村松友視さんの著書「私プロレスの味方です」に、プロレスファンと言うだけで、周りからうさん臭い目で見られる・・といったことが書いてあったのを記憶しています。


今は、そういうことも少なくなったと思いますが、

何故、かつてのプロレスは、うさん臭いものとして

見られたのでしょうか?


それは、プロレスは、「八百長で、本気でやっていない。ショーだ!」というのが、かつての世間一般の見方であり、世間にとって、プロレスは、異質なもので、他に比類できないものであり、まだまだ時代が、多様さを認めることができなかったからだと思います。


実際、猪木対アリの試合をNHKがニュースで放送した時も、アナウンサーが「NHKで放送するまでもありませんが・・」と前置きをつけて放送されたそうです。


そんな中で、プロレスには、

猪木がいて、馬場がいて、鶴田がいて、藤波がいて、長州がいて、天竜がいて、タイガーマスクがいて、大仁田がいて、前田がいて、佐山がいて・・他沢山のレスラーが必死でプロレスをしていました。


そしてプロレスファンは、世間からうさん臭がられても、プロレスに引き付けられ、プロレスが大好きだったのです。


最近、妹尾武治さんの「未来は決まっており、自分の意思など存在しない。心理学的決定論」を読ませていただきました。


これを読み終えた時、「これこそプロレスだ‼️」と思いました!


この本には、自分の自由意思などない世界で、人はもがき苦しみ、自由意思という錯覚の中、人生を終えていくことが書かれていました。


人には、自由意思などない!


実は、最初にこの本のタイトルを見た時、私は、この本をうさん臭い目で見てしまいました。


それは、かつて世間がプロレスを見るような感じだったかもしれません。


否定こそしないものの、なんともうさん臭い、八百長論文のような印象を持ってしまったのです。


しかし、よくよく読んでみたら、これこそプロレスだと思ったのでした。


プロレスには、アングルがあり、その通りにやらなければ、レスラーとしてリングに上がることができなくなります。


つまり、結果が決まっていて、観客は、それを観察しているのです。 


最後の方にも書かれていますが、

結果は、すでに決まっているので、そこに自由結果は、ないのですが、解釈の自由は存在するのです。


これが重要だと思います。


心理カウンセラーの大嶋信頼さんは、「この世界に愛はない。」と言われていますが、それでこそ、愛を体験できるのに似ているように思います。


昭和の時代、プロレスファンは、真剣にプロレスを見ていました。


そして、期待が裏切られた時の怒りは、凄まじいものがありました。


特に、昭和のファンは、本気度が違いました!


それだからこそ、本気の感情を味わえ、カタルシスを解放でき、プロレスに引き付けられたのです。


私は、プロレスと

妹尾武治さんの「未来は決まっており、自分の意思など存在しない。心理学的決定論」には、何か共通点があると思いますが、うまく言葉にできません。


興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。


失礼します。