バラの門でアンソニーは、さっきの青年のことを考えていた。
栗色の髪。鮮やかなgreenish blueの瞳。端正な顔立ち。
そのどれも、どこかで見た気がするのだ。
雑誌でだったか、新聞でだったかはっきりしないが、確かに見覚えがある。

彼はキャンディのなんなのだろう。
「迎えに来た」とか言っていたが、どういうことだろう。
彼女と一緒に、どこかへ行くのか。

次々と疑問が湧いてきて、アンソニーは穏やかではなかった。
そこへ血相を変えて、「さっきの青年」がキャンディを引っ張ってきたので、驚きは頂点に達した。

「いいことを教えてやりに来たぜ」

薄ら笑いを浮かべるテリィ。

「おっと、その前に自己紹介だ。俺はテリュース・グレアム」

思ったとおりだ!
その名なら知っている。
確か、ストラスフォードの看板俳優。
ニューヨークで闘病していた頃、レイチェルと一度だけ舞台を見たことがある。
彼をどこかで見たことがある気がしたのは、そのせいだ。

「思い出したよ、君はブロードウェーの俳優だろ?『ロミオとジュリエット』を見たことがある」
「それは光栄だ。恋敵のあんたに、舞台を見てもらってたとはな。俺がそんなに有名だとは驚いたよ」

挑むような目が、アンソニーをとらえる。

「俺とキャンディは、ロンドンの聖ポール学院で知り合ってからのつきあいでね。もう四年になる。いろいろあったが、この前、結婚を申し込んだんだ」

つきあって四年?聖ポール学院で?
そう言えば以前話したとき、自分がきつね狩りで死んだことになったあと、ロンドンへ渡って寄宿学校に入ったと、キャンディは言っていた。
そこでテリィと出会い、愛し合うようになったのか。
恐らくそうなのだろうが、認めたくない事実だ。
出来れば知りたくなかった。
それにしても、彼からプロポーズされていたとは・・・!
苦い現実を知らされ、アンソニーの表情は曇る。

キャンディはキャンディで、次々に事実を暴露されてしまい、どう申し開きしていいか、途方にくれた。

「それで、君は承知したのかい?」

アンソニーは不安げに彼女を見る。
キャンディはなんと答えていいかわからず、黙っているばかりだ。

「勿論さ。シカゴでの公演が終わったら、ブロードウェーへ帰る。そのときはキャンディも連れていく。そこで婚約発表だ」

押し黙っているキャンディの代わりに、テリィがまくし立てた。
そして勝ち誇ったようにアンソニーを見る。
だが表の顔とは裏腹に、心の奥には不安や嫉妬が渦巻いている。

こいつがキャンディの初恋の相手か──テリィは改めてアンソニーをまじまじと見た。

見事なブロンド。吸い込まれそうなサファイアの瞳。
こんなに澄んだ青い目は、そうそうあるもんじゃない。
そしてどこか淋しげな、陰のある容姿。
悔しいが、キャンディが惚れたのも無理はない。
この前、なぜ別れ際に彼女が俺のキスを拒んだのか、これではっきりわかったよ。
だがこれからは違うぜ、アンソニー。彼女をものにするのは、あんたじゃなくて、この俺だ!

「キャンディが納得したなら、僕は何も言わないよ」

アンソニーの言葉が偽善者ぶっているように聞こえ、テリィはどうにも鼻持ちならない。
イライラするのだ、この男を見ていると。

「でも私は、あなたの記憶が戻るまでここにいるわ」

キャンディの返答にも腹が立った。
なぜそんなに気づかう?
どう見ても、二人して相手を思い、いたわり合っているようにしか思えない。
それが癪(しゃく)に障る。
お互いをどう思っているのだろう。
昔惹かれていたよしみで、気になっているだけならいいが。まさか・・・

まさか──それ以上の気持ちがあるとすれば、どうなる?
胸騒ぎがする!
こうなったらグズグズしてはいられない。
一刻の猶予もないだろう。
こんなところでいつまでも二人を会わせていたら、どんな結果になるか知れない。
キャンディと一緒に未来を歩くには、一時でも早く奪って逃げるしかない。
テリィは本能的に、そう判断した。


キャンディ、ごめんよ。おとなげないのはわかってる。
アンソニーに失礼なことをしてるのも、重々(じゅうじゅう)承知だ。
だけど、君を離したくない。
欲しくてたまらないんだ!
もう一度君の手を離したら、俺たちは二度と同じ道を歩めないだろう。
だからすべてを捨てる覚悟で、俺はここへ来た。
わかってほしい!



そのとき、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。
このあたりに厩舎(きゅうしゃ)があるのだろうか。
見回してみたが、視界には入らない。

思えば、アンソニーは「落馬して死んだ」はず。
途端にテリィは「あること」を思いついて、ニヤリとする。

「キャンディ・・・君の本心をはっきりさせる手立てを思いついたよ」

キャンディは驚いて見上げる。

「手立てって?」
「こいつの記憶を戻す方法を思いついたのさ。めでたく昔を思い出せば、君がここにいる理由はなくなる。そうすれば、晴れてニューヨークだ。もし俺を選ぶなら・・・の話だけど」

瞬間、テリィの瞳がギラッと光った。
これは挑戦状だろうか。
キャンディの胸はざわつく。

私を試そうとしてるのね?
アンソニーの記憶が戻れば、あなたの言うとおり、ここに残る必要はなくなるわ。
それでもニューヨーク行きを拒んだとしたら、今でもアンソニーを愛してるのが、ばれてしまう。

一方、アンソニーも戸惑っていた。

彼女に決断を迫る気か?
君と僕のどっちをとるか、白黒つけさせるつもりか。

「ついてきてもらおうか。なよなよバラなんか作ってるよりは、すっきりすると思うぜ」
「なんだと!さっきから失礼な奴だと思ってたけど、僕の忍耐にも限度がある。バラをけなすなんて最低だ。謝れ!」

アンソニーは珍しく声を荒らげて反撃した。
だがテリィは答えず、意味ありげにニヤッと笑うだけ。

「待てよ!」

追いかける体勢をとるアンソニーより早く、テリィはキャンディの手を取った。

「さあ、これは君の大事な仕事だ。馬小屋へ案内してもらおうか」
「どうして?」
「行けばわかるさ」

エメラルドの瞳は、もう少しで泣き出しそうだ。
テリィに言われるまま、馬小屋へ向かう。
仕方なくアンソニーもそれに続いた。
テリィはこれから何をしようというのか、二人とも不安で一杯になりながら。



案内された厩舎へ、一人で入っていったテリィは、二頭の馬の手綱を引いて外へ出てきた。

「あそこにある障害が見えるな?これから俺たち二人が、交互にあれを飛び越える。どちらかが失敗して落馬するまでだ、いいな?」

彼が指差す先には、かなり高い障害が見えた。
飛び越すには、相当な技術がいるだろう。

「そんな、無理よ!アンソニーは事故以来、馬に乗ってないのよ。それに、もしまたあんなことになったら・・・」

キャンディは顔をひきつらせて止めに入ったが、アンソニーは、「大丈夫だよ。君はここで見てて」と、優しく制した。
だがその直後、テリィに向けた表情は真剣そのもの。
食いつきそうな青い瞳が、怖いくらいだ。

「見かけによらず、いい度胸をしてるじゃないか。少しは見直したぜ。なあキャンディ、奴もこう言ってるんだ。安心して見てろよ。それにこれから一生、馬に乗らないで済むわけじゃあるまい」

そうは言われても、心配で心配で、どうしようもない。
もしアンソニーが落馬するようなことがあったら、あの日と同じで、ショックのあまり失神してしまうだろう。
なんとかして止めなくてはと気ばかり焦ったが、既にアンソニーは馬にまたがり、障害のほうへ向かって行くところだった。

(神様お願い、彼を守ってあげて!)

キャンディは思わず十字を切った。

「それっ!」 

勇ましいかけ声と共に勢いよく馬を走らせ、アンソニーは障害を飛び越えた。
成功だ。
きつね狩りを境に乗馬はしていないが、もともと馬には自身があったから、腕は落ちていない。
見事な技術を目の当たりにして、テリィは少しばかり焦った。

(こいつ、ただの優男(やさおとこ)だと思ってたが・・・)

だが、ここで負けるわけにはいかない。
キャンディを奪うには、どうしても勝つ必要があるのだ。
深く息を吸い込んで吐き、平常心を保つ。
そして一気に勝負に出た。

成功!
テリィの腕前もまた素晴らしい。

キャンディの心配をよそに、五分と五分の実力で競い合う彼らの障害越えは、なかなか勝負がつかない。
だが何回も飛ぶうち、さすがに二人とも疲れてきた。
何度目のトライだろうか、障害を越えて着地しようとしたとき、アンソニーはバランスを崩して落馬してしまった。
それを見たキャンディの脳裏には、きつね狩りの悪夢がよぎる。

「きゃあぁぁ~、アンソニー!!」

悲痛な叫びが、あたり一面に響き渡った。
あの日と同じだ。

そのときアンソニーは、体中に電流が走るのを感じた。
なんだろう、この感覚。
前にも、これと似たようなことがあった気がする。

馬を走らせていた途中に何かが起きて、体のバランスを崩した。
その瞬間、今と同じキャンディの悲鳴が聞こえて・・・
そのあとが思い出せない。
なぜバランスを崩したのだろう。
馬の足もとに何かあったのか。
そして自分は、どうなってしまったんだろう?

アンソニーは思い出そうとして苦しんだ。
頭が割れるように痛い。めまいもする。
地面に倒れたまま、いつまでたっても起き上がれないでいた。

「アンソニー、しっかりして!いやよ、あの日と同じになるなんて」

キャンディは狂ったように駆け寄り、泣きながら揺すり起こしたが、反応がない。
もし、このまま目覚めなかったらどうしよう。
折角生きて帰ってきてくれたのに・・・!

抜け殻のようになっていると、誰かの手がそっと肩に触れた。
ハッとして見上げると、greenish blueの瞳が優しく笑っている。
テリィは、助け舟を出そうとやってきたのだ。

「やれやれ、だらしない奴だな、こんなことくらいで気を失うなんて。心配しなくても大丈夫だよ。落馬したときに、どこかをちょっと打った程度さ。今度は死なないはずだぜ」

心配顔のキャンディを安心させようと、茶目っ気たっぷりにウィンクする。

「さて・・・と。ちょっとどいてて」
「手を貸してくれるの?」
「仕方ないだろ。君がこいつを担ごうったって無理だからね。しかし参ったなぁ。なんで俺がこんなこと・・・」

ついつい愚痴りそうになったが、テリィはグッとこらえる。
何も言わずにアンソニーを抱き起こし、腕を自分の肩に回して背負うと、黙々と歩き出した。





屋敷の部屋に戻り、アンソニーをベッドに寝かせると、テリィはキャンディを促す。
早々に応接間へ引き上げようというのだ。
だが彼女の意志は固い。

「先に行っててくれる?彼が目を覚ますまで、私はここにいるから」

そう言って椅子を引き寄せ、アンソニーの枕元に座った。

「冗談じゃないぜ!なぜ君が、そこまでする必要がある?そんなことは、使用人に任せりゃいいんだ」

怒り心頭に発していたが、同時に不安をかき立てられた。

(キャンディがここまで案ずるのは、なぜだ?昔好きだった相手だからか。本当にそれだけだろうか。でなきゃ、やはり・・・)

出来ることならこの場で、「一体こいつをどう思ってるんだ」と問いただしたかった。
だが答えを考えると、恐くて出来ない。
いつもの自信が鳴りを潜め、珍しくテリィが弱気になっている。
それほどまでに、キャンディとアンソニーは親密に見えた。

「忘れたの?私は看護婦なのよ。だから病人を見守る義務があるわ」

きっぱり言い切り、キャンディは一歩も譲ろうとしない。
私は看護婦──確かにそうだ。
アンソニーのそばについているのは、愛しているからではなく、看護婦として当然のことだから。
それなら納得できる。
テリィは少し安堵した。

密閉された空間に、キャンディとこの男を、二人きりにしておくなんて許し難いが、「患者と看護婦」なら仕方ない。
しかもアンソニーは気を失っている。
「まさか」の展開にはならないだろう。
そう自分に言い聞かせ、テリィは黙って部屋を出て行った。



応接間に通されたテリィのところに、程なくアルバートがやってきて、アーチーとアニーも顔を出した。
アンソニーが落馬してテリィに運び込まれたことが、使用人から伝えられたからだ。

アルバートとアニーは、キャンディからテリィのことを聞いていたから問題なかったが、びっくりしたのはアーチーだ。
目の前にいる「突然の訪問者」に、目を白黒させている。

「おい!なんで君がここにいるんだよ。キャンディとは、とっくに別れたんじゃないのか」

開口一番、アーチーの口から飛び出たセリフが、テリィには意外だった。
キャンディはプロポーズされたことを話していないのか。
秘密にしたままなのか。
アーチーはキャンディにとって、身近な人物だ。
なのに知らせていないとは、どういうことだろう。
また不安が襲ってくる。

「『おい』とはご挨拶だな。アンソニーを部屋まで担いできてやったのは、俺なんだぜ。礼の一言くらい言えないのかよ。それに、『なんでここにいるのか』って言いぐさはないだろう。スザナとは、もう終わったよ。俺は晴れて自由の身さ。だからキャンディにプロポーズしたんだ。今日は彼女を迎えに来たってわけだ」

アーチーは目を丸くした。寝耳に水とは、まさにこのこと。

「終わっただって?そんな簡単にいくもんか。スザナは本当に納得したのか?気が変わってすがりついてきたらどうするんだ。そうなったら一番悲しむのは、キャンディなんだぞ。君は本気で彼女を幸せに出来ると思ってるのか!」

烈火の如く怒るアーチー。
今はこいつの相手をしている暇はない。
一刻も早く正式に報告しないと、いつまた状況が変わるか知れない。
テリィは無視して、アルバートのほうへ向き直った。

実はついさっき、この当主を見たときに度肝を抜かれたのだ。
ロンドンで会ったアルバートは、茶色い髪でサングラスをかけていた。
庶民的で嫌みのない、ごく平凡な青年だった。
ところが目の前に立っている彼は、まるで別人だ。
輝くような金髪に、鮮やかな碧眼の美青年に変身している。
その風貌は、まるでアンソニー。
他人の空似にしては、似すぎている。
もしかして、血縁関係にあるのでは?
そんなことを思いながら、テリィは思いきって切り出す。

「アルバートさん、お久しぶりです。ロンドン以来ですね。あのときはお世話になって、今でも感謝してますよ。だから再会できて本当に嬉しいです。仕事の関係で、あまりゆっくりしてられないのが残念ですけど」

礼儀正しく前振りをするテリィに、アルバートはなつこい笑みを浮かべた。

「懐かしいよ。君を間近で見られるなんて光栄さ。なんたって、今をときめくブロードウェーのスターだからね」
「いや、そんなこと・・・」

テリィは照れて頭をかく。

「で、今日はどうしたんだい?まさか僕に用があって来たわけじゃないんだろ?」

ニヤッと笑うアルバートに、ちょっとだけドキリとする。

「失礼を承知で単刀直入に言いますが、挨拶に伺ったんです」
「挨拶?」
「ええ、キャンディのことで。彼女の養父であるあなたに、許可をもらうべきだと思いまして」
「というと?」
「お願いです、キャンディを僕にください。必ず幸せにしますから!」

言葉は短いが、彼は真剣そのものだ。
その誓いに、決して嘘はないだろう。
あとはキャンディの気持ち次第だと、アルバートは思う。

「さっきはアンソニーを助けてくれて本当にありがとう。叔父として、心から礼を言わせてもらうよ」

(叔父として?やはりそうか。道理で似てるわけだ)

テリィはやっと納得した。
その先をアルバートが続ける。

「キャンディのことだけど、その話は改めて聞こうじゃないか。先ずはアンソニーの容体が先決だ。彼は大丈夫なのか?」
「ええ、大したことはありません。障害を越えたあとに落馬して、腰を軽く打った程度でしょう。抱き起こすときに、うめき声が聞こえた気がする」

自分も記憶をなくした経験があるアルバートは、記憶が戻った瞬間を思い出した。
急に目の前が真っ暗になり、何かが浮かんでくるのだが、それがなんだかわからない。
そのうち頭が割れるように痛くなってきて意識を失う。
そして目覚めたときには、すべてを思い出していた。
少なくとも自分はそうだった。

「だとすれば、きっとアンソニーは何かを思い出しそうになってるんだよ。目が覚めたとき、運が良ければ記憶が戻るかもしれない」
「本当ですか?だったらすぐ部屋へ行って、目が覚めるのを待ちましょう!」

アーチーは目を輝かせて言う。
アンソニーの記憶が戻るのを心待ちにしているのは、キャンディだけではない。アーチーとて同じことだ。

「いや、目覚めたときに大勢が取り囲んでいると、雰囲気に圧倒されて、戻りかけた記憶が消えてしまうことがあるんだ。ここはキャンディに任せて、我々はあとからゆっくり様子を見に行こう」

半分は真実だったが、実のところ、アルバートは気をきかせたのだ。
目が覚めたとき、そばにキャンディがいて二人だけで語り合えたら、アンソニーはどんなに幸せだろう。
それは、粋な計らいだった。


途中で話がアンソニーの容体に変わってしまい、キャンディへのプロポーズがうやむやになってしまったのが、テリィは残念だった。
だが仕方ない。
皆が案じているときに暴走は出来ない。
傍若無人だった昔の自分なら、「プロポーズを承諾してくれるんですか、くれないんですか」と食い下がるだろうが、今は違う。
そこには、理性的で思いやりのあるテリュース・グレアムがいた。
アルバートの反応を気にしながらも、はやる心をそっとおさえ込んだ。





どのくらい経ったろうか。
アンソニーが目覚めると、かたわらには、一人の女性が座っていた。
沈む夕日が薄紅の頬を照らす。
彼女は心配そうに見つめている。
手には温もりが・・・
なんだろうと視線を落とすと、彼女の白い手が、自分の手を固く握りしめていた。

この女性には見覚えがある。
赤みがかったブロンドの巻き毛。ピンク色の頬にそばかす。
そして何より目を引くのは、湖水のように美しいエメラルドの瞳。
瞬間、アンソニーの脳裏には、バラの門の少女が蘇った。

あれは、いつのことだ?
突然視界に飛び込んできた、泣き虫の少女。
少しでも慰めようと声をかけた。

「君は笑った顔のほうがかわいいよ」

すると少女は照れくさそうに、エヘッと笑った。
かわいかった。

そして・・・ああそうだ!
次々に、いろいろな光景が浮かんでくる。

レイクウッドの舞踏会。少女にあげた白いバラ。月夜のデート。そっと頬に落とした幼いキス。淡い想い。

ああ・・・キャンディだ。
自分がずっと想い続けたのは、目の前にいるこの女性。
キャンディス・ホワイト!

アンソニーはすべてを思い出した。

バラの門で泣いていた少女。
ラガン家の兄妹にいじめられながらも、健気に頑張っていた少女。
そんな彼女を、自分はいつも見守っていた。
彼女がアードレー家の養女になれるようにと、大おじ様に必死の嘆願書を書いたこと。
丘の上の王子様が憧れの人だと言われたとき、なぜだかとても嫉妬したこと。
無邪気に笑う彼女がいとおしくなり、頬にそっとキスしたこと。
そして運命のきつね狩り・・・
その一つ一つが、鮮やかに蘇ってきた。

「キャンディ、今まで心配かけてごめん。やっと思い出したよ。君と出会った日から、きつね狩りまでのことを全部」

驚きのあまり、言葉にならない。
ただ「アンソニー、アンソニー、本当に?」と繰り返すだけ。
嬉し涙が頬を伝った。

(良かった。やっと思い出したのね?これから懐かしい思い出を、一緒に語っていけるのね)

「ニールやイライザにいじめられても、君はめげずによく頑張ったね」
「あなたがいてくれたからよ。辛い目に遭ってるとき、アンソニーはいつも励ましてくれた」
「そう思ってもらえると嬉しいよ・・・。でも不思議なことに、きつね狩り以降の記憶は、途絶えたままなんだ。そこでぷっつり糸が切れてる。事故のあと、どこで何をしてたのか、さっぱり浮かんでこない」
「もしかしたら、思い出したくないことがあるのかもしれないわ」
「かもしれないね。ニューヨークの辛い闘病生活とか、レイチェルのこととか」
「まあ、アンソニーったら」

キャンディは思わず吹き出した。それを見て、アンソニーも大きな声で笑う。

(これは本気だよ。レイチェルとの出会いも、彼女に看護されたことも、正直言って「封印してしまいたい過去」なんだ)

心の中で叫んだが、それは言葉にならない。
代わりにアンソニーは、キャンディの手を取ってギュッと握りしめた。
途端に彼女の頬が真っ赤に染まる。
嬉しい反面、テリィのことをなんて説明しようか考えると、気が重い。
どう切り出そうか迷っていると、絶妙のタイミングでアンソニーが聞いてきた。

「ところで、『さっきの彼』だけどさ・・・」

細い肩がピクッと震える。

「テリィだったよね?」
「ええ」
「彼は君にとって・・・」

そこまで言って、アンソニーの顔はどんより曇った。
次の瞬間、唇を噛みしめる。
彼のこんな姿を見るとたまらない。
思わず、「あのね・・・」と発した。

「いや、いい。話さなくていいよ、少なくとも今は。自分で言い出したのに、ごめん」

キャンディはハッとした。
同時にある種の喜びが、胸一杯に広がってくる。

(彼はもしかして、テリィに嫉妬してるの?だとしたら、私のこと・・・)
 
アンソニーは、自分をいくらかでも気にしてくれているんだろう。
今まで本心をはかりかねて悩んでいたから、少しでも近づけたような気がして嬉しかった。

「私こそごめんなさい。テリィのこと、許してね」
「謝らなくていいんだ。僕は死んだことになってたんだからね。死んじゃった人間は、生きてる奴に勝てないからなぁ」

サファイアの瞳が、淋しそうに笑った。
キャンディは心の中で、「ホントにごめんなさい。私、後悔してるわ」と繰り返すだけ。

(後悔してる?テリィを好きになったことを?これから婚約するかもしれない相手なのに、愛したことを後悔してる?)

今度は自分の本心を垣間見てハッとした。
テリィにプロポーズされたときは嬉しかったくせに、アンソニーを想うたび、歓びがかげっていくことに気づき始めていた。
一体なぜ?
本当は薄々わかっているのだ。
だがこれ以上、考えたくない。
やっと再会できたテリィを、また失うのが怖いから。

「僕とバラの門で会ったときには、もう彼にプロポーズされてたの?」

耳元でアンソニーの声が聞こえ、我に返る。

「ううん、あれは半月くらい前よ。ある事情があって、私とテリィは別れたの。でもすべてが解決して迎えにきてくれた。もう一生会うことはないと思ってたから、彼がここへ来るなんて夢にも思わなかったわ」
「じゃあ、思ってもみなかった大事件が、同時に二つ起きたわけだ。死んだはずの僕が生き返ったり、別れたはずのテリィが、よりを戻しにきたり」

キャンディはばつが悪そうに笑った。

「で、君は彼のプロポーズを受けたの?」

どう説明しようか、一番悩んでいることを、ストレートに聞かれてしまった。
どうしたらいい?
なんと答えたらいいのだろう。

「それは・・・」