レイクウッドの再会・1



~お読みいただく前に~

・拙作は、「バラの薫る季節に」の第四部をアレンジしたものです。
但しオリジナルキャラはレイチェル以外登場せず、アンソニーも「きつね狩りのあと、ニューヨークの病院で療養していた」というだけの設定にしてあります。
したがって、「バラの薫る季節に」の第一部~第三部をお読みになっていない方も、このストーリー単独で楽しんでいただけます。
・アンソニー×キャンディのハッピーエンドを許せないお客様は、申し訳ありませんが、ご遠慮くださいませm(__)m
・テリィファン様、アルバートファン様は、ご気分を害する恐れがあります。
「聖ポール学院時代みたいな、お子さまテリィでもOK」「アルバートさんが恋愛に絡まなくてもOK」という場合だけどうぞ。
・キャンディの性格設定が、原作と異なっています。
受身で煮え切らない、か弱いキャンディが描かれます。(アンソニーやテリィに主導権を持たせるためです)
それでもOKという方のみ、読んでやってくださいませ。

 

 

 

長編ファンフィクション「バラの薫る季節に」の第四部をアレンジしたものです。
「アンソニーとキャンディのハッピーエンドを早く見たい」「長い話はイヤ」「オリキャラは×」というアンソニーファン様に最適♪

原作のラストシーンから一年後。レイクウッドに呼び寄せられたキャンディは、バラの門で、アンソニーに瓜二つの青年を見つけ・・・

 


初出 2008年12月29日

 



1917年五月。
バラの門の花たちが、匂いたつような花弁を開く頃、キャンディは18歳のバースデーを迎えた。
ウィリアム大おじ様も丘の上の王子様も、その正体は両方ともアルバートだったと知って驚いたあの日から、そろそろ一年が経つ。
けれど、彼とキャンディの関係は微妙なまま、日々は流れていく。

ポニーの家から通える診療所で働いていた彼女を、レイクウッドへ呼び戻したアルバート。
その申し出に、二つ返事で従ったキャンディ。
お互い口には出さないが、長い間かけて築いてきた信頼の奥底に、甘酸っぱい不思議な感情が芽生えていることは確かだった。

最愛のテリィと別れたあと、アルバートに励まされ支えられて、ようやく傷を癒せたことが、キャンディを揺さぶっている。

(テリィを失った代わりに、私は大切な人の存在を認識できたの。今までこんな近くにいてくれたのに、決して気づかなかった大きな愛)

窓辺にたたずんで彼女は思う。
自分でも説明のつかない曖昧な気持ちが「恋」に変わる日は、そんなに遠くないのだと。

だが、どこかで不安もあった。
もしアルバートと恋に落ち、彼の伴侶に望まれることがあるとしたら、病院の仕事はどうすればいいのだろう。
ウィリアム・アードレーの妻たるものが、看護婦でいられるわけがない。
仕事はやめねばなるまい。
でも・・・

アルバートと生きるために、今まで積み上げてきたキャリアをあきらめることは、どうしても出来なかった。
苦労して取った資格、患者や同僚たちから寄せられる信頼、温かい人間関係──手放す覚悟も勇気もない。
今は看護婦を天職と思えるようになっているから。
患者やその家族の笑顔を見られるなら、何を失っても、たとえ何が手に入らなくても、耐えられる気がする。

心配はまだある。
孤児院出身の自分が、果たして本当に当主の妻としてふさわしいのか。
アルバートのイメージダウンになりはしないか。
アードレー家の権威は失墜(しっつい)しないだろうか。
社交界はすんなり受け入れてくれるのか。
エルロイ老婦人は、首を縦に振るだろうか。
・・・不安は尽きない。

それに、正直言ってわからなかった。
すべてを捨てて飛び込んでいけるほど、アルバートが「運命の人」であるかどうか。
アンソニーやテリィには無条件でときめいたのに、何かが違う。
それはきっと自分が成長し、いろいろ経験を積んだせいでもあるだろう。
「好き」という気持ちだけが支配していた少女時代は、とっくに終わってしまったのだ。

アルバートを思うと、穏やかで優しい気持ちになれる。
それだけは紛れもない事実。
でも恋と呼べるかどうか、答えは出ない。
胸を焦がすような激しい感情でなくとも、奥に染みとおっていくような想い──それこそが、「大人の恋」なのかもしれないが。

考えれば考えるほど心は乱れ、キャンディは混沌(こんとん)の中に堕ちていった。





その日も、穏やかな陽射しが降り注いでいた。
じっとしていると、まどろんでしまうような初夏の太陽に包まれ、目覚めたときには、大変なことになっていた。

「きゃあ、もうこんな時間!また遅刻だわ。今度こそクビになっちゃう。折角アルバートさんの紹介で雇ってもらったのに」

キャンディはあわてて飛び起きると、一番手近にあるドレスをつかんで身支度を整え、朝食もとらないまま、一気に飛び出す。
いつもは正門まで遠回りし、そこから湖沿いに診療所へ向かって歩くのだが、今日はそうしている時間がない。
最短コースを取らなければ、本当に遅刻してしまうからだ。

どうしたものかと思案に暮れているところへ、ラガン家のほうから、「永遠の天敵」がこちらへ向かってくるのが見えた。
泣き面に蜂とは、まさにこのこと。
ここで絡まれたら百年目。
時間通りに職場へたどり着くためには、なんとしてでも障害物をやり過ごさなければならない。

(全く!こんなときに駄目押しで彼女が現れるなんてねぇ。絵に描いたような悲劇だわ。本宅でおとなしくしててくれればいいのに、なんでこっちへ来たりするのかしら)

イライザは一年の大半をシカゴで過ごすのだが、ふと気紛れを起こすと、レイクウッドへふらりとやってきては、森や湖を散策して本宅へ帰っていく──そんな話を、アルバートに聞いたことがある。
なんのためだか謎だが、もしや、という思いが脳裏をよぎる。

(イライザを呼んでいるのは、懐かしいあの人?私は呼ばれても、決してここへ戻って来る勇気がなかったのに)

感傷に浸ったのも束の間、鋭く激しい罵声が、たちまちのうちにキャンディを襲う。

「ちょっと!こんなところでウロウロしないでよ。お前はポニーの家に帰ったんじゃなくて?もう二度と会わずに済むと思ってたのに、図々しい人ね~。聞いたわよ、どういう風の吹き回しか知らないけど、お前をここへ呼んだのは、ウィリアム大おじ様なんですって?テリィでは飽き足らずに、今度はアードレー家当主をたぶらかしたってわけ?」

相変わらずの毒舌。それに「お前」呼ばわり。
今はもう、「お嬢様と馬番」の関係ではないのに、彼女が自分を見る目は、恐らく一生変わらないのだろう。
キャンディは小さなため息を一つついた。
イライザに気づかれないように。

「お前がこの土地にいるってだけでも虫唾(むしず)が走るけど、まさかあそこへは行ってないでしょうね」
「あそこ?」

すごむ彼女の意図がわからず、キャンディは反射的に尋ねた。

「レイクウッドで一番奇麗なバラが咲いてる、あの人の大切な門よ」

「あの人の門」と言う言葉に、キャンディの心臓は踊る。
普段は決して考えないようにしているのに。
思い出すと辛すぎて、また泣きそうになってしまうのに。

「バラの門ね」

蚊の鳴くような声でしぼり出すと、イライザは目をつり上げた。

「わかってるならいいわ。いいこと?あそこへは、絶対近づかないでちょうだい。テリィやウィリアム大おじ様に心を移したお前に、アンソニーが会いたがるはずないですもの。いくら図々しくても、そのくらいはわかってるんでしょう?」

火矢で射抜かれたように、キャンディの心には激痛が走る。

(そう、確かにそうなんだ。私は他の人を好きになってしまった。でもそれは、私が生きてるから!彼の時間は止まっても、私の明日はずっと先へ続いていく。アンソニーなら、わかってくれるはずよね?そして優しく言ってくれると思うの。「キャンディ、強く生きていくんだよ」って)

「あなたの言い分、肝に銘じておくわ。じゃ、今日は急ぐからごめんなさい」

珍しく従順にペコリと頭を下げると、キャンディは相手の顔を見ようともしないで、横をすり抜けていく。
そして脇目もふらずに走り出す。

イライザは地団太を踏んで悔しがるだろうが、これ以上、暇人のご機嫌を取っている余裕はない。
無我夢中で走りながら、ついさっき誓ったばかりの約束を、早くも破ろうという悪知恵が頭をもたげる。

(もう時間がないわ。ためらってる場合じゃない。バラの門を抜ければ、一番早く湖へ出られるのよ。遅刻しないためには、それしかない!)

深く息を吸い込むと、勇気の塊(かたまり)を呼び起こし、「思い出の場所」へ。
今まで意図的に避けていた場所。
本当は懐かしくて、愛しくてたまらないのに、息苦しいほど切ない場所──バラの門。

(アンソニー、ごめんなさいね。あなたのことを思い出すと辛すぎるから、いつも通らないようにしてたのよ。でも今日だけは特別。わがままな私を許してくれる?)

キャンディは心の中で語りかけていた。
思い出が押し寄せる。
遠い過去へと押し流された面影が、バラの薫りで蘇ってくる。
吸い込まれそうなほど激しく、鮮烈に。


アンソニー・ブラウン──あの13歳の日、突如としてキャンディの前から姿を消してしまった少年。
あんなに好きだったのに、彼も心から愛してくれたのに・・・。
だからキャンディはアンソニーの思い出に封印し、もう二度と、その姿を追わないようにしていた。
いや、実際は封印したのではなく、彼女は成長して、彼のことを忘れていったのだ。

あまりにも淡い初恋は、「恋愛」と呼ぶには幼すぎた。
今彼女の心に残っているアンソニーは、おとぎ話に出てくる王子様のような、たった16歳の少年に過ぎない。


──散るから花は美しいんだよ。花は散って、より美しく咲き、人は死んで、人の心の中に、より美しく永遠に蘇るんだ──

彼が遺(のこ)した言葉どおり、アンソニーの姿は色褪せることなく、キャンディの中で生き続けている。
最後に見たあの日のまま、鮮やかに美しく。
だが決して、彼から「現実」を感じることはない。
夢なのだ、アンソニーは。
どんなに追い求めても、もう二度と帰っては来ない人。
哀しいその事実を、何年もかけて、彼女は知ってしまった・・・



キャンディは、バラの門を駆け抜けようとしている。
むせかえるように、バラが甘く薫る。
これはすべてアンソニーが育てたもの。
その薫りで、思い出に酔っているような、不思議な感覚を味わった。
だがそれを断ち切り、何も考えずに駆けていく。

するとその瞬間、輝くような金色の髪の男性が、目に飛び込んできたのだ。
その人はバラの門で、花の手入れをしているように見える。
キャンディに背を向けているので、こちらからは顔が見えない。

(アルバートさんが手入れを?)

キャンディは一瞬そう思った。
見事なブロンドといい、髪型や背格好といい、後ろ姿がなんとなくアルバートに似ているからだ。
だがよく見ると、何かが違っている。
どこがどういうふうに・・・と、はっきり言えないのだが、とにかく違う。

アルバートに似ているが、どうやら別人らしい。
それに彼は、バラの手入れなど一度もしたことがなかったから、本人でないことは決定的になった。
なら、あれは誰?

気になって、それ以上一歩も進めない。
仕事に遅れそうなのも忘れてしまい、キャンディは完全に足を止め、食い入るように見つめた。


小さな胸は、期待と不安と驚きで、異様に高鳴っている。
今さっきアンソニーのことを思い出していたから、青年が「彼」に見えるのだろう。
それにしても、後ろ姿が似ている。いや、似すぎている。
まるで本人そのものだ!
それとも、この五年近く封印してきたものが、今になって姿を見せるというのか。
本当にそんなことが・・・?

「彼」はきつね狩りで死んだはず。
それとも、双子の兄弟がいたのだろうか。
でも、そんな話は聞いたことがない。
もしや、という思いは頂点に達していた。
心臓が踊り、今にも爆発しそうだ。

(あの人の顔が見たい!こっちを向いてちょうだい。あなたは一体誰なの?)

キャンディは複雑だった。
「彼」がアンソニーであったらいいという期待と、もしアンソニーだったらどうしよう、なんと声をかけよう──不安が入り乱れ、泣き叫びそうだ。
別れ際に浴びせられたイライザの罵声が、頭の中で渦(うず)を巻く。

「他の人を好きになったお前に、アンソニーが会いたがるはずないわ!」

(そう、そうだわよね、きっと。アンソニーは私を許しはしない。どんな言い訳をしたところで、私は待つことが出来なかったんだもの。でももう一度会いたいの!声が聞きたい。「キャンディ」って呼んで欲しい。だから私・・・)


心の乱れを、その青年の声がかき破ったのは、その瞬間だった。

「あ、あった!蕾(つぼみ)が付いてる」

まさにそれは、彼の声。
甘く優しい、アンソニーの声!
聞き違えるはずはない。
信じられないことが現実となって、キャンディは耳を疑った。

(やっぱりアンソニー?あなたなのね)

その直後、待ちわびた瞬間がやってきて、青年はゆっくり彼女のほうへ振り返る。
運命の扉が開いた。


ああ、この顔・・・夢にまで見た愛しい顔。
アンソニー!
紛れもなくアンソニー。

金色の髪、深いブルーの瞳、優しい笑顔──彼が死んでしまったとき、何度この姿に恋焦がれただろう。
もう一度だけでいいから、会いたい。
幾千回、幾万回、かなわぬ願いを神に祈ってきたろうか。
そのアンソニーが今、目の前にいるのだ。
抱いていた不安はどこかへ消え去り、キャンディは「アンソニーが生きていた喜び」を噛みしめ、全身を震わせた。
頬には熱いものが伝って、地面へ落ちる。
後から後からとめどなく。

(アンソニー、アンソニー、どんなに会いたかったか!これは夢じゃないわよね。目を開けたら消えてしまう・・・そんな哀しい夢じゃないわよね?)

溢れ出る涙を気にも留めず、恐る恐る目を開けてみる。
目の前に広がっていた映像が、跡形もなく消え去っていないように、ただそれだけを祈りながら。
するとどうだろう、果たして「彼」は、まだ自分の前に存在している!
夢うつつではなかったことに感謝しながら、キャンディは目を凝らしてその姿を追う。

約五年の歳月は、彼を成長させていた。
運命の日、最後に見た姿は、まだあどけない少年の面影を残していたが、目の前にいる人物から、幼さは消えている。
成長して大人びたこともあるだろうが、少しやつれただろうか。
彼の顔からは、「疲れ」の色が出ているような気がした。

清潔感溢れる、手入れの行き届いた真っ白いシャツ・・・襟元のボタンは無造作に外され、半ばほどけた黒いシスターリボンが、気だるそうにぶら下がっている。
まくり上げた袖からは、白くてたくましい腕がのぞく。
そしてシンプルな漆黒のズボン。
決して凝っていない、あっさりした服装なのに、それがかえって彼の上品さを際立たせていた。
陽に透けるブロンドも、モノトーンの衣服に小気味良いアクセントを加えている。
横顔の美しい青年だ。

それにしても、アルバートに似ている。
世の中に、こんなにも似た面差しがあるのだろうか、と驚嘆するくらい。
やはり血は争えないものだ。彼らは、叔父と甥の間柄なのだから。

(アンソニー、話したいことが沢山あるのよ。もうアルバートさんやエルロイ大おば様には会ったの?今までずっと、どこで暮らしてたの?私のこと、覚えてる?)

声にならない声が、さざなみのように踊ると、懐かしいレイクウッドの日々が蘇った。
胸が苦しい・・・。
真珠の粒が、また頬を濡らす。
泣いてはいけないと言い聞かせ、唇をギュッと噛みしめたが、真珠たちは主人の言葉など聞いてはいない。
好き勝手に頬を滑り降り、いつの間にか、顔はグショグショになっていた。

(こんなの見られたら恥ずかしいわ。何年ぶりかで再会したんですもの、とびきり奇麗なところを見せなくちゃ)

健気(けなげ)な願いを聞き届けたかのように、暖かい五月の風は、涙で光る頬を優しく撫でていく。
爽やかな感触が心地よい。


取り乱すキャンディを見ていた青年は、強い衝撃を受けたようだった。
どう話しかけていいかわからないが、何かを感じたように見えた。
それがなんなのか、このときの彼にはわからなかったのだが・・・。

「お嬢さん、泣かないでください」

はにかんだ顔で、彼はやっとキャンディに声をかける。

(お嬢さん?)

自分の名前をすぐ呼んでもらえないことに、愕然とした。

(どうして?どうして「キャンディ」と言ってくれないの。私のことなんか、もう忘れた?)

なぜすぐにファーストネームで呼んでくれないのか、懐かしがってくれないのか、胸にはもどかしい疑問が、いくつも湧いては消える。

(あんなに優しくしてくれたじゃない。誕生日にはスイートキャンディをくれたわ。いつかきっと、ポニーの丘に一緒に上ろうって約束もしてくれた。そして頬にキスも・・・。みんな、みんな忘れちゃった?私はこんなにはっきり覚えてるのに)

運命のいたずらは、落胆するキャンディに、更なる追い討ちをかける。
背後から若い女の声がしたのだ。

「エドワード、あまり長いこと外にいては、体に障(さわ)ってよ」

(エドワード?どうしてそんな名前で呼ぶの。彼の名前はアンソニーよ。それとも、やっぱり別人で・・・)

驚いて向けた視線の先には、ハッと息を飲むほど魅力的な女性の立ち姿があった。
年の頃は、キャンディより少し上だろう。
亜麻色の巻き毛にヘーゼルの瞳。
意志の強そうな美人だった。
ラベンダーの瀟洒(しょうしゃ)なドレスをまとい、日傘をさして微笑む姿は、天使のよう。
肩まである髪を、服と同色のリボンで束ねただけなのに、豪華な羽飾りの付いた帽子より艶やかに見えるのは、美しさのせいか。
キャンディは本能的に胸騒ぎを覚えた。

「あの・・・あなた方は?」

わずかに残っている勇気の片鱗を呼び起こし、震える声でキャンディは言った。
すると女性の声が、またも心を大きく揺する。

「私どもにお構いなく。あなたには、関係のないことですから」

顔に似合わない冷たい反応をぶつけられ、キャンディの胸には嵐が吹き荒れた。
が、ここで引いてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
せめて真相だけでも確かめたいと、消え入りそうな勇気に、最後の火を灯(とも)した。

「あの、実はそこの男性・・・私の知ってる人によく似てるんです。いえ、似てるんじゃなくて、もしかすると本人かもしれません。エドワードさんっておっしゃるの?」

まだ涙の乾いていない光る頬、潤んだ緑の瞳・・・。
青年は困ったような顔をして、遠慮がちに見つめた。

「君が知ってるその人は、なんていう名前ですか?」
「アンソニー・・・」

一瞬、彼の眉が動いた。
気(け)取られないようにしているが、隠しようのないわずかな変化を、キャンディは見逃さなかった。
だが、すぐそばに寄りそう美人は、迷惑そうにジロっと見返す。

「アンソニーですって?そんな名前で呼ぶのはやめてくださらない?彼はエドワードよ。人違いをしてらっしゃるんだわ、失礼な方ね!」

激しい言葉を叩きつけられ、二の句が継げないほどキャンディは打ちのめされた。
それがわかったのか、青年は連れの暴言を制した。

「レイチェル、言いすぎだよ。ちょっと間違えただけだろう?君のほうこそ、失礼じゃないかな」

そこまで言われては、引き下がるしかない。
レイチェルと呼ばれたその女性は、不満げな顔をしたままキャンディに背を向け、「さあ、もうお屋敷に入りましょう。外にいると、ろくなことがないわ」とエドワードの腕を引っ張る。

(アンソニーじゃなくてエドワード?それに、レイチェルって誰?ねえ、その奇麗な人は、あなたのなんなの?)

頭が真っ白になる。息が苦しい。
そういえば昔、こんな空寒い気持ちで、悶々と過ごした日があった。
あれはシカゴのホテル。
訪ねていった自分を出迎え、追い返したのはスザナ。
ああそうだ、この二人はテリィとスザナに似ている。
手を取って欲しいのに、抱きしめて欲しいのに、他の影がどこまでも邪魔をして、近づかせてもくれない。
キャンディは益々混乱して、何も考えられなくなった。

ふと見ると、レイチェルに手を引かれ、バラの門を離れようとしているエドワードの後ろ姿が。
今見失ったら、もう会うことはないかもしれない──そんな思いに駆られ、キャンディは絶叫した。

「アンソニー!!」

振り返った彼は、懐かしそうな目で一言つぶやく。

「スイートキャンディ」

瞬間、キャンディの心臓ははじけ、ドクドクと大きな音を立て始めた。
時が還(かえ)る。
心は遙か彼方へ過ぎ去った、愛しい空間へ舞い戻っていく。
彼が発したほんの一言が、二人を隔てる五年の歳月を、瞬時に埋め尽くしていく。
理由などない。ただ魂が求めるから。
とうに失ったはずのまぶしい存在が、今こうして目の前に現れたのだ。
もしかしたら、まやかしかもしれない・・・
それでもいいと、キャンディは思った。
震える体が、アンソニーに対する偽りのない想いなのだから。
どうしようもない衝動をおさえきれず、少し怖くなって拳を握りしめた。

(やはりあなたは・・・そうなのよね?そうなんでしょ?だってスイートキャンディを知ってるのは、アンソニーしかいないもの)

彼はその先を続けたそうに見えたが、先を急がせる連れに引っ張られ、逃げるように屋敷の奥へと引っ込んでしまった。




バラの門での出来事が、あまりに衝撃的だったので、キャンディは大事なことを忘れてしまっていた。
仕事に行かなかったのだ。
遅刻しそうだったから、近道したのに。
そこで大変な巡り会いがあったから無理もない。
その日はやむなく欠勤した。
動揺はまだ続いている。
今やもう、頭は「彼」のことでいっぱいになっていた。

(あの人はアンソニーなんでしょ?別れ際に「スイートキャンディ」と言ったわ。でも、なぜすぐ「キャンディ」と言ってくれなかったのかしら。私のことがわからなかったの?)

「お嬢さん」と呼ばれたことも、ひどく気にかかっていた。
それに、何かよそよそしい空気が漂っていたのだ。
キャンディが感激したほどには、アンソニーにとって、この再会は大した出来事ではなかったのだろうか。

そして最大の疑問──

(あの亜麻色の髪の奇麗な人は、誰?アンソニーを気づかっていたけど、どういう関係なのかしら)

彼女のことを考えると、心臓をえぐられるようだった。
いわれのない不安と焦りが、次から次へと襲ってくる。
まるでスザナ・マーロウの幻だ。
勝ち誇った顔で、テリィに寄り添っていたスザナを初めて見たときと同じ感覚。

「お願い!今度だけはもう、私を哀しくさせないで」

思わずそうつぶやいた。 



あの日以来、考えるのはアンソニーのことばかり。
仕事をしていても上の空。
同僚たちが心配して、「キャンディ、大丈夫?何かあったんじゃないの」と言い出す始末。

あれから何回バラの門へ行っただろう。
アンソニーにつながる思い出は、全部封印したはずなのに、タガがはずれて、どうにもならなくなっている。
だが不思議なことに、何度足を運んでも、バラの門でアンソニーを見かけることはなかった。
亜麻色の髪の娘も。

あれは春の日の夢だったのだろうか。幻だったのか。
アルバートへの複雑な想いを持て余している自分が作り上げた、一瞬の現実逃避だったのだろうか。
キャンディは様々な推量を持ち出して納得しようとしたが、空しいだけだった。
夢や幻として割り切るには、リアルすぎた。

(もう一度アンソニーに会いたい!神様、お願いです。彼に会わせてください。だって私には、確かめなきゃいけないことがあるから・・・)


アンソニーが生きていたら、どんなに嬉しいだろう。何度そう夢に見たことか。
彼が死んでしまったとき、毎日毎日泣き暮らした。
でも時が経つうち、自らの手で「夢」にピリオドを打ったのだ。
アンソニーの面影は、いつしか心の片隅に収められ、キラキラ輝く思い出に変わった。
キャンディはそれを知っていた。

(あなただけを想うことは出来なかったの。そんな私を、彼はどう思うかしら)

アンソニーの死後、テリィを好きになったことが、少しだけ恨めしかった。
今頃出て行って、「会いたかったの」と言う勇気もない。
ましてやあの娘が、アンソニーの恋人だったら!
今更自分には、彼と話す資格などないのでは?──そんな気さえする。
不安はキャンディの心を鷲づかみにした。

こんなに心を突き動かすものの正体は、なんなのだろう。
懐かしさか、同情か、それとも・・・。
答えを出せないまま、来る日も来る日も、バラの門に想いを馳せた。



自分一人で探し当てるには限界を感じ、キャンディは周りに助けを求めることに決めた。
かと言って、すぐにアーチーやアニーに聞いてみるのは気が引ける。
何か大がかりな秘密がありそうだからだ。
騒ぎ立てて、アンソニーに迷惑がかかることだけは避けたかった。
だからまず、使用人たちに、それとなく「噂」を聞いてみることにした。


「ブロンドの男性なら、何度かお見かけしました。一年ほど前からでしょうか。ごくたまに、バラ園で手入れをされてます。言われてみると、ウィリアム様によく似ていますね。美しいお連れ様といつも一緒で。バラいじりをしながら、楽しそうに談笑してましたよ」

そうだったのか──確かに使用人たちの目には、留まっていたのだ。
バラ園で手入れをするアンソニーと、そのかたわらには、必ずレイチェルという娘が。
キャンディがレイクウッドを「封印」していた間に、何かが動き始めていたのだ。


「あの・・・その男性、もしかして、アンソニーっていうことはないでしょうか」

キャンディの口から意外な名前が飛び出したので、使用人は目を丸くした。

「アンソニー様ですって?エルロイ様が可愛がっておられた、あのアンソニー様ですか?失礼ですが、もうとっくにお亡くなりですし。それにアンソニー様は、まだ少年でした」
「彼と話をしたことはありませんか?」
「いえ、一度も。もし話したら、声や言葉づかいで、アンソニー様かどうかわかったんですがね」

キャンディが突飛なことを言い出したからおかしくなったのか、彼は冗談交じりに言った。

(こっちは真剣なのに!)

頭に来て、キャンディは思わずムッとする。

「あ、これは失礼を。考えてみたこともなかったので。あの青年がアンソニー様だなどと」

恐縮する使用人に、「どうぞ気にしないでください」とキャンディは会釈した。


気になることが沢山ある。
どうしてたまにしかアンソニーは現れないのか。使用人たちの誰とも会話を交わさないのか。そしてあの娘は、やはり恋人?

不安はとめどなくあふれ出た。
この気持ちを、どうやって鎮(しず)めたらいいだろう。
もうためらってなどいられない。
キャンディは自分を奮い立たせる。

(アルバートさんに聞くしかないわ。彼しか真相を知っていそうな人は、いないんだもの)




それから程なくして、キャンディはシカゴを訪れた。
商談のため、ここ数週間、アルバートが本宅へ帰っていたからだ。
連絡を受けた彼は、待ちわびたように「大切な養女」を出迎えた。

「よく来てくれたね、キャンディ。仕事はうまくいってるかい?」
「え?ええ、まあ」

いつもと違い、すっかり元気のない顔を見て、アルバートは心配になった。

「どうした?君らしくないな~。久しぶりにかわいい笑顔が見られると思って、楽しみにしてたんだよ」
「ごめんなさい。もしかして、がっかりさせちゃった?」
「まさか!そんなことないさ。でも曇り顔の理由を聞かせて欲しいな」

キャンディは下を向いたまま、もじもじしている。
なかなか核心に触れられず、ジレている様子が伝わってくる。

「僕にも言えないこと?」

かがみこんだ彼の青い目が、間近に迫った途端、観念して彼女は切り出した。

「実は・・・アンソニーにそっくりな人と会ったの、バラの門で。私はアンソニーだと信じてるんだけど。連れの女性がいて、その人は彼を、『エドワード』って呼んでたわ。ねえアルバートさん、あの人が誰だか知ってる?」

急にアルバートの顔がこわばった。
今までの上機嫌は消え去り、どんより曇った表情が浮かぶ。

──キャンディの想いが誰にあるのか、ついに審判が下るか?──


「バラの門に行ったのかい?」
「ええ」
「でも君は、あれほどあそこへは行かないと言ってたじゃないか。なのにどうして」
「仕方なかったの。イライザのせいで、仕事に遅れそうになっちゃったから近道して」
「とうとう『彼』を見たか」
「アンソニー・・・なのね?」

真剣そのものの眼差し。緑の目は大きく見開かれ、今にも食いついてきそうだ。
アルバートは苦しくなった。

「もしそうだったら、どうする?」

答えはないが、代わりに涙があふれ始めた。
そのとき、はっきりわかったのだ。
彼女の言葉を待つまでもなく、はっきりと。

キャンディは今でも、アンソニーを愛してる!
会えなかった年月など吹き飛んでしまうくらいに、深く激しく。

(こんなにあっさり答えを出されるとは、思ってなかったよ。アンソニーがいなくなってから、もう五年近く経つ。あれからいろいろあったね。君はテリィを愛し、辛い別れを経験した。キャンディが節目を迎えるたびに、僕はそばにいて、支えたつもりだ。だからほんの少しでいい、僕の存在が君の心に刻まれてることを願ってたよ。養父でもなく、兄でもなく、「愛する男性」としてね。でもその思いは、かないそうにないな)

あきらめたように、アルバートは大きなため息をついた。

「ついにエドワード、いや、アンソニーを見てしまったか。正直言うとね、いつかこの日が来るのは、当然のことだったのさ」

やっぱり!
やっぱりあの青年は、アンソニーだったんだ。
アルバートが認めたのだから、もう間違いはない。
瞬間、エメラルドの瞳から、堰(せき)を切ったように熱い滴(しずく)が流れ落ちた。

「その涙を見ればわかるよ。君はまだ、彼を忘れてなかったんだね?」

キャンディは黙ったまま、何度もうなずいた。
嗚咽(おえつ)をこらえるのがやっとだ。
アルバートは小さな肩をポンと叩き、そっと微笑む。

「良かったじゃないか、また会えて」
「ええ、ええ」
「初めに何を考えた?」
「ホントにびっくりしたわ。だってアンソニーは・・・」
「そう、アンソニーは落馬して死んだことになってるからね。それなのに、なんで生きてるのか、エドワードなんて呼ばれてるのか、そして一緒にいた女性は誰?君が聞きたいことは、よくわかってるよ」

アルバートはすべてお見通しだ。
胸のうちを見透かされたようで、キャンディはばつが悪かった。
それと同時に、「この人は、やはり大人なんだ。私がどんなに背伸びをしても、とてもかなわない」と思い知らされた。

一方アルバートは、心に降る雨を必死でこらえていた。


やっぱり僕の想いは届かなかったようだね。
いや、そんなのは初めからわかってた。
ただ、「もしかしたら・・・」っていう夢を見ただけなんだ。
幸福な夢だったよ。短い間だったけど。
そしてアンソニー、完敗だ。
まだ少女だったキャンディに、初めて恋の味を教えた君。
そのときめき以上のものを、僕は彼女に与えてやることが出来なかった。
どんなに愛したつもりでも、優しく支えたつもりでも、初恋の魔力には勝てなかった。
それだけ君の気持ちが本物だったってことさ。
だから、男らしく身を引く。
叔父として、今までどおり見守っていくつもりだ。
勿論、キャンディのこともね。


用意していたプロポーズの言葉を、心の奥底にそっと沈めた。


「エドワードってのは、アンソニーのミドルネームだよ。あまり知られてないけどね。いろいろおおっぴらに出来ないんで、今は『エドワード』で通すように、僕が指示を出した。だからレイチェルもそう呼んでるし、アンソニーも承知してる」

先程の優しい笑顔とはうって変わって、暗く沈んだ声がつぶやく。

「恐らくアンソニーは、君を見てもキャンディだとわからなかったろう。彼は今、記憶をなくしてしまってるから」
「・・・!!」

たちまち青ざめていく愛しい人を見て、アルバートは誓った。

(キャンディ、そんな顔しないで。僕がそばにいるよ。アンソニーが記憶を取り戻すまで、君と一緒に苦しんであげるから!いつだって味方だ。恋はあきらめたけど、君が大切な娘であり、友人であることは、これから先もずっと変わらない・・・)

衝撃的な発言にショックを受け、キャンディは返す言葉が見つからなかった。

(アンソニーが記憶をなくした!?そんなバカな!でもそれならなぜ、私のことを「お嬢さん」と言ったのか、納得できるわ)

本物のアンソニーなのに、自分を見てもわからないのだ。
彼にとってもう、キャンディス・ホワイトは、特別な存在でなくなったのだろうか。

「でも・・・」

しぼり出すような声が続く。

「別れ際に、『スイートキャンディ』と言ってたわ。知ってるわよね?昔アンソニーが私にくれたバラの名前なの。真っ白で、真ん中がうっすらグリーンの」
「知ってるよ」

遠い日の思い出に、また涙がこみ上げる。

アンソニーがスイートキャンディをくれた日──それが私の誕生日!

二人だけの秘めごとが、淡く静かに蘇ってきた。
切ない・・・

「アンソニーは、君を見て何かを感じたんだろう。うっすら残っている記憶の断片が、『スイートキャンディ』と言わせたのさ」

アルバートの優しい声が、乾ききった心に染みとおっていく。
少しだけ癒された気がした。
だから思い切って、もう一つの質問をぶつけるしかないだろう。
答えによっては、その場で倒れてしまいそうな、致命的な質問だが。

「彼と一緒にいた女性は誰?」

青い瞳に翳(かげ)りがさした。
その微妙な変化をキャンディは見逃さなかったが、逃げるわけにはいかない。
覚悟を決め、答えを待つ。

「彼女はレイチェル・プレスコットといってね、ニューヨークから来た看護婦だよ。ずっとアンソニーの世話をしてもらってる」

看護婦?ずっとアンソニーの世話?
どういうことだろう。
アンソニーは、どこでどんなふうに生活してきたのだろう。
頭には次から次へと疑問が浮かんできて、益々混乱してしまった。

「思い切って言うよ。君が知りたいのは、もっと別のことだろ?つまりアンソニーとレイチェルは、恋人同士なのかってことだよね。残念ながら、僕にもわからないんだ。確かに初めは『患者と看護婦』だったろう。でもレイクウッドへ来て、二人の関係が変化したかもしれない」

最後の言葉は、キャンディの心臓にグサッと刺さった。
レイチェルはアンソニーを愛しているのだろうか。そしてアンソニーも・・・。

「きつね狩りのあと、何が起きたか知りたくてたまらないだろ?こうなることは、わかってた。アンソニーを見つければ、君は動揺する。そしてアンソニー自身も、静かな暮らしが出来なくなる。だからみんなが幸せでいるために、しばらくそっとしておきたかったんだ」

夢うつつをさまよっているような顔つきのキャンディ。
目の前で話されていることが、にわかには信じられないのだろう。
無理もない。
アルバートは、穏やかな声でこうしめくくった。

「アンソニーだって、いつまでも逃げ隠れするわけにはいかないしね。彼は記憶を取り戻す必要がある。そのためには、キャンディの力が必要だと思った。だから僕と大おば様で考えて、君をレイクウッドへ呼び寄せることにしたんだ」
「大おば様?」
「そう。大おば様は、アンソニーに昔を思い出して欲しくて必死なのさ。ニューヨークにいた二人を、ここへ呼ぼうと初めに提案したのも、大おば様だ。去年の夏にね」
「じゃあ、彼はそれまでずっとニューヨークにいたの?」
「うん」

アードレー家から遠く離れたニューヨークで、アンソニーが暮らしていたなんて!
なぜそんな必要が?
本宅のそばの大病院で看護すれば、どんなにか安心だったろうに。

「大おば様のところへ行こう。僕一人で打ち明け話をするには、少し荷が重すぎる。君が見つけた以上、ごく近親者にアンソニーのお披露目をやらざるを得ないだろうし」
「お披露目?」
「そう。アーチーやニール、イライザにも知らせなきゃいけないってことさ。アンソニーは健在ですってね。きっとみんなびっくりするよ。今の君みたいに」

そこまで言うと、アルバートは大おば様の部屋へ行こうとキャンディを促した。
不安で胸がドキドキする。
これから、どんな真相を聞かされるのだろう。
すべてを受け止める勇気があるだろうか。
キャンディは震える心と闘いながら、長い廊下を歩いていった。
エルロイの部屋へ通じる、長くて暗い廊下を・・・。