いつの間にか、太陽がまぶしい季節になった。
アーチーとアニーの引っ越しも、とうに終わり、レイクウッドは随分にぎやかになった。
今ここに住んでいるのは、キャンディにアルバート、アンソニーにレイチェル、アーチーにアニー、それにエルロイ。
結局シカゴの本宅に残ったのは、ラガン家のいじわる兄妹だけ。
それが皆にとっては、ありがたいことだった。
ニールとイライザがいないなんて、夢みたいな話だから!

いつもはしつこいイライザなのに、今度という今度は、アンソニーをあきらめたらしい。
お茶会で見たレイチェルがあまりに美しかったので、かなわないと思ったのか。
いや、そんなことくらいで彼女がひるむはずはない。
勘違いの自信過剰は相変わらずだから。
もしかして、本宅にお目当ての男性が現れ、夢中で追いまわしているのかもしれない。
迷惑も顧(かえり)みず・・・
  


テリィが突然訪問してきて驚いた日から、一週間たった頃のこと。
キャンディとアニーは庭の木陰に腰を下ろして、他愛ない話に花を咲かせていた。

「アニーが羨ましいわ。昔から大好きだったアーチーと一緒になれるんですもの」
「あら、それは私のセリフよ。ずっと想い続けた王子様が、プロポーズしてくれたんじゃない。すごくロマンチックで素敵!辛い思いもしたけど、だからこそ幸せが倍になると思うわ」

キャンディはアニーにだけ、テリィの一件を打ち明けていたのだ。

「ホントに幸せだと思う?」

顔を曇らせ、キャンディがポツッとつぶやく。
その表情で、彼女が何を悩んでいるのか、アニーには手に取るようにわかった。

「アンソニーのことね。テリィのプロポーズは嬉しいけど、気になって仕方ないんでしょ?」

答える代わりに、深いため息が漏れた。

「気持ちはわかるけど、アンソニーにはレイチェルがいるわ。もし彼のことを本気で好きになってしまったら、三人とも不幸になるだけじゃないかしら。私はそれが心配なの。キャンディの辛い顔なんて、もう見たくないわ。随分苦労したんだもの、今度こそ幸せになって欲しいのよ」

アニーはごく当たり前のことを忠告してくれたし、キャンディも理屈ではよくわかっていた。
だが理性と感情は別物だ。
今はテリィこそが、自分にふさわしいと言い聞かせれば聞かせるほど、アンソニーに惹かれて仕方ない。

「やっぱりテリィと結婚するべきなのね」
「『べき』ってなによ!大切なのは、『彼と一緒にいたい』っていう気持ちでしょ。それとももう、テリィが好きじゃなくなったの?」

好きじゃなくなった?──そんなはずはない。
涙の別れをしてから約三年、テリィのことを考えない日はなかった。
あきらめようとしても、あきらめられない人だった。
だから好きじゃなくなるなんて、そんなこと、ありえない。

「好きじゃないわけがないでしょう!」

キャンディは思わず叫んだ。

「じゃあ、好きなのね?それが一番大切よ」

そう、最も単純だが一番大切なこと──テリィを他の誰よりも愛しているのか──その質問を突きつけられたとき、なぜかすぐに答えを出せなかった。

「私はアーチーが好き。だから彼と一緒にいられて、とても幸せよ」

なんのためらいもなく、はっきりそう言いきれるアニーが羨ましい。

「アーチーはアニーにとって初恋の人。初恋の相手とは結ばれないっていうけど、そうじゃないって証明できるわね」
「かもしれないわ」

アニーは頬を染め、恥ずかしそうに笑った。

「女の子にとって、初恋は永遠なのよ。もし他の男性と結婚しても、その人のことは、一生心のどこかに残るって、聞いたことがあるわ」

アニーの言葉が、胸に切ない。
キャンディの初恋はアンソニー。
だからもしテリィと結婚しても、アンソニーとの思い出は、生涯輝き続けるのだろうか。
心の奥の奥にある、一番奇麗な場所で。



とりとめのない会話を続けていると、正門から若い男性が、こちらへ向かってくるのが見えた。
アンソニーだ。
その姿を一目見ただけで、キャンディの心臓は甲高い音をかき鳴らした。

(アンソニーが来る!どうしたらいいの?)

レイチェルへの手前、暗黙の了解で、二人は屋敷の中で顔を合わせても、見て見ぬ振りを続けてきたのだ。
今までずっと。
身を引き裂かれるような思いだったが、そうする以外にどうしようもなかった。
すべてはレイチェルのために。

だが今日のアンソニーは違う。
動転するキャンディにお構いなしに、どんどん近づいてくる。
どうしようかうろたえているうち、あっという間に目の前まで来てしまった。

「ハロー、キャンディ、アニー!二人揃って何かの相談?」

暗黙の掟(おきて)を破り、彼は堂々と声をかけた。いつもの優しい声で。
でも、心なしか様子がおかしい。
青い瞳の奥に、めらめら燃える炎を見た気がする。
まるで何かを覚悟してきたようだ。

「こんにちは、アンソニー。別に大した話をしてたわけじゃないのよ。ね?キャンディ」

口もきけず、ひたすら硬直する親友を気づかって、アニーが代わりに答えてくれた。
そして「何か言いなさいよ」とばかりに、肘(ひじ)でつついてキャンディを促す。

「あ、あの・・・レイチェルはどうしたの?」

挨拶もろくにせず、口をついて出てきたのは、やはり「彼女」のこと。
それほど気になって仕方ないのだ。

「実は、夕べ喧嘩しちゃってね。レイチェルは怒って出てったよ。でも、すぐ帰ってくるだろうから、心配しないで」
「まあ驚いた。あなたでも女の子とケンカすることがあるの?」

意外な一面に、アニーは目を丸くする。
アンソニーは照れながら頭をかいた。

驚いたのはキャンディだ。
アンソニーがレイチェルと喧嘩をするなんて!
あれほど彼女に気をつかっているのに、何があったんだろう。
もしかして原因は自分ではなかろうかと思い、心が痛む。

そのとき、アニーが気をきかせて言ってくれた。

「そうだわ、もうランチの時間だから帰らないと。アーチーが待ってるの。今度四人で一緒にお食事しましょ」

そう言って屋敷へ入り、アンソニーとキャンディの二人きりになった。


「ちょっと気が滅入って・・・。君に会いたくなったんだ」

その一言だけで、キャンディの心臓はドクンドクンと音を立てる。

「でもレイチェルは大丈夫なの?私たちだけで話してるところが見つかったら、また気を悪くするんじゃない?」
「平気だよ。この時間に現れはしないと思う。それに、彼女の名前は聞きたくない。今だけでも忘れたいんだ」

思いつめた顔のアンソニーを見て、キャンディはいたたまれなくなった。

「どうしたの?いつものあなたらしくないわ。何かあったのね。私でよかったら話してみて」

心配そうにのぞき込むエメラルドの瞳。
アンソニーは哀愁を浮かべた目で見つめ返した。ドキドキするほど近くにある、深いブルーの瞳で。
キャンディは燃えるような火照りを全身に感じた。
体が溶けてしまいそうだ。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
アンソニーを見ると、なぜこんなに胸がキュンとするんだろう。

「ごめん、心配かけちゃったね。なんでもないんだ。だから気にしなくていいよ」

彼はキャンディの瞳から視線をずらし、冷静な顔に戻ってしまった。
いつだってそうだ。
アンソニーは、なかなか本音を見せない。
キャンディには、それがもどかしかった。
一体彼はどう思ってくれているのだろう。
少しでもわかれば、安心できるのに・・・


そのとき急に強い風が吹いて、キャンディのかぶっていたつば広の帽子を吹き飛ばした。
帽子はフワッと舞い上がり、頭上の木の枝に引っかかる。
かなり高いところだ。
あわてて手を伸ばし、枝にぶら下がっている帽子を取ろうと背伸びしたが、どうしても届かない。
何度もやってみたが、いよいよ無理だとあきらめると、思いあまって木に登り始めようとした。

焦ったのはアンソニーだ。
悪戦苦闘するキャンディを、隣で楽しそうに観察していたが、あまりにもかわいそうだと思ったのか、脇からヒョイと手を伸ばして帽子を取ってくれた。
いとも簡単に!
あまりのあっけなさに、キャンディは力が抜けてしまった。
自分はあんなに背伸びしても、全然届かなかったのに。

「背が・・・高いのね」

頬を真っ赤に染めながら、やっとつぶやく。

「そりゃ君よりは。男としては、特別高いと思わないけど」
「ううん、あの頃より随分背が伸びたみたいよ」
「きつね狩りの頃よりはね。だってもう五年近く経ってるから」

五年──少年は青年に変わる。
すっかり大人になったアンソニーは、やっぱりまぶしい。
さっきにもまして、胸がドキドキし始めた。
なんとか冷静を装って言葉をつなげる。

「アンソニーったらひどいわ。そんなに簡単なら、最初から取ってくれればいいじゃない」
「ごめんごめん。汗をかいて一生懸命頑張ってるところを見てたら、ついからかいたくなっちゃってね。それにしても、レディが木に登ろうとするなんて、びっくりしたよ」

いたずらっぽい笑みが続く。キャンディもつられて笑った。
こんなふうに過ごしていると、時が経つのも忘れてしまうほど和む。
やはり心を解き放ってくれるのは、キャンディなのだ。
いつも重苦しい空気の中で、自分を押し殺して生活しているアンソニーは、本当に久々に笑った。
レイチェルには申し訳ないと思ったが、たとえ彼女を裏切ろうとも、こうしてキャンディに会えたことを、心から喜んだ。
後悔はなかった。



同じ頃、「彼」は馬車を降り、この別荘の正門へ、ゆっくり歩いてくるところだった。
門をくぐり、しばらく歩を進めていくと、木陰から若い男女の笑い声が聞こえてくる。
なにやらとても楽しそうだ。
あまりにもにぎやかなので、近づいていって見ると──
信じられない光景が、「彼」の視界に飛び込んだ。

若い女性はキャンディ!
彼女は金髪の青年と、とても嬉しそうに話している。
残念ながら、男のほうは後ろ向きになっているので、顔が見えない。
アルバートだろうか。
だがロンドンで見た彼とは、髪の色も髪型も違う。
ではアーチー?
「金髪」という点は同じだが、髪型がまるで違う。
二人のどちらでもないとすれば、自分の知らない誰かということになる。

それにしても「奴」は、キャンディに対して、やけになれなれしい。
単なる通りすがりとか、ちょっとした知り合いとかいう類(たぐい)ではなさそうだ。
はたから見ると、恋人同士にさえ見える。

雷に打たれたかのように、「彼」はその場に立ち尽くした。
ショックで足がすくんで前へ進めない。
口もきけない。
だが時間の経過とともに、衝撃は怒りへと変化していった。
無性に腹が立ってくる。

(俺のキャンディとあんなに親しげに話してるのは、どこのどいつだ!)

「彼」は二人のほうへズカズカ歩いていく。
本当は感情のままに怒りを爆発させ、相手の男を殴り倒したい気分だったが、今日は大切な日。
心を鎮(しず)めながら、必死で自分に言い聞かせる。

(一生記念に残る大切な瞬間なんだ。彼女が喜ぶように、最高の演出をしなきゃな)


「キャンディ、約束通り迎えに来たぜ」

突然目の前に姿を現し、真っ赤なバラの花束を差し出しながら、「青年」は少し気取った声で言う。
本来なら、とびきりロマンチックな場面になるはずだったのに。
キャンディは感激して嬉し涙を流しただろう。
「テリィ、テリィ」と肩を震わせ、次の瞬間、思い切り抱きついてきただろうに。
なのに、目障りな邪魔者が・・・!
この金髪男のせいで、折角のシーンが台無しになってしまった。
すぐにでも「お前は誰だ」と問いつめたいところだが、グッと抑えて平静を保つ。

一方キャンディは、「彼」がいきなり現れたことに、心臓が止まりそうなほど驚いた。

「テ、テリィ!あなた、いつ来たの?」
「たった今さ」

ついにテリィが迎えに来た!
びっくりさせようとして、彼は連絡せずにやってきたのだ。

驚くキャンディの視線の先に、誰が立っているのか気になったアンソニーは、振り返ろうとした。
その動作とほぼ重なるように、テリィの声が響く。

「さっきから気になってるんだけど、そいつは誰だい?」

アンソニーをジロッとにらみつけるテリィを見て、キャンディはただならぬ事態になったことを察した。

「あ、あの・・・それは・・・」

アンソニーはアンソニーで、突然の訪問者にびっくりしていた。
キャンディに対して、やけになれなれしい態度が気になって仕方ない。
「キャンディ、この人は?」

彼は小声で尋ねてきた。
彼女が何も答えられないでオロオロしているので、業を煮やしたテリィは直接アンソニーに向かって言い放つ。

「おい、お前は誰かと、さっきから聞いてるんだぜ」
「失礼じゃないか。相手に名前を聞くときは、先ず自分のほうから名乗るのが、礼儀ってもんだろ」

非礼にムッとしたアンソニーは、きっぱり言い返した。
もはや抜き差しならない状況だ。
二人のやり取りを脇でハラハラしながら見ていたキャンディは、この場を収めるためには、勇気を出して自分が何とかしなければいけないと覚悟を決めた。

「アンソニー、ごめんなさい。ちょっとこの人に話があるの。あとで必ずバラの門へ行くわ。それまで待ってて」

初めにテリィの怒りを鎮めて説明しなければ──そう思ったキャンディは、アンソニーを言い含める。
彼は怪訝(けげん)な顔をしたが、「わかった」と一言言い、仕方なく、その場を去っていった。
あとに残るキャンディと青年が何を話すのか、とても気にしながら・・・



二人になったところで、キャンディは深く息を吸い、テリィに切り出す。

「驚かないでね、今の人はアンソニーなの」
「それはわかってるさ」
「だから彼は・・・『私の初恋のアンソニー』なの!」

瞬間、胸の中で何かがはじけるのを感じた。
その名を忘れるはずがない。
だが「そのアンソニー」なら、落馬して死んだはず。
なのに、どうして今頃?

「奴は死んだんじゃなかったのか?馬から落ちて」
「確かにそういうことになってたわ。でも本当は生きてたのよ!それがわかったのは、二ヶ月ほど前なの。私も初めはびっくりした」

あまりに大きな衝撃だ。
たちまち嫌な予感が襲ってくる。
何しろキャンディは、「死んでしまった初恋の人」をいつまでも忘れられず、なかなか自分を受け入れてはくれなかったのだから。
無理矢理忘れさせるために、荒っぽい手段を使って彼女の心を引き寄せたのが思い出される。
五月祭で交わしたキスのあと、キャンディの心がアンソニーから離れたのは間違いないだろう。
だが、こういう状況になった今は違う。
油断などしていられない。
「死んでいたとき」でさえ、アンソニーは強力なライバルだったのだ。
「生き返った」今は、なおさらだ。
幻が心をとらえているのとはわけが違い、生きている人間は、本当にキャンディを奪ってしまうのだから。

今度こそ、対決しなければならないだろう。
もし今でも、アンソニーがキャンディを想っているとすれば。

「そんな大事なこと、君はこの前一言も言わなかったじゃないか」
「あなたがあまりに突然現れたから、言えなくなっちゃったの。ごめんなさい」
「それで?奴が生きてたから、どうするっていうんだ。俺との約束は解消か?」

テリィは、久しく見せたことがない、険しい表情になった。
まるで出会った頃の彼そのもの。
とげとげしく突っかかってきた聖ポール学院時代に逆戻りしたようだ。
あまりに動揺して、すっかり我を忘れてしまったのだ。

「約束を解消だなんて・・・。あのときは嬉しかったわ、ホントよ!だけど記憶をなくしたアンソニーのことを考えると、気がかりで。だからせめて、彼が過去を思い出すまで、ここにいて助けてあげたいの」

健気(けなげ)な決意に、テリィは益々激昂(げっこう)した。

「へ~え、それは殊勝な心がけですねぇ。で、奴はいつ記憶を取り戻す『予定』なんだ?まさかこの先十年も二十年も、つきあうわけじゃないだろうな」

キャンディは愕然とした。
言われてみればそうだ。
アンソニーの記憶がいつ戻るか見当もつかないし、そもそも記憶が戻る保証すらないのだ。

「奴の記憶が戻るかどうかは、神のみぞ知るだ。そんなことに振り回されてる君を見守るほど、俺はお人よしじゃないんだよ。はっきり言って、やめて欲しい。それに奴の面倒なら、他の誰かがみればいい。君じゃなきゃいけないってことは、ないはずだ。もしアンソニーを、もうどうも想ってないなら」

最後のセリフはこたえた。
まるで本音を見透かされているようだ。
彼の言うとおり、アンソニーを想っていないなら、彼の世話など気にする必要はないのだから。

だからといって、このままあっさり別れを告げ、レイクウッドを去るのは苦しい。
そこまでの決心はついていない。

結局、未練を断ち切ることが出来ないのだ。
レイチェルのことも言えなかった。
もうアンソニーには、かいがいしく世話をしてくれる女性がいることを、白状する勇気がない。
そんなことを言ったら、ここに残る理由がなくなってしまう。

あれこれ思い惑っていると、テリィの一言が穏やかな空気をつんざいた。

「来いよ!君が俺の恋人だってことを、あいつにわからせてやる。こうなったら徹底的にな」

荒々しくキャンディの腕をつかむと、アンソニーのいる場所へ大股で歩き出した。