戦後70年短歌 | あいらぶありす

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パパ & はすなこと橘まゆの日々のブログです♪




「ふるさとの父の遺骨と眠るのは
70年前の 放射能なり 」


私の実家は、長崎です。

母の2人目の夫となった人は、

17歳の時、

1945年8月9日 11時2分に

連合国アメリカのB29爆撃機が、

長崎市内に投下した 原子爆弾により、

被爆しました。

(グラウンドゼロより、1、5キロ地点)

幸い ガラスを隔てていましたので、

ケロイドはなかったそうです。

私が 小学生の時に、縁あって

母と 再婚し、私の2番目の父となりました。

その頃は、体調も良かったのですが、

父の中の放射能は、

しぶとく 生きていました。

胸が苦しくなり、仰向けで

眠れなくなり、病院に行った時は、

手術も治療も 出来ないくらいに

癌が 大きくなりすぎていたのです。

父の最期の言葉は、

「東京からきて、疲れたろう。
私に気をつかわず、休みなさい。」

でした。

焼き場で 拾った父の骨は

箸で つかめぬほど ぼろぼろと落ち

もろく 崩れました。

原爆の放射能は、

父の骨まで 侵食していたのです。



日曜日の昼間、私と父は、よく

庭の鯉を眺めながら、将棋をさしていました。

そのとき、よく 戦争の話を

してくれました。

「アメリカは、かっこいいよ。」

と、言っていたのが、

今でも 印象に残ります。

自分を痛めつけた敵国を、

父は 恨んでいるどころか、

あこがれていたのです。

そして、父は飛行機や船が

好きでした。

終戦になってから、父は、

船と小型機の免許を取得し、

自分でも 小さな船を持ちました。

小型機も、時々、借りて、

操縦していたようです。


父の姿が、いまの私に

語りかけるのは、

人や国を憎んでも、

なんにもならない、得るものが

何もないんだよということだと

理解しています。


長崎市内では、毎年、

8月9日は、学校の登校日です。

11時2分になると、長崎港中の船や

客船が、汽笛を鳴らし、

長崎中が 1分間、

原爆犠牲者を悼み、

黙祷を 捧げます。


そして、生徒たちは、

熱い体育館の中で、先生がたの

生々しい原爆の体験を

聴くのです。


熱い夏に 空を見上げると、

こんな平和な空を、

父は自分が操縦する飛行機で

飛びたかったんだろう、

そう、思います。



長崎市は、2015年8月9日、

原爆投下から、70年を迎えます。

父の名前も、被爆者名簿に

連なりました。

私を含む、被爆者遺族の悲しみが、

決して 無駄になりませぬよう、

祈ります。

「水飲めず 灼熱に絶えし 亡骸を
抱いて祈る 三度許すまじ 」



合掌