最近山口百恵さんの歌をよく聴いている。

一番好きなのは「夢先案内人」という曲で、夢とうつつのあわいを柔らかく描く歌詞が素敵な曲だ。何度も聞くうちにふと、今まで自分が歌だと思っていたものとは根本的に違うと気づいた。

 

山口百恵さんの歌を聴いて、歌とは声を楽しむものなのだと思ったのだ。

初めて、そんな風に思った。

今まで歌とは、大きな音量や幅広い音域、メロディラインを正確に捉える技術で聴かせるものだと思っていた。

声を加工したものが歌であり、そこに必要なのは技術なのだと。

 

もちろん山口百恵さんの歌はとても上手なのだけれど、

それ以上に声をそのまま生かしたままの歌であることが凄い。

そんな風に聞こえる歌を歌えることが凄い。

 

歌というのは喋るのとは違って、普段出さない音階を普段出さない音量で発声する。

だからどうしても喉にも顎にも顔にも、体全体にまで、喋るのとは別の力が必要になる。

体で声を加工しているイメージだ。

それがその人らしい歌になっていればいいのだけれど、わたしの場合はどうだっただろう。

別の誰かみたいに歌うことを無意識に求めていたような気がする。

 

声。

人間から出る音色。

わたしから出る音。

一番良く聞いているはずの音なのに、わたしはその音をよく知らないし、好きかもわからない。

わたしはわたしから出る音にもっと耳を澄ませてみたい。

自分から出てくる音、そのままの、そういう歌を歌ってみたい。

 

山口百恵さんの歌を聴いていて、そんなことを考えました。