アンソニーとレイチェルが住んでいる離れ屋敷は、アードレー家の別荘から、車で30分ほどのところにあった。
こじんまりした場所で、使用人もほんの少ししかいないから、細々したことはレイチェルが取り仕切っていた。
庭は狭いが、限られた面積を使って、アンソニーはバラの栽培をしている。
相変わらず見事な腕前だ。
記憶を失った今でも、愛してやまないのはバラたちなのだろう。
特に大切に育てているのは、スイートキャンディ。
レイチェルはその名の由来が気になって仕方ない。「キャンディ」というのが、女名だからだ。
誰か好きな女性の名前を付けたのでは?──そう思うと、やりきれない。
アンソニーがスイートキャンディを手入れしている姿を見るたび、嫉妬に燃えた。
まだ見たことのない、「キャンディ」に対して。

一方アンソニーは、あの日から妙にそわそわしていた。
あの日──バラの門で、そばかすの娘に出会った日。
あれ以来、彼女のことが頭から離れない。

キラキラ輝くエメラルドの瞳。
肖像画で見た母・ローズマリーと同じだ。
記憶がないアンソニーに、母の面影が残っているはずはないが、あの娘はどことなく似ている。
聖母のような笑顔、慈愛に満ちた眼差しが、母のイメージに重なる。
なぜか懐かしくてたまらない気持ちだった。

今日会うことになっているアードレー家の親族の中に、彼女はいるのだろうか。
いつの間にかドキドキしている自分に、戸惑いを覚える。
レイチェルへの遠慮があるからだ。

(僕をずっと世話してくれたのはレイチェルだ。この先何があっても、彼女を裏切ることは出来ない。でも、このときめきは、一体なんだろう?こんな気持ちになったのは初めてだ)


「ねえアンソニー、今日のお茶会に来るアードレー家の親族って、どんな人たちかしら」

まるで心を見透かすかのように、レイチェルが口火を切ったので、アンソニーはギクッとした。

「よくわからないけど、僕のはとこに当たる人たちだけを集めると言ってたよ、大おば様が」
「いい人たちだといいわね」

レイチェルは形式的にそう答えたが、どうでも良かったのだ、実のところ。
本当に知りたいのは、もっと別のこと・・・

(親族の中に、「キャンディ」っていう子がいるの?)

しばらく考え込んでいたが、意を決して「願い」を口にする。

「アンソニー、たとえ記憶が戻っても、昔のことを思い出しても、変わらずにいてくれるわよね?」

唐突の懇願に、どう答えていいかわからない。
青い瞳に、迷いの色が浮かぶ。

「お願い、約束してちょうだい。ずっと一緒にいてくれるって」
「勿論だよ」

アンソニーは優しく微笑んだ。
彼女の目があまりにも真剣だったので、正直引いてしまったが、こんなにも自分を思ってくれるのが、嬉しくもあった。

「約束するよ、いつまでも二人でいるって」





レイクウッドの別荘には、アーチー、ニール、イライザ、キャンディ、そしてアーチーと婚約したアニーが集まっていた。
アンソニーを、彼らにお披露目するためだ。
はとこたちに会えば、アンソニーが何か思い出すかもしれない、ということもあった。
勿論、エルロイとアルバートも同席している。

本来なら、この席にステアがいるはずなのに──志願兵となり、ついに戦場から帰ってこなかった彼。
キャンディの胸は、ちくちく痛んだ。

キャンディ以外は全員がシカゴの本宅に住んでいるので、皆にとっては、久しぶりのレイクウッド。
もっともアーチーとアニーは婚約を機に独立して、近々こちらに住まいを移す予定になっている。
そうすれば、毎日キャンディに会えるので、アニーはとても喜んでいた。


「ねえキャンディ、アンソニーってどんな人だったかしら?」

アニーは、アンソニーに一回しか会ったことがない。
もう五年も前、まだキャンディがラガン家で使用人をしていた頃に開かれたガーデンパーティーで、チラッと見かけた程度だ。
だから記憶に残っていないのも、無理のない話。
それにあの頃は、アーチーを夢中で追いかけていて、アンソニーのことなど眼中になかったろう。

「それはそれは素敵な人よ。アードレー家で、いえ世界中で、一番素敵だと私は思うわ」

意地悪そうに笑いながら、イライザが割り込む。

「ああそうかい、その割に君は、あのテリィにも熱をあげていたっけな」

アーチーが横槍を入れる。
イライザが相変わらずアンソニーにお熱なので、からかいたくなったのだ。

「あら、テリィは別格よ。でも彼は、相手役だった美人女優と噂になってるから、もう興味ないわ。ねえ、あなたもそうでしょ?」

そう言って、キャンディのほうをチラッと見る。
テリィのことを言われると、今でも過剰に反応してしまうことを知っているからだ。
なんて嫌な性格なんだろう。いつになっても。

「え?ええ・・・」

キャンディがしどろもどろに返すと、今度はニールがボソッと一言。

「ふん、なんだい、あんなオンボロ役者!」

一時的とはいえ かつてニールは、キャンディに好意を持っていた。
卑怯な手段を使って婚約に持ち込もうとしたこともあるので、今日同席するのは気が引けた。
土壇場で婚約をぶちこわしたアルバートに恨みもある。

「やれやれ、君たちが顔を合わすと、いつも決まって険悪なムードになるなぁ。今日はアンソニーが来るんだ。気持ちよく迎えてやってくれ、頼むよ」

アルバートは、むずかる赤ん坊をあやすような口調で言った。

「ウィリアムの言うとおりです。もういい大人なんだから、仲良く穏便にやっておくれ」

エルロイも念を押す。


次の瞬間、ノックの音に続いてドアが開き、待ち望んだ主賓が現れた。

黒いスーツに真っ白いシャツ。
ノータイで、胸元にはコサージュ代わりにスイートキャンディ。
ごくシンプルな服装なのに、くすみのないブロンドが、ひときわ目を引く。
皆、息を呑んだ。

はやる気持ちをおさえられず、アーチーが真っ先に駆け寄る。

「本当にアンソニーか?まさか生きてたなんて!兄貴と僕は、あのとき必死でお前を揺り起こして・・・」

絶望的な光景が脳裏に浮かんだのか、アーチーは押し黙った。
だがすぐに顔を上げて目をしっかり見開き、「本当に良かった、良かったな!」と言うと、ガッチリ肩を抱いた。
まだ何か言おうとするのだが、言葉にならない。
男泣きだった。

ニールはその隣で、二人の光景をボーっと眺めている。
アンソニーが生きていようがいまいが、どうでもいいのだろう。

だが女性陣は違う。
彼の美貌に見とれ、ため息が漏れるばかりだ。
それほどまでに、アンソニーは輝いて見えた。

窓から差し込む、柔らかな陽差しを浴びて光るブロンド。
吸い込まれるように深いサファイアブルーの瞳。
凛々しく男らしい眉。
すーっとのびた鼻筋。
涼しげな横顔。
なんて端正な顔立ちなんだろう!どれもこれもが、胸をときめかせる。

(アンソニーって、こんなに素敵な人だったかしら?)

アニーは遠い昔の記憶をたぐり寄せようとしたが、かなわない。
イライザは、「まあ」と言ったきり、顔を赤らめて黙ってしまった。
普段はあんなに気丈なイライザが!

そしてキャンディは・・・
バラの門で再会した光景を思い出していた。
あの日は、ほんの一瞬会えただけだったから、間近でアンソニーを見るのは、今日が初めて。
でも、まともに顔が見れない。
心臓がドキドキして、とても正視出来ない。
こんなことって・・・!

13歳の頃もアンソニーが大好きだったはずなのに、こういう気持ちになったことはない。
勿論胸はときめいた。
バラの門へ行くのを、どんなに楽しみにしていたことか。
朝起きて、一番初めに浮かんでくるのも、アンソニーの笑顔だった。
でも今感じているのとは、違う気がする。
体の奥がうずくような、激しく切ない想い・・・
これが、「大人になった」ということなのだろうか。

キャンディはやっと気づいたのだ。
あの頃の自分たちが、どんなに幼かったか。
まだあどけない少年少女だったか。

初恋は、淡雪のようにはかなかった。
だからアンソニーは、あんなにも早く、目の前から消えてしまったのだろう。
でも、ここにいる彼は別人だ。
五年の時が流れ、立派に成長した青年を、キャンディはまぶしそうに見つめた。


一方アンソニーは、あの日の娘が、この場にいることに胸躍らせていた。
一ヶ月前、バラの門で偶然に出会ってから、片時も忘れることが出来ないエメラルドの瞳。
レイチェルに申し訳ないと思いながら、ずっと彼女のことを考えてきた。

ずっと前に、どこかで会ったような気がする。
とても親しく接していた気さえする。
なぜかしら、懐かしい香りが漂う。
もしかしたら、スイートキャンディに関係があるのだろうか。
バラの門で会った日、別れ際にふと口をついて出たことを思い出し、そんな考えが浮かんだ。
意識して言ったわけではない。
あの瞳を見ていたら、自分でも気づかないうちにつぶやいていたのだ。
「スイートキャンディ」と。

(僕をこんな気持ちにさせる君は、一体誰?以前、どこかで会ったことがある?)

サファイアの瞳は、熱い眼差しを娘に向けた。

アンソニーにじっと見つめられ、キャンディは心臓が爆発しそうになった。

(お願い!そんなに見ないで。どうしていいかわからないの。その優しい青い目で見つめられると、吸い込まれてしまいそうよ) 

ドキドキしながら、声にならない声で、そう叫ぶ。


「さあ、みんなをアンソニーに紹介しないとな」

アルバートの言葉で、現実に引き戻された。
キャンディはハッとして周りを見回す。
真っ赤になっている自分を、誰かに見られて、からかわれはしないかと思ったからだ。
だがその心配はなさそうで、とりあえずホッとした。

広い応接間には、簡単なテーブルとソファーしか置いていないため、皆は思い思いの場所に立って、自由に移動しながら話していた。

「アンソニー、一人ずつ紹介するよ。先ずはアーチー。その隣が婚約者のアニー」

婚約者と言われて、アニーは頬を染めた。

「そしてニール、その妹のイライザ」

アンソニーは、まるで初めて会う他人同士のように深々と頭を下げ、「よろしく」と言った。

「私を見て、何か思い出さないこと?もう大丈夫よ。きっとあなたは、すぐに記憶を取り戻すわ。だって、この私に会ったんですもの!」

例によってイライザは得意げに言ったが、アーチーが鼻っ柱をへし折る。
 
「無駄だと思うけどね~。だって君はアンソニーにとって、一番思い出したくない相手なんじゃない?記憶が戻るわけないさ」
「ふん、何よ!見てらっしゃい。もし私のおかげで昔を思い出したら、そのときはどうなるか、わかってるんでしょうね」

いつもの強がりが威勢良く響き、アーチーは呆れ顔で肩をすぼめた。

そしてやっと・・・

「最後はキャンディ。可愛い子だろう?僕の養女だ」

いつになくしおらしく、黙ったまま下を向いている「娘」を指さし、アルバートが言った。
瞬間、アンソニーに衝撃が走る。

(キャンディ?キャンディだって!?)

これでわかった。
どうして今まで心を奪われてきたのか。
気になって気になって仕方なかったのか。
今の一言で、すべてが解決した。

やはり彼女は、「キャンディ」だったのだ。
恐らく「スイートキャンディ」は、彼女の名前を取って付けたのだろう。
アンソニーはすぐにも話しかけて確かめたかったが、他の出席者の手前、それは出来なかった。

「アンソニー、ずっとニューヨークにいたんだって?元気そうに見えるけど、大変だったろうな。なんの力にもなれなくて、申し訳なく思ってるよ。許してくれ」

アーチーは懐かしそうに話しかけてくる。
とてもいい若者だ。
これから仲良くやっていけるだろうと、アンソニーは好感を持った。

「そんなこと、気にしないでください。いろいろと問題があったせいで、こういう成り行きになったと聞いてますから」

敬語で答えると、アーチーはすかさず言う。

「他人行儀な言葉を使うなって。僕らは同い年なんだし、兄弟同然なんだぜ。普通に話してくれていいよ。今までもそうだったんだから」

昔を思い出したのか、アーチーは遠くを見るような目をした。

「アンソニー、大人っぽくなったわね。アーチーと同い年ということは・・・」
「九月が来れば21になります」

イライザの問いかけに、アンソニーは即答した。

「あら、私にも敬語は使わなくていいのよ。いつも優しく話しかけてくれたじゃない。ね?あの頃と同じようにしてちょうだい」

いやらしい目つきで媚を売るイライザ。なんとなく気味が悪い。
その隣で、兄のニールは、さっきからずっと気のない素振りでつっ立っている。
見ているのは、窓の外ばかり。
早くこの場を去りたいのがありありだ。

(この兄妹は、どうも苦手だな)

アンソニーは直観的にそう思った。

「それにしても、アルバートさんによく似てるわ。叔父さんと甥っ子の関係でいらっしゃるんでしょう?無理もないわね。あと何年かしたら、アンソニーは、今のアルバートさんそっくりになると思うわ」

今度はアニーが会話に加わる。

「そうなんです。僕も初めて叔父さんを見たときは、びっくりしました。それよりもっと驚いたのは、叔父さんの少年時代の肖像画です。僕と同じ顔をしていた」

アンソニーの言葉で、キャンディは思い起こす。
アルバートが丘の上の王子様だったこと、そしてその王子様は、アンソニーに生き写しだったこと。
どれもこれも、懐かしい思い出だ。

「おいおい、その『叔父さん』ってのは、やめてくれと言ったろう」

アルバートがたしなめると、「ああそうでした。『アルバートさん』」と、からかうように甥っ子は答える。
そのほほえましい光景に、エルロイもにっこり笑った。

「あれぇキャンディ、さっきから黙ったままで、全然しゃべってないよね?」

少し離れたところで、「壁の花」になっているキャンディに気づいたアーチーが話を振る。

「そんな隅っこで小さくなってて。アンソニーと一番話がしたいのは、君じゃないか。ほら、こっちへおいで!」

アーチーはズンズン近づいてきてキャンディの手をつかみ、アンソニーのそばへ連れて行こうとする。
このときばかりは、彼のお節介を恨めしく思った。

(アーチーのバカ!心臓が張り裂けそうなのよ。この上アンソニーのそばへ行ったら、失神しちゃうわ)

だがアーチーはそんなことにはおかまいなしで、手をグイグイ引っ張る。
とても抵抗できそうにない。
あっと言う間にアンソニーの隣へ・・・

見上げたら、端正な顔立ちが微笑んでいる。
ああ、なんて奇麗な瞳なんだろう!
まるで宝石みたいなサファイアブルー。
輪郭を縁どるのは、艶(つや)めいた金色の髪。
そして甘いバラの香り。
懐かしいアンソニーの香り・・・
でもあの頃の彼より、ずっと男らしい。
高くなった背丈に、がっしりした骨格。
どれをとっても、もう「少年」ではない。

キャンディは吸い込まれそうになった。
そっと体を寄せ、広い胸に顔を埋めたら、どんなに嬉しいだろう。
抱きしめられたら、そのまま溶けてしまうかもしれない。
そんな妄想が頭をよぎる。

胸の高鳴りはどんどん大きくなり、恥ずかしさに言葉が出てこない。
顔がカーッと火照る。
体中が熱い。まるで熱病にかかったみたいに。
ああどうしよう。何か言わなくては!
でも・・・

「この前、バラの門で会ったよね?」

優しい声が耳元でささやいた。
動転したキャンディを見て、アンソニーは気をきかせてくれたのだろう。

ああ、この声!夢にまで見たアンソニーの声。
あの頃と少しも変わらない甘い調べを聞いた途端、キャンディは感激で涙が出そうになった。

「ええ、ええ」

そう答えるのがやっと。
それ以上しゃべったら、大粒の涙があふれ出してしまう。
だから必死でこらえて、うなずくだけだった。

「あのとき、僕は君を見て・・・」

アンソニーがそう言いかけたとき、突然ノックの音がした。
ややあって、もう一人の主賓であるレイチェルが入ってきた。
彼女はアンソニーより、わざわざ少し遅れて来たのだ。
自分が来る前に、親族だけで積もる話もあろうかと思って。
すかさずアルバートが駆け寄りエスコートし、彼女を皆のところへ連れてきた。

「こちらはレイチェル・プレスコット嬢。今までのことは先日話したとおりだが、彼女がアンソニーの付き添い看護婦だ。ニューヨークから来てもらった」
「初めまして。レイチェルです。よろしくお願いします」

肩のあたりまである亜麻色の髪を、パステルカラーのリボンで束ねただけの髪型。
着ている服も、ごくシンプルなドレス。
決して着飾ってはいないのに、なぜか人目を引く娘だ。
それは、気品にあふれた美しさのせいだろう。
ヘーゼルの瞳は、彼女が強い意志の持ち主であることを物語っている。

キャンディはそんな様子を見て、不安になった。

(この人が本気でアンソニーを愛していたら、私は?)

そう思ったのは、レイチェルが美しいからだけではない。
自分には、「テリィを愛した負い目」があったから。
彼女の目は、アンソニーだけを見ていたのに、自分はそうではなかった。
一途に一人を思い続ける女性にはかなわない・・・
勝負に挑む前に、負けている気さえする。

(もしものとき、果たして私は、彼女に勝てるんだろうか)

「ふん!レイチェルなんて大したことないわ。なによ、アンソニーにベッタリくっついて」

吐き捨てるようにイライザが言い放った。
今だけは、彼女の自信過剰を羨ましく思う。
自分もイライザみたいに単純で嫌みな性格なら、どんなに気が楽だろう。
そう思うと、やり切れなくなった。

「レイチェル、一人ずつ紹介しよう。兄弟同然に育ったアーチー、その婚約者のアニーだ。こっちはニール、その妹のイライザ」

そこまで紹介され、レイチェルは残っている一人の娘に目をとめる。
この前バラの門で会った人物であると、すぐにわかった。
あのときの娘。
アンソニーが、気になる目つきで見つめていたのが引っかかる。
それに突然、「スイートキャンディ」と言い出したのも。
胸騒ぎを覚え、咄嗟(とっさ)に彼の手を取って逃げ出したが、あの日から、何かが変わった気がしてならない。
少しずつ歯車が狂い、自分たちの関係が崩れていくのでは──
レイチェルは、恨めしそうに娘を見つめた。


「そして僕の隣りにいるのが・・・」

アルバートの声が、妄想をうち消す。

「養女のキャンディだ」

そう聞いた瞬間、レイチェルは凍りついた。

──キャンディ?この子がキャンディ?──

運命の瞬間だった。
アンソニーが、あんなにも慈しんでいるスイートキャンディ。
あのバラと同じ名前。
わけもなく胸を揺さぶってきた予感が、的中してしまった。

(アンソニーは、誰か好きな人の名前をバラに付けたのでは?)

それは昔から、ずっと疑問に思っていたこと。
真実を知るのは怖いが、やはり確かめたい。
いや、確かめずにはいられない。
レイチェルはいても立ってもいられなくなり、すがりつくような目でアンソニーを見上げた。

(キャンディって、キャンディって誰?一体あなたの何だったの?)

すぐにも聞きたいが、無理な話だ。なぜならアンソニーは、昔の記憶をすべて失っているのだから。
あとはひたすら祈るしかない。彼が昔を思い出さないように。
そうすれば、ずっと一緒にいてくれるだろう。
だがその小さな望みさえも、アルバートの言葉でかき消された。

「顔合わせも済んだことだから、アンソニーとレイチェルには、レイクウッドの別荘へ移ってもらうよ。夕べ大おば様と相談してね。アーチーとアニーも近々引っ越してくるから、にぎやかになっていいだろう?」

レイチェルは愕然とした。
異議を唱えようにも、適当な言い訳が浮かばない。
「でも・・・」と、力無く言うのがやっとだ。

「『でも』?レイチェルには、何か意見があるのかい?」

アルバートが穏やかに尋ねる。

「あの、いろいろ準備がありますし、それに・・・」  
「今すぐじゃなくていいんだ。ぼちぼち片づけて、そのあと移ってくれればいい。ただ、アンソニーを待ちわびてる人がいるから、なるべく早くね」

アルバートの視線の先には、エルロイが。
老婦人は目を細めてアンソニーを見ていた。可愛くてたまらないのだろう。

こうして親族に紹介されてしまった今、あの離れ屋敷に二人で住むと言い張ったところで、誰も認めはしない。
すべて終わりだ。
「私だけのアンソニー」だったのに・・・
落胆のあまり、レイチェルの顔から血の気が引いていく。

「どうしたの?顔色が悪いよ」

アンソニーが心配そうに言う。

「ちょっと気分が・・・」
「それは心配だな。今日はもういいから、帰って休むといい。アンソニー、ついて行っておやり」と、アルバートが甥を促す。

実のところ、アンソニーはずっとここに残って話をしていたかったのだ。
お目当ては、勿論「あの娘」。
レイチェルの具合がすぐれないのに、自分はキャンディに後ろ髪を引かれている。
事故に遭って以来、誰かが気になって仕方ないなんて、一度もなかった。
初めての経験に、アンソニーは戸惑う。
出会って間もないのに、なぜこんなに惹かれるのだろう。
エメラルドの瞳のせいか?


レイチェルは皆に無礼を詫び、部屋を出ていこうとした。
最後にキャンディのほうを見ようとしたものの、やはり勇気はない。
キャンディはキャンディで、うなだれたままだ。
だから互いに目を合わせることなく、レイチェルは出ていった。

あとを追うように出口へ向かうアンソニー。
キャンディの脇を通り過ぎるとき、周りに聞こえないように、小さくささやいた。

「また会いたい」

ハッとして顔を上げる。

(会いたい?アンソニーが私に?)

更に彼は、胸元のスイートキャンディを引き抜き、そっと手に握らせた。

「じゃあ・・・」

サファイアの瞳から笑みがこぼれる。
なんて爽やかな、優しい笑顔なんだろう!
それはまるで、天から降ってきた幸せな贈り物。

(ああ、もうダメだわ)

この瞬間、キャンディの心は決まった。
誰になんて言われてもいい、過去にどんなことがあったって、もう気にしない。
今はアンソニーが好き!彼だけが好き。
大声でそう叫びたかった。
今度こそ、神様に誓ってもいいと思った。

(アンソニーが会いたいって言ってくれた。それにスイートキャンディをくれたわ。私のために作ったバラだってこと、思い出したのかしら?)

レイチェルの具合が悪いときに気が引けるが、アンソニーの突然の行為に、舞い上がるような気分だった。
嬉しかった。

(レイチェル、ごめんなさい。あなたには悪いけど、やっぱり私はアンソニーが好きなの!)