徒然に書こうと思う。
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一個前の日記だったり最近の日記で、今の自分が疲弊していることを書いてきた。
その程度のことで軟弱な!と思われるかも知れないが、まぁ、それはもう・・・「すんません」と言うしかない。
常にわたしはわたしであって、自分以外の視点を経験することが出来ないので、疲れたなぁと思ったらそれが全てなわけです。
当たり前のことをいいました。
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そんな日々を過ごす中でふと思うのが、
あんまり色んなことの当事者になるのはしんどいなぁと言うこと。
もちろん自分の人生においては、当事者になるのは当たり前です。
家族のことや、仕事や、やらなければならない諸々について。
負うべき責任はちゃんと背負うべき。と思ってます。
だけど、だからこそそれ以外のことで当事者になるのはしんどいです。
それを一番顕著に感じるのはSNSです。
誰もが発信出来るからこそ、誰かが何かを発信している時に簡単に当事者になってしまう。
特に、その発信が「正義」で「切実」で「拡散」を求めている時。
わたしはそういう投稿を目にすると、喉元に刃を突きつけられているような気分になってしまう。
伝えること、受け取ること、賛同すること、批判すること、あらゆる発信が簡単すぎて。
全ての事柄について考える間も無く当事者にさせられてしまう。
でもまぁ、よくよく考えてみれば、インターネットの中、指先一つで出来る「当事者性」にどれほどの重みがあるのだろう?とは思うのだけど。
分かってはいても、小さな積み重ねが徐々に重みを増していくのは確かだ。
SNSはまぁ、距離を取れば大丈夫なんですけどね。
そんなわたしだから、わたしは自分の好きなこと、好きなものに対しても、出来るだけ当事者にはなりたくないのです。
積極的に関わりたくない。
当事者になりたくない。
なぜなら、当事者になってしまうと「欲と責任」が生まれるから。
自分が関わったものには、幸せであって欲しい。それは大きな欲望だと思っています。
そして自分が関わったからには、その行動に対する責任も生まれる。
「欲と責任」が大きくなればなるほど、純粋でシンプルな「好き」という感情だけではいられなくなる。
それが嫌なんです。
ほんと、消極的だとは思うんですけど。
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自分の人生で、本当に好きだと思えるものにいくつで会えるだろう。
そう考えると、そんなに沢山はないと思うのです。
わたしにとって「好き」という感情は溢れ続ける湧き水のようなものではなく、
たった一度見つかるかどうかの、希少な結晶のようなもの。
だからこそ。
自分が欲深く重たい性格だと分かっているからこそ、
わたしはずっと傍観者であり続けたいと思う。
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わたしが当事者として責任を負えるのは、目の前に存在している者に対してのみ。
目の前の存在に対しては出来るだけ「いいひと」ぶりたいなぁとは思うけど、それだって力がなさ過ぎて全然うまく行かないわけですが。
この世の全てに責任を負うことは出来ない。
出来ることしか出来ない。
だから、傍観者でいさせてくれるようなコンテンツや、そういう世界が好きなんだと思います。
それはひどく優しい世界だと思うのです。
だから自分も、誰かに対して当事者になれとは、言わないようにしようと思う。
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疲れているのだろうなぁ、多分。
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わたしは自分が持てるだけの「欲と責任」を背負いながら、
なんとか生きていきます。
それはそれで、結構楽しい世界だってことも分かっているのです。
欲も、責任も、誰かとつながっている証だからな。
ほんと、それはそれで!という感じ。
全てに対して「傍観者」になってしまったら、それは幽霊と変わらないもの。
お化けの世界は楽しそうだけど、わたしにはまだ早い。