かつて 母国アメリカで、
スポーツ選手を 夢見ていた青年は、
B29に搭乗し、
広島市への 人類初の、
原子爆弾投下を 目の当たりにしました。
その3日後の 8月9日、
「 ボックスカー 」と呼ばれるB29の
機内に 青年は 搭乗していました。
第1目標である 小倉市に
煙が あがったため、
長崎市を 原子爆弾投下の、
第2目標に 定めました。
このとき B29の燃料が、
ぎりぎりの状態でした。
分厚い雲に 守られた長崎市の街。
ほんの一瞬、
雲間が切れ 長崎の街が、
B29の機内から 確認できた時、
青年は 原子爆弾投下レバーを
引きました。
1945年8月9日、
この日は この青年の
27歳の誕生日でした。
青年は みずからの誕生日に、
父母に慈しまれたであろう、
その手で レバーを引き、
7万4千人の尊い罪の無い生命を、
1発の 原子爆弾で 奪ったのです。
私の父は 1945年8月9日、
長崎市の自宅に 居ました。
11時ごろ ピカッと光り、
その後 聞いたこともないような
どおんという轟音が 轟いたそうです。
父は 自宅の 窓ガラス越しに被爆しました。
当時 17歳でした。
被爆から 45年後、
原子爆弾の放射能を浴びた父の、
肺に 約8センチの癌がみとめられ、
手術不可能と言われました。
そして 入院の49日後に、
父は 息をひきとりました。
父が 亡くなる寸前まで、
私は 父の足をさすり続けました。
『 焼き場に立つ少年 』を撮影した、
オダネル氏は、
日本への原子爆弾投下は、
『 間違っていた 』と、
証言しました。
1945年8月9日 11時2分に、
原子爆弾を投下され、
焦土と化した 長崎市の土。
しかし その1か月後、
焼けつくされた 長崎市の土から、
約30種類もの 草花が、
生えてきたそうです。
アメリカのミズーリ州に生まれ、
スポーツ選手を夢見た青年は、
みずからの27歳の誕生日に、
長崎の罪なき命を
一瞬にして 奪い去りました。
のちに 彼は、
母国から 英雄扱いされ、
長崎原子爆弾投下は、
「 最高のスリルだった。」と
証言したそうです。
人間が つくりだした戦争、
そして 核兵器という
人類最大の過ちは、
この 27歳の青年を、
悪魔に 変えてしまった。
そう 私は 思います。
しかし それは
もしかしたら、
わたしのなかにもある
すべての人のなかにもある。
だから 戦争は 捨てねばならない。
平和は 作らねばならない。
そう 私は 思います。
私の父は 生前、
「 アメリカを恨んだことは無い 」と、
私に 言いました。
そして 父は アメリカに 旅をして、
「 自由の女神が見たい 」と、
話していました。
きょう 2020年8月9日、
世界中をパンデミックに陥れている、
新型コロナウィルスの影響で、
長崎市平和記念公園で 催される
被爆75年の式典は、
ソーシャルディスタンスを保つため、
約500席のみで 開催されるそうです。
新型コロナウィルスの影響で、
故郷へ 帰省できない私は、
父を偲び、
原爆で苦しみ亡くなった方々を偲び、
平和をねがい、
原子爆弾投下時刻の 午前11時2分
1分間の 黙祷を 捧げます。
白き鳩 青き空へと 翔びたてり
無音の1分 8月9日
橘 まゆ
合掌