見送りを終えてアンソニーがバラの門へ帰ってくると、待ちかまえていたレイチェルは、火がついたようにしゃべりだした。

「ひどいわ!なんの連絡もなく外泊するなんて。あなたがキャンディと一緒にどこかへ行ってしまったんじゃないかと思って、私、不安で不安で・・・」
「ごめん、君には迷惑ばかりかけてるね。でも、それも今日で終わりだ」

アンソニーは何かを決心したように言う。
レイチェルは、もしや、という明るい希望に目を輝かせた。
もしかしてキャンディに別れを告げ、今度こそ、自分だけを見つめてくれるのではないかと。

「キャンディにお別れを言って来たの?」
「ああ」
「じゃあ、私と一緒にいてくれるのね!」

レイチェルは嬉しそうに、屈託のない笑顔を見せたが、それもほんの一瞬だった。

「残念だけど、そうじゃないんだ。君には酷だろうけど、どうか聞いてほしい」

束の間の幸せが消えていく。
あまりにはかなく、あまりに脆(もろ)く・・・
呆然として言葉も出ないレイチェルのかたわらで、アンソニーは苦しそうに続ける。

「今まで君は、本当に献身的に尽くしてくれた。今の僕があるのは君のおかげだ。心から感謝してる。その恩に応えて一緒に生きていくことを、僕は当然だと思ってきたんだ。あの日、バラの門でキャンディに会うまでね。だけど彼女に会ったとき、僕の中で何かが蘇った。今思えば、あれが『始まり』だったよ。それから毎日毎日、日が経つごとに彼女への想いは強くなっていった。大切な君の存在を忘れてしまうほどに。そしてつい最近、気づいたんだ。これが『恋』なんだって。それと同時にわかってしまった。君に抱いてる気持ちは、世話になったことに対する恩義だけだってこと」
「いや!聞きたくないわ!」

苦い告白を聞いていたレイチェルは、ついに耐えられなくなって叫んだ。
興奮のあまり、細い肩が震えている。

「あなたは、キャンディをテリィに取られて、悔しいだけなんだわ。周りのことが、まるで見えなくなってるのよ。でも時間が経てば落ち着くはず。またいつもの冷静なアンソニーに戻るわ。だからお願い!これ以上馬鹿なことは言わないで。彼女は行ってしまったのよ。もう戻っては来ないわ。夢を追うのはやめて、現実を見てちょうだい!」
「夢なんかじゃない。しっかり現実を見た上で言ってるんだ。君に幸せになってほしいから」
「そんなのおかしいわ。だって私を幸せにしてくれるのは・・・あなたしかいないんですもの」

言われた途端、アンソニーはびくっとした。

「わかってるんでしょ?」

とどめを刺すレイチェルに、しばらくは返答できなかった。
いや、答えるのが怖かったのかもしれない。
だがここで黙り込んでしまっては、真意を伝えることは出来ないのだ。
傷つけるのを覚悟の上で、アンソニーは重い口を開く。

「これだけは言っておくよ。恩義と愛情は別ものなんだ。愛してない人と一緒にいても、絶対に幸せにはしてやれない。そして君も、愛されてないことを思い知らされ、いつか深く傷つく。僕は君を、そんな目に遭わせたくないんだ」
「じゃあ・・・じゃあ、あなたに愛されるように努力するわ。どんなふうに変われば、愛してもらえるの?悪いところは全部直すから教えてちょうだい。ねえ、お願いよ!」

泣きながら懇願するレイチェルを見るのが哀しかった。
彼女が自分のために、目を真っ赤にして泣きじゃくるのを、これ以上見るのは忍びなかった。

「そんなふうに考えるのは間違ってる。誰かに愛してもらうために自分を変えるなんて、思っちゃいけないよ。ありのままの君を愛してやまない人間が、きっとどこかにいるはずだ。その人に出会うまで、自分を大切にしてほしい。ねえレイチェル、昨日も話したけど、僕はアードレー家には戻らないつもりだ。家の力に頼らずに、アンソニー・ブラウンとして一人で生きていきたいんだ。この屋敷も出る。だから君もニューヨークへお帰り」

諭すような優しい言葉が胸に痛くて、レイチェルは涙を流すばかりだ。

「いやよ!離れるなんて、絶対いや」
「今まで本当にありがとう。幸せになってくれ」
「あなたはひどい人だわ。好きな人から『幸せになれ』って言われることが、どれ程辛いかわかる?このまま別れるなんて出来ない。あなたを助けて守ってきたのは、この私なのよ!」

泣き叫ぶ言葉が、心臓に突き刺さる思いだったが、必死にこらえてアンソニーは振り向かなかった。
それが彼女に残してやれる、本当の優しさだと思ったから。



「そこまでだ、レイチェル。もうやめるんだ」

叫び続ける彼女を制したのは、アルバートだった。

「悪いけど、君たちの話し声が聞こえたんで、立ち聞きしてしまったんだ。許してくれ。アンソニーは決心したようだね。もう何を言っても無駄だよ。それに君の中でも、もうとっくに答えは出ているんだろう?」

すべてを見透かされていることが、レイチェルにはわかった。
この人には、とてもかなわないと思う。

「アンソニーに愛されてないことを、君はもう随分前から知っていたはずだ。そして彼の心が誰にあるのかもね。でも、もしかして心変わりしてくれるかもしれないことに賭けたんだろう?かわいそうに」
「全部キャンディのせいよ!」 

レイチェルはキッとした表情になり、目をつり上げて言った。

「あの子さえ現れなかったら、私たちはいつまでも幸せだったのよ。それなのにあの子は、アンソニーではなくテリィを選んで行ってしまったわ。私たちの仲をメチャメチャにして、自分だけ幸せになるなんて許せない」
「それは違うよ。キャンディはずっと悩んで苦しんでた。レイチェルの幸せを壊してまで、アンソニーを愛してはいけないってね」

レイチェルは一瞬ハッとした。
ではキャンディは、自分の想いを犠牲にしてアンソニーをあきらめたのだろうか。
テリィと結婚したくて、ニューヨークへついて行ったわけではなかったのか。

「アンソニーを愛して彼に尽くしたことは、決して無駄にはならないよ。君のこれからの人生で、大きな意味を持つはずさ。自分はこんなにも深く人を愛せるんだとわかったんだからね。誰にでも出来ることじゃない。君はそれを立派にやり遂げたんだ。だけどアンソニーは君にとって、『運命の人』じゃなかった。こればかりはどうしようもないんだよ。僕らが生まれる前から、神様が決めてしまってるんだからね。だから時が経つのを待ってほしい。君はいい子だ。献身的で、しかも美しい。その素晴らしさを、心底理解して惚れ込んでくれる奴が、いつか絶対現れる。保証してもいいよ。だからもう、そんなに哀しい顔をして泣きわめくのはやめてくれ。僕まで切なくなってくるから。運命の相手が現れるまで、自分を磨いて待つんだ。君にはそれが出来る」

アルバートの言葉を聞いているうちに、心の中で何かが溶けていくのを感じていた。
今までこだわっていたものや、強いわだかまり、それら全部が雪崩のように消え去っていくのを。

「アルバートさん、ごめんなさい。私、随分イヤな女だったわね。頭の中ではわかってたのに、つまらない意地だけでアンソニーを引き止めてたわ。本当を言うと、愛されていないのを知りながら、すがりついてるのはすごく辛かったの。私、ニューヨークへ帰ります。もう一度病院に戻って働くわ。そしてアンソニーみたいな、いいえ、彼よりもっともっと素敵な人に巡り会って、今度こそ本当に愛してもらえる日を待ちます」
「それがいい」

最後まで意地っ張りな彼女を見て、アルバートは思わず微笑んだ。

「アンソニーによろしく伝えてください。今までごめんなさい。そしてあなたが本当に好きな人と幸せになってくださいって」
「会っていかないのかい?」

レイチェルは静かに笑うと、首をゆっくり横に振った。

「会ったらまた、彼を苦しめるようなことを言ってしまいそうだから」

彼女が荷物をまとめ、黙ってレイクウッドを後にしたのは、その日の夕方だった。
ニューヨークへ帰り、今度こそ本物の幸せをつかむために。





レイクウッドを出発してニューヨークへ向かう前に、キャンディとテリィには、行かなければならないところがあった。
ポニーの家だ。
二人揃ってポニー先生とレイン先生に、婚約を報告するつもりだった。
朝レイクウッドを出たときには、曇り空でおさまっていた空模様だが、時間が経つにつれて雨雲が広がり、ついに大粒の雨が音を立てて降って来た。



夕方にはポニーの家に到着した。
突然の来訪者に、ポニー先生やレイン先生、それに子供たちは驚いていたが、二人の婚約をとても喜んでくれた。

「キャンディ、随分前の休暇に帰ってきたきり、音沙汰なしだと思っていたら、こういうことだったのね」

ポニー先生は二人の顔を見比べながら、にっこり笑った。

漠とした不安を覚えながら、これから起こるかもしれない「人生の転機」に思いを馳せていた春の日以来、キャンディはポニーの家に戻ってはいなかった。
あれからそんなに月日は経っていないはずなのに、なんていろいろなことが起こったのだろう。
アンソニーとテリィ──最愛の男性が二人同時に現れたせいで、一生分の迷いを背負い込んでしまった気分だ。
だが「テリィと結婚する」という形で、決着がつこうとしている。


「こんなに素敵な人がいたんですもの。悔しいけど、ここから足が遠のいても仕方がないですわ」

レイン先生がちょっと淋しそうな顔をして続けた。

「あなたはいつだったか、雪の降る寒い日に、お一人でここにいらしてくださいましたね」

テリィに向かってポニー先生が懐かしそうに言うと、「ええ。あのときは突然お邪魔して失礼しました」と彼。

「まさかあの日のあの方と、キャンディが結婚することになるなんてねぇ。ブロードウェーで俳優をしていらっしゃるんでしょ」
「はい。このあとニューヨークへ行って正式に婚約を発表します。その前に是非先生方にご挨拶を、と思いまして」

テリィの言葉に、ポニー先生とレイン先生は心から感謝したが、キャンディの表情が沈んでいることが、二人とも気になって仕方なかった。



「ねえポニー先生、キャンディの様子、ちょっと変じゃありませんでした?なんだか妙に寂しげで」

二人を残して客間から出てきたレイン先生が、ポニー先生にそっと耳打ちした。

「あなたも気づいてましたか。確かに、いつものキャンディじゃないわね。でも、長いこと車に揺られてきたから、疲れたんでしょ。雨も降っていましたしね。大丈夫。明日になって晴れれば、普段の明るいキャンディに戻りますよ」
「そうだといいですわ。こんなお天気じゃ、大好きなポニーの丘にも上れませんものね」 

二人は顔を見合わせて笑った。




その次の日は、うって変わったように青空が広がった。
今日はポニーの家を発って、いよいよニューヨークへの長旅に出ることになっていたので、皆ホッとしている。

「雨の中、長い道のりを運転していらっしゃるのは大変でしょう。お天気になって、本当に良かったですわ」 

レイン先生はテリィを気づかった。

「こんなに爽やかに晴れたことを、神様に感謝しなくてはね。さあキャンディ、テリィと二人でポニーの丘へ行ってらっしゃい。ずっと上りたくてウズウズしてたでしょ?」

ポニー先生がキャンディを促す。

「ええ。じゃあ、行って来ます。でも今日は一人で上りたいんです。テリィ、ごめんなさい。いいかしら?」

本当は二人で上って新鮮な空気を吸い込み、今までのことを全部忘れ、新しい気持ちで出発したいとテリィは思っていたのだ。
が、「いいよ」と言って見送るしかなかった。
恐らくは一人になって、アンソニーとの思い出を精算したいのだろう。
テリィは気をきかせた。



雲一つない、澄み切った空の下、キャンディはたった一人でポニーの丘を上っていく。
すがすがしい風が頬に心地よく、美しい自然に包まれていると、哀しい恋の思い出も、すべて吹き飛んでいってしまう気がした。
そう思って見下ろすと、ポニーの家がどんどん遠ざかって小さくなっていくのが見えた。


(このまま一人で、どこかへ行ってしまいたい。誰にも何も言わず、ひっそり消えてしまいたい)

キャンディはそんな思いに駆られた。

そう言えば、アンソニーが死んだときも、この丘に一人で立った。

──私、もう泣かない。強く生きていくから見守っててね、アンソニー ──

そう心に決めて大地を踏みしめたことを、キャンディは思い出した。

(折角生きて帰ってくれたのに、なぜつかまえててくれなかったの?)

思った途端、目から涙がこぼれ落ちた。
涙は後から後からあふれてきて、止めることが出来ない。
こんな切ない想いをするなら、生きていたことを知らないほうが、幸せだったろうか。
出来るなら、アンソニーと再会する前に時を戻して、新たな気持ちでテリィとやり直したいとさえ、思った。


そのときだ。
背後にある木から、懐かしい声が聞こえたのは。

「泣かないでベイビー。君は笑った顔のほうがかわいいよ」 

──この声は・・・この優しい声は、もしや、「あなた」なの?──

キャンディは胸を躍らせて振り返る。
そこには、思ったとおりの人物が立っていた。
抱えきれないほどのスイートキャンディを花束にして。 

──アンソニー!──
  
やっぱり彼は来てくれたのだ!

「迎えに来たんだ。あれからずっと考えてた。それで、はっきりわかったよ。僕には、君がいなきゃダメなんだって。だから、いやだと言っても連れていく。いいね?」

(ああ、何を迷っていたんだろう。私が愛してるのは、この人なのよ。今勇気を出さなきゃ、永遠に彼を失ってしまう。そしたら生きていけないわ。アンソニーがいなければ、私は生きていけない!)

キャンディは長い眠りから覚めたように、爽やかな気持ちだった。
もう絶対に迷わない。
そう心に決めて告げる。

「アンソニー、ここで待ってて。私、すべてを捨てて、あなたと一緒に行きたいの。だからお願い。絶対にいなくなってしまわないって、約束してね」
「勿論だよ。いつまでも待ってる。だから安心して行っておいで」

アンソニーにはわかっていた。
キャンディはテリィに、別れを告げに行くのだと。



キャンディはスカートのすそを翻し、ポニーの家へ駆け下りていく。
今は心も体も、こんなに軽い。
アンソニーと二人で翔ぶためには、意を決し、はっきり言わなければ!
テリィはショックを受けるだろうが、偽りの気持ちでニューヨークへ行くことのほうが、もっと彼を傷つけてしまう。
だから真実をぶつけて、伝えるしかない。
キャンディは自分にそう言い聞かせた。




客間では、出発を控えたテリィが、今か今かとしびれを切らして待っていた。
そこに、息を弾ませたキャンディが飛び込んでくる。

「どうしたんだ、そんなにあわてて。もう出発するから早く支度して!」

キャンディはうつむき加減で、申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさい。私、やっぱり、あなたとは一緒に行けない・・・」

聞いた瞬間、心臓が凍りつくのをテリィは感じた。
うすぼんやりとした覚悟はあったが、改めてはっきり言われると、信じられない思いだ。
いや、信じたくない・・・

「ポニーの丘に、誰かいたんだな?」

キャンディは静かにうなずいた。

「誰か」とは、誰のことなのか、テリィにはわかりすぎるほどわかっていた。
だが恐くて、その名を口にする勇気がなかったのだ。

「その人と一緒に生きていきたいの。彼を失ったら、私は勿論、きっとあなたも、みんな不幸になってしまうわ。だからお願い・・・」

真剣な目が訴えた。
初めは怒るような目つきで見据えていたテリィだったが、やがてそれは、淋しそうな笑顔に変わった。

「わかった。俺の負けだ。『あいつと俺のどちらを選ぶ?』っていう一言を、今までどうしても言えなかったんだ。けど、君の出した答えはよくわかったよ。それにしても、あいつがこんなところにまで追ってくるとは計算外だったな。君を一人でポニーの丘に行かせるんじゃなかった」
「テリィ、好きよ。大好きだったわ!あなたと一緒になれたらどんなに幸せだろうって、何度思ったことか。でもね、私たち、再会するのが遅すぎたの。もしもっと早く、あなたが現れてくれたら・・・アンソニーが生きていることを知る前に、迎えに来てくれたなら!そしたら私、なんのためらいもなく、あなたについていったわ」

それは嘘ではなかった。
アンソニーもテリィも、同じくらい深く愛していた。
どちらが好きとは決められないほど。
違っていたのは、二人が姿を現したタイミングだけ。
ただそれだけ。
だが、これも運命なのだ。

「それを聞けただけで良かったよ。残念ながら、俺は大事なチャンスを逃したらしいな。慈善公演なんかすっぽかして、一刻も早く君を迎えに来るべきだった。おかげで、あいつに遅れを取っちまった」
「本当にごめんなさい。あなたのせいじゃない、運命のいたずらなのよ。でも私、今でも思うの。スザナの事故が起きたとき、なぜ私たちは、簡単に結論を出しちゃったのかしらって。もっと話し合ってれば、何か別の方法があったかもしれないのに」
「俺もそう思ってた。愛し合ってるなら、別れることなんかなかったのにって。俺がいけないんだ。あのときもっとしっかりして、君をつかまえてれば、結果は違ってただろう。臆病だったんだよ。スザナへの恩義にばかり気を取られて、一番大切なものを犠牲にしちまった」

今もって苦しんでいるテリィを見て、キャンディはたまらなくなった。

「そんなに自分を責めないで。さっさと身を引いた私も悪いのよ。本当にあなたのことが好きなら、スザナになんて思われようと、あきらめるべきじゃなかった。あなたにしがみついてれば良かった。だって、人を本気で好きになるって、奇麗事じゃないでしょ。それに、時が経てば、スザナもわかってくれたかもしれないもの。私、臆病な偽善者だったのよ。スザナの前でいい子ぶって、大切な人をなくしてしまったんだわ。永遠に」

キャンディは遠い目をして、淋しそうに笑った。

「勇気を出して、スザナに言えば良かったな。『愛してるのはキャンディだ』って。俺には出来なかったけど。だけどあいつは、はっきりけじめをつけたんだろ?あのレイチェルって子に、きっと言ったはずだ。『僕は君じゃなくて、キャンディを愛してる』って」
「じゃあ、アンソニーを認めてくれるの?私とアンソニーのことを許してくれるの?」
「ああ・・・。悔しいけど」



「あの、テリィ・・・これ」

そう言ってキャンディは、彼から贈られたエメラルドの指輪を差し出した。

「これ、返すわ。いつかあなたの愛しい人にあげてちょうだい。そしてそのときこそ、真実の恋を貫いてね。ちょっとくらいイヤな人になってもいいから、自分の気持ちには正直になってほしいの」

受け取りながらテリィは、最後の強がりを言ってみせた。

「わかってるよ、そんなこと。心配するな。エメラルドグリーンの指輪か・・・。俺がいくらもてるからって、この指輪と同じ目の色の女と、もう一度縁があるかどうかは難しいぜ。今度恋をするなら、先ずは目の色を見てからだな」
「まあ、テリィったら」

二人は初めて、静かに笑い合った。
少しの間のあと、テリィは真剣な目をして言う。

「キャンディ、幸せになるんだぜ。ならないと承知しないからな」
「テリィもよ」

以前と同じセリフを、互いに繰り返した。
以前──スザナのために別れようと決意した、病室の外での別れの言葉。
まさか、もう一度繰り返すことになろうとは。
キャンディは心底、テリィが幸せになることを祈らずにはいられなかった。


今、二人の脳裏には、聖ポール学院の懐かしい風景が蘇っている。
それはもう、二度と戻らない青春の日々。
もし「アンソニーの死」がなかったら、出会うこともなかったのだろうか。
そして、互いを好きになることも・・・。
だが神は彼らを引き合わせ、「愛し合い、やがて別れる」という幸福な苦しみを与えた。

でもテリィに後悔はない。
一人の少女と巡り会い、彼女を心から愛したことを。
今はただ、「甘く切ない想い出」に変わってくれる日が、一日も早く来ることを願うだけだ。

「俺のこと、見送るなよ。俺がキャンディを見送るんだ。君の後ろ姿に『さよなら』って言ったら、それっきり忘れてやる。だから君も絶対に振り返るな。前だけを見て、あいつのところに駆けて行くんだ」
「わかった。言われたとおりにする。・・・愛してたわ」


テリィの望み通り、キャンディは決して振り向かなかった。
行く手にはアンソニーが待っているからだろうか。
それとも、別れの淋しさに一筋流した涙の跡を、テリィに見られたくなかったからだろうか。



キャンディが丘に上る道へ行ってしまったあと、テリィは渡されたエメラルドの指輪をじっと見つめた。

(今度恋をするときは、先ずその女の目の色を見てから・・・か。でないと、この指輪が無駄になっちまうもんな)

もう一度恋をすることなど、あるのだろうか。
自分の青春は、キャンディへの想いと共にあった。
それが去った今、次に巡り来る幸せのことなど、考えもつかない。

いつまでも指輪を握りしめて離すことが出来ない未練がましさを、テリィはフッと笑った。
だが、やがて思い立ったように腕を振りかざすと、掌(てのひら)のものを、思い切り空へ放り投げた。
それが彼女に捧げた、愛のピリオド──

「あばよ、キャンディ!」



ほどなくしてテリィは、ポニー先生とレイン先生のところへ戻っていった。
一人でニューヨークへ発つと告げられたので、何かあったのかと先生方はひどく心配したが、テリィはすぐに打ち消した。

「残念ながら、僕はキャンディに振られたんです。いろいろ事情がありまして・・・。幸せにすると言っておきながら、こんな結果になってしまって、どうぞお許しください。僕のことなら心配ありません。覚悟は出来てましたから。キャンディは、これから本物の花婿と一緒に、ここへ帰ってきますよ。だからどうか、二人を温かく迎えてやってください」
「ありがとう。広いお心に感謝します。あなたの上に、いつも神様のご加護がありますように。どうぞ幸せになってくださいね」

ポニー先生とレイン先生は、感激で涙を浮かべながらそう言って送り出し、彼の車が見えなくなるまで、いつまでも見送った。




ポニーの丘に続く道を、風に乗って駆け上がるキャンディの足取りは軽い。
今まで心につかえていたおもりが取れ、なんの悩みもなく、好きな人の胸に飛び込んでいける・・・そう思うと、心が弾んだ。

丘の上に着くと、約束通りアンソニーが待っていてくれた。
そよ風に金色の髪をなびかせ、変わらない優しい笑顔で両手を広げ、キャンディを迎え入れてくれる。
この瞬間を、何度夢に見ただろう。
大好きなアンソニーと一緒に、思い出の丘を駆けることを!

きつね狩りの日、彼は言ってくれたっけ。

──今度行こうか、二人で。君の育った場所を見たい──

その言葉を残したまま、彼は遠い遠いところへ旅立ってしまったのだ。
二度と戻ることのない、永遠の旅に。

哀しい出来事のあと、キャンディは何度も夢を見た。
アンソニーと二人でポニーの丘を駆ける夢。
だがいつも決まって、彼はどこかにいなくなってしまう。
泣きながら捜し求めていると、そこへ丘の上の王子様が現れるのだ。

──王子様、アンソニーは?アンソニーはどこ?──

でも王子様は何も言わずに、哀しそうな顔をするだけ。
いつもそこで終わってしまう夢だった。
だが今日は違う。
夢なんかではなく、本物のアンソニーが待っていてくれるのだ。

「アンソニー!」

キャンディは愛する人の名を叫んで、広い胸に飛び込んでいった。

「もう離さないよ。よく帰ってきてくれたね。ホントを言うと、ちょっと心配だったんだ。君がここへ戻ってくるかどうか」

キャンディはアンソニーの腕の中で、幸せをかみしめながら笑った。

「バカね。他にどこへ行くっていうの?私の行くところは、あなたの元しかないのよ。ああ、まるで夢みたいだわ。こうやって一緒に、ポニーの丘に立てるなんて」
「ずっと前に約束しただろ?いつか二人で行こうって。五年も経っちゃったけど、やっと約束を果たせたよ。君が言ってたとおり、ここは最高だね。君と一緒に立つことが、僕にとっても夢だったんだ。無事に来られて本当に良かった」

感慨に耽るアンソニーに、「よくここがわかったわね」とキャンディ。

「アルバートさんが教えてくれたんだ。ニューヨークへ行く前に、必ずポニーの家に寄るはずだから、丘で待ってれば会えるって」

やっぱりアルバートさんが・・・!
彼の心づかいを嬉しく思った。
出来るなら、アンソニーではなく、自分がこの丘に立って、キャンディを受け止めたいと思っていただろうに。
でも彼は二人のために身を引いて、優しい養父に徹してくれたのだ。
愛する人の幸せのために、自分の想いを犠牲にする愛の形を、キャンディは学んだ。
アルバートから。そしてテリィからも。

「この丘で王子様に会ったんだろ?アルバートさんが自慢してたよ」
「そうなの。六歳のときだったわ。私が泣いていたら、声をかけてくれたの。『泣かないで、おチビちゃん』って」
「そのセリフ、バラの門で僕が初めて君に会ったときに言ったのと同じじゃないか。おまけにアルバートさんと僕は、顔立ちもそっくりだったし。なんだか妬けるなぁ。もう一度聞くけど、君は僕が、その王子様に似てるから好きになったんじゃないの?」
「まあひどい!じゃあ、私だってもう一度言うわ。王子様が誰だってどうでもいいの。私、アンソニーはアンソニーだから・・・」
「好きなんだろ?」

先に言われてしまい、キャンディは真っ赤になった。

「もう、アンソニーの意地悪!」
「ごめんごめん、ちょっとからかいたくなって」

アンソニーは無邪気に笑った。
キャンディもそれにつられた。


「ところでテリィだけど、わかってくれたのかい?」

アンソニーは急に真顔になった。

「ええ、さっき一人で出発したわ。最後に、『幸せになれ』って言ってくれた」

キャンディは少しうつむいて言葉短く語った。

「記憶が戻ったのも彼のおかげだしな。僕はテリィに感謝してるんだよ。彼の気持ちに応えるためにも、僕たちは幸せにならなきゃね」

二人は互いの気持ちを確かめるように、改めて見つめ合った。

「あの・・・レイチェルはどうしたの?」

もう一つの大事なことを、今度はキャンディが尋ねる。

「彼女もニューヨークへ帰ったよ。君とテリィを見送ったあとで、彼女に自分の気持ちをはっきり伝えたんだ。初めは泣き叫んで動揺してたけど、最後にはわかってくれた」

テリィが言ったとおりだった。
やはりアンソニーは、真実をレイチェルに伝えていた。
さぞや勇気がいることだったろう、辛かっただろう。
だが彼は、誠意をもって言ってくれたのだ。

同時に、レイチェルの気持ちを考えると、キャンディは胸がつまった。
どんなにかアンソニーを愛していただろうに。
それでも受け入れてもらえないことに、不条理を感じたに違いない。

「きっとアンソニーの真心が通じたのよ。だからレイチェルも素直になれたんだわ。でも、花束を振って見送ってくれたのは、私に対するお別れじゃなかったの?」
「あのときは、そのつもりだった。レイチェルのことにけじめをつけるまでは、君を引き止めちゃいけないと思ってたから。たとえどんなに愛していてもね。それに、もしあのまま君をあきらめられるなら、それでいいと思った。君はテリィとニューヨークへ行って、そのうち僕を忘れるだろう。テリィはそれほど魅力的な奴だからね。君が幸せなら、構わないと思ってたんだ。だけど、やっぱりダメだったよ。君をあきらめるなんて出来ない。このまま行かせたら、僕は一生後悔するだろう。だから追いかけて、奪いに行こうと決心したんだ」

エメラルドの瞳に、大粒の涙が浮かんだ。

「アンソニー、迎えに来てくれて本当にありがとう。あなたが勇気を出してくれなかったら、私はレイチェルに遠慮して、大切な恋をなくしてしまうところだった」

大切な恋をなくしてしまう──あのときのように。
スザナを助けるために、テリィをあきらめたときと同じように。

「自分に尽くしてくれた人に感謝して、恩を返すことは大切だ。でもそのために、愛する気持ちを犠牲にするのは間違ってる。愛してなければ、すべてが嘘になるんだ。どんなに優しくしようと努力しても、それは偽りでしかないんだから。本物の愛じゃなきゃ、結局相手を傷つけるだけだよ」

アンソニーはきっぱり言った。
この自信こそが、愛する者をつなぐ強い絆!

「そうだキャンディ、大事なことを言っておかないと。僕はもう、アードレー家には戻らないつもりだよ」

キャンディは目を白黒させた。

「じゃあ、あなたが生きていたことを社交界に発表しないの?」
「うん、何も発表しない。アンソニー・ブラウンは、五年前のきつね狩りで死んだのさ。これからは家に縛られずに、ただのアンソニーとして生きていきたい。アードレー家の力を借りずに勝負したいんだ」

熱く理想を語る彼に、キャンディは驚いた。
これが、あのお坊ちゃん育ちのアンソニーなんだろうか。

「体面を気にするあまり、自分の生きる道一つ決められないなんて、おかしいと思わないか?家の名誉を守るために、やりたいこともやれず、大切なことも犠牲にしなきゃいけない生き方に、ずっと疑問を持ってた。そんな重苦しい家に君を閉じこめたくないんだ。キャンディには、いつも自由でいてほしいから」
「わかるわ。お金持ちでいることだけが幸せじゃないもの。お金や名誉のために失ってしまうものもあるのね」

そうだ。一族の体面を重んじるあまり、あのとき重い障害を負ったアンソニーは、アードレー家から存在を消されたのだ。
幸い、もとに戻ったから良かったものの、もしも一生あのままだったら、彼がアードレーを名乗ることは許されなかったろう。
そうしたひどい仕打ちをしてまで守っていかなければならない、由緒正しい「家」。
彼はそんなものに愛想をつかしたに違いない。

「これからは、ぬくぬく生きていけるわけじゃない。苦労をかけることもあるだろう。辛い思いもさせるかも。でも、僕が守るから!一生愛し続けるから!ついてきてくれるね?」

ずっとずっと待ちわびたプロポーズ。
アンソニーの決意に、キャンディは涙を流した。

二度と会えないと思っていた人、そして愛してはいけないと思った人。
その彼と一緒に、これからの長い旅路を歩いて行けるのだから。

「今なら、誰にも遠慮せず、正々堂々と言えるよ。初めて会ったときから、ずっと好きだった。愛してる。だから一生、そばにいてほしい・・・」

アンソニーはそう言うと、キャンディの肩にそっと触れ、優しく抱きしめた。
広く温かい胸に抱かれ、今こそ思いの丈をぶつける。
長い長い試練のときを越えて。

「嬉しい!初めて『愛してる』って言ってくれたわね?あなたが生きててくれて、本当に良かった。これはいつも見ていた、悲しい夢の続きじゃないのよね?目を開けたら消えちゃう幻じゃないのよね?私も今なら言えるわ。大きな声で言えるわ。あなたが大好きなの。世界中で一番好き!ずっとずっとそばにいるわ。あなたの支えになって生きていきたい」

二人は見つめ合い、静かに口づけを交わした。
キャンディの頬はまだ濡れていたが、それは爽やかな幸福の涙だ。
アンソニーが指でそっとぬぐう。

雲一つない青空に、涼やかな高原の風が吹き渡る、夏の昼下がりだった。

「さあキャンディ、先生方のところへ行って挨拶しようね」

照れくさそうにアンソニーが言う。

「ええ。きっとあなたもポニー先生とレイン先生を気に入るわ。私の素敵なママたちだから」
「ようし、じゃあ下まで競争だ!」

二人は手に手を取って、丘を駆け下りていく。




その翌年、バラの薫る季節に、アンソニーとキャンディは結婚した。
ラガン家に召使いとして引き取られ、バラの門でアンソニーと初めて会ってから六年。
数え切れないほどいろいろなことが起きて、そのたびに悩んで闘ってきた。
これからもきっと、そうだろう。
人生はそれの繰り返しだ。

でも、これからは一人じゃない。
かたわらには、いつも愛しい人がいる。
アンソニーにはキャンディが、キャンディにはアンソニーが・・・。

かけがえのない伴侶を得た二人は、どんなことが起きようと、互いの支えになり、しっかり生きていくに違いない。
行く手に広がる、「人生」という、長い長い航路を。



 
~ The End ~
 


お粗末な話にお付き合いくださり、本当にありがとうございましたm(__)m

「早くハッピーエンドが読みたい」というお客様のために、用意させていただいた話です。

一応、これで「完結」の形を取ったつもりなので、もしこの先、「バラの薫る季節に」の連載を挫折することがあっても、お許しいただけるかな?・・・なーんて思っております。(甘い?^_^;)

実はこの部分、一番最初に考えたストーリーのラストシーンなんです。
書いたのは、約七年前。2002年の春です・・・
お蔵入りにする予定でしたが、急遽引っ張り出しました(笑)。

初め、「バラの薫る季節に」は、第四部しか存在しなかったんです。
とにかくアンソニーとキャンディのハッピーエンドを夢見てまして。
誰にお見せする予定もなく、一人ニヤけながら、ノートに話を書いてました^_^;

で、ラストシーンを書き終え、アンソニーとキャンディが幸せになったことに
自己満足したんですが、なんだかアンソニーと別れがたくなってしまって。
筆を置いたら、また彼がどこかへ消えてしまう気がしたんです。

で、「よ~し!思い切ってアンソニーの成長物語を書いてみるか」と悪乗りし、
第一部~第三部を書き足すに至りました。
おかげさまで(?)、今もアンソニーと一緒にいられます♪

そんなわけで、ウォルターもジェフリーもブライアンもアンジェラも、み~んな、
第四部を書いたあとで考えたオリキャラです。
ただ、レイチェルだけは、「邪魔女」として、初めから存在しました。
だから不自然なところがあったかと思います。
例えば──伯父さんのウォルターが、アンソニーを二度もあやめておきながら、
のうのうとレイクウッドまでついてきて、やりたい放題(^^ゞ
第一部の彼女は、そこまでイヤな女じゃなかったのにね(笑)。
あとでつじつまを合わせるってのは、ホントに大変です!

おっと!つまらないエピソードをご披露してしまいました(-_-;)
ついつい懐かしくなって・・・
お許しくださいませ。