●概要

カッバーラー。
いくつか存在するユダヤ教神秘主義の1つであり、秘教的哲学体系たるそれは、

巷間もっとも人口に膾炙したものの1つと言えるだろう。

長い歴史の中で発展・深化し、ことに中世ヨーロッパにおいてはヘルメス学と結びついた結果、それは「ルネサンス神秘主義」として西欧における神秘主義の中核的存在となっている。

もっともそれは、原義たるカッバーラーとは大きく異なっており、19世紀後半以降は全くの別物といって良い。

スピリチュアル界隈にては、これらの経緯を知らぬがゆえに、こじつけや孫引きが横行しており、時折莫迦げた論を目にすることもある。

 

多様性とは実に便利ないいわけだ。


その起源は、あまりにも漠然としており明確には断言しえないのだが、少なくともシュメールやバビロニアには関係は無い(笑)。


およそ3世紀ごろには「セフィロート」の語を文献に見ることが出来るが、

その時点では曖昧なものであり、今日において知られる体系の確立は12世紀、

最古の文献とされる「セーフェル・ハ・バーヒール(清明の書)」をまたねばならない。

セフィロートの樹。

10のセフィロートとそれらを結ぶ径(パス)からなる相互関連性と、

そのダイナミズムによって「世界」を顕すそれは、静的に捉えるならば「曼荼羅」であり、

動的に捉えるならば「大いなる生命の戯れ」となる。

 

そのどちらもが「真」である。


カッバーラー。
 

それは「世界の成り立ち」を体系的に究明せんとした先人たちの営為の産物であり、
合理化その顕れであろう。
ここでいう合理化とは「事象に対し、それが『あるべき世界観』と矛盾しない範疇において、
これに説明を与え統合を図る」という意味となる。

カッバーラーとは数多ある「神秘主義的思想体系」の1つ、「流出論」の1つであって、
唯一絶対の真理などでは無いと言う点に留意が必要である。


繰り返し言う。

カッバーラーとは「ひとつの考え方」でしかない。
いかに幻惑的美に彩られた論であろうと、人が「語りうること」は不完全なものでしかない。

新芽が生えいずるその瞬間の色彩
咲き出でたる花びらの産毛の柔らかさ
蝶が羽化した刹那の危うさ

そのようなものを人は言葉で伝えることができない。
ただ感得するのみである。

真理を「語る」ことはできない。

ゆえに「異なる体系」を偽と断じてはならないのだ。
頂は1つでも、そこへと至る道はいくつも存在する。