃ、キャンディにも迷惑がかかってしまう。最悪だ)

起き上がってもう一度右手に目をやると、拳を握り締め、自分の左手を強く打ちつけた。同じことをニ、三度繰り返す。
今度はベッド脇の壁に向かって、思い切りパンチを繰り出した。
「ううっ」と声を漏らし、鋭い痛みに顔を歪めて頭を垂れると、壁には鮮血がにじんでいた。




テリィが入れられた反省室は、五月祭の時にキャンディが入ったのと同じ所だった。
彼女が使った同じベッドに腰掛け、外れかけた窓を見上げた。
あの時と同じ空が広がる。
違っているのは、差し込む日の光が、五月よりずっと強くなったということくらいだろうか。

(あいつ・・・ただのヤサ男じゃなかった。バラ作りが趣味って言うから、ひ弱なぼんぼんだと高をくくってたんだが)

まだヒリヒリする口元を押さえながら、テリィは「あの一撃」を思い起こしていた。

(とんでもない食わせ物だったよ。あれじゃ、俺と大して変わらない。どこが優等生だって?シスターグレーのお気に入りだって?笑わせるぜ。それともキャンディ欲しさに、ヤケでも起こしたか)

苦笑した瞬間、窓の外に人の気配を感じた。
もしやと思って駆け寄ると、そこには案の定、思った通りの闖入者が・・・

「キャンディ、一体どうしたんだ?」
「それは私の台詞よ!」

言いながら、彼女はむくれて見せる。
テリィがそっと窓を開けると、「全くもう。心配させるんだから」と、キャンディは笑った。

「ごめん。ケンカしちゃってさ。つい殴っちまった。あいつ・・・いや、アンソニーの顔見てたら、無性に腹が立って」

気まずそうに頭を掻くテリィを、彼女は「しょうがないわね」という顔で見つめた。

「はい、これ。お腹がすいたら食べてちょうだい」

差し出された可愛い布袋を開けてみると、中はお菓子の山。
クッキーやらマドレーヌ、パウンドケーキ、チョコレート・・・それにキャンディ。

「へえ~、キャンディがキャンディの差し入れねぇ。こいつはいいや」
「でしょ?」
「お腹がすいたら食べて・・・って、ホントに食べちゃっていいの?」
「もちろん!」

腰に手を当て、ふんぞり返ってみせる自慢げなキャンディを見て、テリィはニヤッとする。

「じゃあ、遠慮なく頂くよ・・・君をね!」

そう言って急にキャンディを抱き寄せた。

「テ、テリィ!」

突然の出来事に、言葉が出ないほど驚くキャンディ。

「だって君がいいって言ったんだぜ。お腹がすいたらキャンディを食べてって。俺、腹ペコなんだよ。もう我慢できない」
「その『キャンディ』じゃないでしょ。テリィったら、もう!こんな時にふざけないで」

腕の中でもがきながら怒って見せたが、本当は嬉しかった。
顔が真っ赤になる。
心臓は、きっと彼に聞こえていると思うほど、激しく強く鳴り響いた。

「それもそうだな。残念だけど今日はこの辺でやめとくか。誰かに見られたら今度は学生牢行きだし」

腕から解放され、やっと自由になったキャンディは、「そんなことになったら大変!」と青い顔をする。

「冗談だよ。あと一日、ここでおとなしくしてれば大丈夫さ」
ウィンクするテリィに頷くと、「じゃ、私、行くわね」とキャンディは帰る体勢をとった。

「あ、ちょっと待って・・・」
呼び止められて振り返ると、「あいつの所へも行ったのか?」と少し不安げな瞳が問いかけてくる。
「ううん、行ってないわ」
短く答えると、キャンディは笑顔で手を振って視界から消えた。
その後には、ちょっと安心したテリィの顔が、窓ガラスにぼんやり写っていた。

(ごめんなさい。本当はアンソニーの所へ行こうとしたの。でもイライザに止められて・・・)

屋根の上を走りながら、キャンディの脳裏には、ついさっき起きた光景がよぎる──


「やっぱり来たわね。思ったとおりだわ。だってここはアンソニーが入れられてる反省室へ行くのに、一番の近道だもの」

男子寮の裏手にある林の入口で待ち伏せしていたのは、仁王立ちのイライザ。

「どんなことがあっても通さないわよ。だってあんたはアンソニーに会う資格なんかないもの」

褐色の瞳には、いつもより激しい侮蔑の炎が燃えたぎっている。

「イライザ、お願い!通してちょうだい。だって彼は私のせいで・・・」

強行突破しようとするキャンディの前に、尚も彼女は立ちはだかる。

「あんたのせいなら余計に通せないわ。それにこんな所で油を売ってる場合じゃなくってよ。他に行く所があるんでしょうから」

意地悪そうにフフッと笑い、「テリィの反省室に行くんでしょ?」と、声は続いた。

「アンソニーは私に任せて、あんたは愛しい人の所へ行けばいいじゃない。それでもここを通りたいなら、私を殴り倒してからにすることね。シスターたちが慌てて飛んできて、そりゃあ大騒ぎになるでしょうよ」

勝ち誇ったように高笑いをするイライザに観念し、キャンディは仕方なくアンソニーの反省室へ行くのを諦めたのだった。




それから約30分後、アンソニーの所にはイライザが忍び込んでいた。山のような差し入れを持って。
どうやって辿り着いたのか、全くもって謎だったが、何とかして彼に取り入りたいという執念が、ここへ導いたのだろう。
あきれるやら、うんざりするやらで、アンソニーの反応はいつにも増してそっけなかったが、イライザには大して問題ではないらしい。
遠回しに拒否反応を示したところで、無神経な彼女には伝わらないのだ、きっと。

辟易してため息を漏らすと、漸く彼女は核心を突いた。

「キャンディを待ってても無駄よ」
「え?」
今まで無関心だったサファイアの瞳が、突然敏感になった。
「あの子は来ないわ。だってテリィのところへ行っちゃったもの」
「・・・!?」

ショックで二の句が継げない彼を口説き落とそうと、猫なで声がとどめを刺した。

「ねえ、アンソニー。あんな浮気者のことなんかもう忘れて、もっと確かなものを見つめて欲しいの」
「は?」
「私よ。私を見てちょうだい!いつだってあなただけを想ってきたのよ」

媚びるようないやらしい視線をまともに食らったとき、思わず吐き気を催したが、アンソニーはやっとの思いで「そりゃどうも」と絞り出した。