どの位歩いただろう。
実際は大した距離ではないかもしれないが、キャンディには、気の遠くなるような道のりに感じられた。
まだ足が震えている。
出来るなら、逃げ出したいくらいだ。

「恐いのかい?」

アルバートが気づかう。

「大丈夫よ。何を聞いても、めげたりしないわ」
「そうそう、その意気!」


アルバートはエルロイの部屋の前で立ち止まり、ドアをノックした。
「お入り」という声が返ってきて、中に入る。
キャンディもそれに続いた。

「こんにちは、大おば様。突然お邪魔してすみません。今日はもう一人、かわいいお客様を連れてきましたよ」

ラガン家に使用人として引き取られて以来、エルロイはつい最近まで、キャンディに冷たく当たってきた。
だが記憶を失ったアルバートを献身的に看護して全快させたあたりから、こだわりはすっかり消えた。
むしろ今は、キャンディを一番可愛がっているくらいだ。

「大おば様、ごきげんいかかですか?すっかりご無沙汰してしまって、本当にすみません」

キャンディは緊張しながら、やっと笑顔を浮かべて見せた。

「おやおや、よく来てくれたねぇ。あまり会わないと、顔を忘れてしまうよ。たまには本宅にも足を運んでおくれ」
「はい」

いつになく、キャンディが緊張している様子に気づき、エルロイは心配顔になった。

「どうしたの?いつものお前らしくないね。今日はすっかりおとなしくて、口数も少ない。あら、震えておいでかい?」

アルバートが機転をきかせ、助け船を出す。

「実は、予想していたとおりのことが起きましてね」
「どうしたというんです?」
「キャンディがついに、アンソニーとレイチェルを見つけたんですよ、バラの門で」

エルロイは一瞬、あっという表情を浮かべたが、すぐに気を取り直した。
いつかそういうことになると、覚悟していたかのように。

「そうですか。とうとうこの日が来たのね。私の願いどおり、やっぱりキャンディが一番最初にアンソニーを見つけてくれた!」

老婦人は涙声になった。
こんなに弱々しい姿を今まで見たことがなかったから、キャンディは驚く。

「私はあの日、アンソニーを見捨ててしまったんだよ。許しておくれ」

見捨てた?──意味がわからず、キャンディは動揺するばかりだ。
何を聞かされてもいいから、すべてを知りたい。
だから勇気を振りしぼって切り出す。

「大おば様、教えていただきたいんです、何もかも。どうしてアンソニーは、あの日死んだことになってしまったんですか?」
 
エルロイはハンカチで涙をぬぐい、深呼吸をすると、ゆっくり話し始めた。

「きつね狩りの日、落馬したアンソニーは、頭を強く打って意識を失っていたんだよ。お前は失神してしまったから、何も覚えてはいないだろうけど。ステアやアーチーが駆け寄って揺り起こしても反応しないし、あの子は決して目を開けなかった。そのうち、どんどん冷たくなっていってね。もう駄目だと思ったわ。主治医の見立てもそうだったんだよ」

運命の日の悪夢が蘇ってくる。
落馬したアンソニーを見たショックから気を失い、目覚めたときに聞かされた、衝撃的なひとこと。

──アンソニーは死んだ。即死だった──

ステアのあの声が、今また脳裏を駆けめぐる。
涙がこぼれた。

「だけどね、その晩遅くに駆けつけたアンソニーの父親が、かすかに息があることに気づいたんだよ。ベッドに寝かせてあった息子の亡骸(なきがら)を抱きしめてね。あのとき、もし触れていなかったら、アンソニーはどうなっていたかしら。ビンセントは外国船の船長だから普段は船の上だけど、あの日は航海から戻っていて、丁度レイクウッドのそばに泊まっていたんだよ。だからすぐに連絡がついて。今思うと、それも奇跡だったわ」

ビンセントには、ステアの葬儀のとき、初めて会った。
優しい紳士で、大きな頼もしい背中に、父親の愛情を感じたものだ。

「ブラウンのおじ様が・・・。さすがお父様だわ!アンソニーを助けてくださったんですね」
「そうよ。それからすぐに主治医のパーキンスが確認したわ。アンソニーは生きてるって。私は嬉しくて嬉しくて仕方なかった。すぐにでもみんなを集めて、『アンソニーは大丈夫。無事だったの!』と叫びたかった。でも・・・」

そこまで話すと、エルロイの顔は苦痛にゆがんだ。
自分をとても責めているように見える。

「折角生きてたのに、どうして?」
「かすかに呼吸があるといっても、果たして本当に助かるかわからないから、まだみんなに知らせないほうがいい。先ずは一刻も早く大きな病院に運んで、精密検査を受けさせるべきだ、というのが主治医の意見だったわ」
「それでアンソニーは、シカゴの病院へ?」
「ええ、その日のうちにね。誰にも内緒だった。ステアにもアーチーにも。そして勿論、お前にも。私とウォルター、ビンセント、連絡を取って呼び寄せたウィリアム以外は、誰も知らなかった」
「それで、容体はどうだったんですか」

エルロイは、また黙り込んでしまった。
悲嘆の色合いから、アンソニーは相当重症だったと察しがつく。

「すぐに脳神経外科に運ばれてね。緊急手術だったよ。もし意識が回復しても、脳に重い障害が残ったり、半身不随になる可能性が大きいとも言われたわ」

痛ましい告白に、キャンディは言葉をなくした。
エルロイが、こんなにも大きな重荷を背負って耐えてきたことなど、全然知らなかったから。

「だけどね、神様は味方してくださったんだよ。アンソニーを連れて行かずに、私たちの手に返してくださった。とは言っても、手術が成功したあとも、なかなか意識が回復せずに眠り続けてね。やっと目が覚めたとき、アンソニーは・・・」

エルロイは、またも言葉を詰まらせた。
目覚めたとき、アンソニーはどうなっていたのだろう。
不安と緊張でガチガチになって震えるキャンディ。
彼女の隣で、先程からじっと聞き入っていたアルバートが、初めて口をはさんだ。

「アンソニーは、もうアンソニーじゃなくなってたんだよ。記憶をすべて失って、別の人格になっていた」
「別の人格に?」
「そう。頭を強く打ったから、意識障害が起きてしまってね」

意識障害という言葉は、聞いたことがある。
キャンディは精神科の専門ではないから、詳しいことはわからないが、それまで穏やかだった人が、急に強暴になったり、他人に危害を加えたりする病であることは知っていた。
以前勤めていた病院でも、意識障害の患者が病室で暴れ出し、大変な騒ぎになったことを思い出す。

「アンソニーは急に暴れたり、叫んだりしたんですか?」
「君も看護婦だからわかるだろう。あえて言いたくはないが、地獄絵図だったよ。おまけに、左半身に大きな麻痺も残ってね。そんな状態で、レイクウッドに連れて帰ってくることは出来なかった」
「だから・・・」

エルロイは、涙声で叫んだ。

「だから私は、アンソニーを見捨てたんだよ!あのシャルヴィ家に、シカゴの利権を横取りされないようにね。先祖が代々築き上げたアードレー家の威信を守るためには、ああするより他なかった。たとえどんなにアンソニーが大切でも、犠牲にするしかなかったんだよ。許しておくれ、キャンディ」

それは悲痛な叫びだった。
哀しい絶叫が、キャンディの胸に突き刺さる。

「犠牲だなんて・・・仕方のないことだったと思いますわ」

アルバートも彼女に続く。

「そうですよ。あなたはいつだって、アンソニーを気づかって、悩んでらしたじゃないですか。結果的にアンソニーは回復して元気になったんだから、もう過去を嘆くのはやめましょう。考えるべきは、これからどうするか、ですよ」

エルロイは深くうなずいた。
そしてアルバートは、もう一度キャンディに向き直る。

「とにかくアンソニーを人前に出すわけにはいかなかったんだ。アードレー家の安泰を守るためにね。だから僕らは、彼が死んだことにしたまま、空っぽの棺を埋葬した。立派な葬儀が行われたことは、キャンディも知ってるよね?」
「ええ。で、そのあとアンソニーはどうなったの?そのままシカゴの病院に?」
「いや、ニューヨークだ」

ニューヨーク!
そういえば、レイチェル・プレスコットという娘は、ニューヨークから来た看護婦だと、アルバートは言っていた。

それでわかった。
アンソニーとレイチェルは、病院で出会ったのだろう。
もう何年も前に。
あくまで初めは、患者と看護婦として。
でも今は──?
キャンディの胸に、とめどない不安が押し寄せてくる。

「アンソニーは、シカゴからニューヨークへ移されたのね」
「ああ。ここはアードレー家の本拠地だから、アンソニーが入院していれば、じきに世間に知れてしまう。それじゃあ、彼を隠した意味がない」
「それで、遠いニューヨークに・・・」
「それもある。だけど一番の理由は、ニューヨークには意識障害の患者のために、優れたリハビリの施設があったってことだよ。ビンセント義兄さんが調べたんだ」
「アンソニーのお父様が?」
「うん。コロンビア大付属病院をね。そこで看護婦をしてたのが、レイチェル・プレスコットってわけさ」

思ったとおりだ!
キャンディの心臓は踊った。
レイチェルはアンソニーを献身的に看病し、レイクウッドまで付き添ってきたのだ。
そう思い知らされた今、もう一つの「考えたくないこと」が脳裏をよぎる。

──彼女は、アンソニーを愛してるの?──

「レイチェルは一生懸命だったんでしょうね。アンソニーに早く治ってもらいたくて」
「キャンディ、できるなら嘘をついてやりたいが、その目で二人を見れば、いやでも真実を悟ってしまうだろう。だから本当のことを言うよ。君なら受け入れられるはずだから」

アルバートがわざわざ前置きするなんて、よほどのことだろう。
正直、聞きたくない。
でも彼の言うとおり、いずれ真実は目の前にやってくるのだ。
そのときショックを受けないように、今受け止めて苦しめばいい。
隣にはいつだって、アルバートがいる。
切なくて耐えられなくなったら、広い胸で思い切り泣くだけ。

「わかったわ。聞かせてちょうだい、二人のこと」

覚悟を決めた様子のキャンディに、少しだけ安堵し、アルバートはうなずいた。

「体がきかない彼の片腕になって、あそこまで回復させたのはレイチェルなんだ。今じゃアンソニーは、記憶を失ってる以外、健康体と変わりないはずだよ」

覚悟していたはずなのに、やはり地獄へ突き落とされた気分だ。
それと同時に、深い後悔が胸をしめつける。

──ああ、アンソニーを死の淵(ふち)から蘇らせたのが、なぜ私じゃなかったんだろう──


エルロイが再び重い口を開いた。

「キャンディ、そんな悲しい顔をしないでおくれ。悪いのは私なんだよ。体面を重んじるあまり、アンソニーをニューヨークへ追いやってしまったんだから。そのせいで、あの子はどれほど傷ついたか・・・。でもね、すっかり回復したという話を聞いて、こちらへ呼び戻す決心をしたんですよ。それが去年の夏。皆には内緒で、こっそりとね。レイクウッドへ帰ってくれば、何か思い出すんじゃないかと思って。でも相変わらずだった。だから今こそ、キャンディの力が必要なんだよ。レイチェルでは駄目でも、お前ならアンソニーを救える。私はそう信じてるんです」

老婦人は、涙目になってうつむいた。

「あの子には、幸せになってもらわなければ・・・」

まるで自分を納得させるかのように、エルロイはそうつぶやいた。

「大丈夫!きっと幸せになります。こうしてキャンディが来てくれたんだから、百人力ですよ。あとは時間の問題。焦らずゆっくり待ちましょう。アンソニーが癒えていくのを」

アルバートは元気づけてくれた。
キャンディもわずかに微笑んだが、わだかまりは消えない。
アンソニーとレイチェルが、今ではすっかり信頼し合っていること、寄り添うように生きているのだということが、頭を離れない。
アルバートの言葉の端々からそれを感じ取り、胸苦しくなった。

「今二人は、アードレー家のそばにある、小さな別荘に住んでる。たまにバラの門に来て、バラいじりをしてるんだよ。アンソニーにとっては、いいことだと思う。でもレイチェルの本音は・・・そんなことさせたくないだろうね。彼女にすれば、アンソニーの記憶が戻るのは恐いことだから。それにバラの門にいると、いつ誰に会うか知れない」

アルバートは、いたずらっぽく笑った。

「レイチェルにとって、アンソニーに一番会わせたくない相手は、君なのさ。もうわかってるだろうけど」

事実、そうに違いない。
だからあの日、レイチェルは素っ気ない態度をとって、アンソニーを連れていってしまったのだろう。
まるで自分から遠ざけるように。

「彼女はもう、ニューヨークには戻らないんでしょうか?」
「病院は辞めてきたはずだ。アンソニーの世話をするために」

また心臓に杭(くい)が刺さる。

(これじゃ、まるでスザナのときと同じだわ!「彼」に近づこうとすると、いつも影が通せんぼをするの。私の存在をはじき返すのよ。だから決してそばに行けない。悩んで苦しんで、泣きはらす日が続くだけ。そのうち影は、「彼」を連れていってしまうんだわ)

キャンディは心の中で、血の雨を降らせた。



すっかり憔悴しきったエルロイにねぎらいの言葉をかけ、アルバートにも感謝して、キャンディは部屋を出ていった。
足が鉛のように重い。
ほんの一ヶ月前にアンソニーと再会したときには、期待で胸がふくらんでいたのに。

この五年間のすれ違いは、神が与えた残酷な試練に他ならなかった。
瀕死のアンソニーを看護してやれなかったのも、テリィを好きになってしまったのも、すべては運命だ。
キャンディに一切罪はない。
だが、後悔だけが次々襲ってくる。

近いうちに、アンソニーとまた会うことになるだろう。
そのとき、なんと言ったらいい?
どんな顔で話をすればいい?
その日が来るのが恐かった。