おはようございます。

”えごま”でございます。

 

早朝より失礼いたします。

 

今日は今読んでいるウ・ジョーティカ師(Sayadaw U Jotika)の

 “A Map of the Journey” をご紹介したいと思います。

 

これはテーラワーダ仏教の「ウィパッサナー瞑想」について、初歩から涅槃に至るまでの階梯を、豊富な具体例・経典への言及を交えつつ詳細に解説したものです。
瞑想のみならず、仏教一般にご関心のある方に、ぜひお読みいただければと思います。

 

入手先のリンクを貼っておきますのでご参考になさって下さい。

 

 

以下に一部を抜粋します。

 

― 引用開始 ー

ブッダについて学べば学ぶほど、
彼の本性、その清浄、その智慧について知ることになる。ブッダの諸徳性について、思
いを巡らせてみてください。心はその対象を反映します。例えば、何か私たちを不幸に
するようなものについて考えていれば、自然に私たちは不幸になります。心の幸・不幸
はその対象と、また私たちがその対象をどのように見るかによっているのです。愛する
誰かのことを考えれば、私たちは慈しみの情を育むことになり、愛を感じる。同じよう
に、ブッダについて考える時、その自由、その智慧、その平静、その清浄を考える時、
私たちの心には何が起こるでしょう? 類似の性質が起こってきますね。ですから、ブ
ッダについてもっともっと知っていくことは、とても大切なことなのです。
ブッダについて考える時、私たちは彼がもつ諸徳性の素晴らしさを認め、自身もそれ
らをもちたいと思います。そうすることで、心はそこに惹きつけられ、それは私たちの
到達目標となり得るのです。「私は自由に、平静に、賢明になりたい」とね。私たちは
ブッダにはならないでしょうが、これら諸徳性を一定程度育みはします。覚りを得た時、
私たちはある意味でブッダになる。己の分限に随った覚りを得る(アヌ・ブッダ)ので
すよ。

 

ブッダを師匠と認めた時に、
その清浄と智慧と自由が、私たちに道を示します。
「私はどこに向かっている?
私のゴールはどこだろう?」


ダンマ(仏法)ついても、同様によく考えてみてください。ブッダの教えた内容につ
いて熟考するのです。皆さんはある程度、瞑想を修してきていますから、ブッダの教説
が真実であることについて、一定の経験をもっているでしょう。あなたは、それが本当
であることを知っている。それがどこへ導くかを知っている。彼の教えは、聴従したり
信仰したりするようなものではない。それは盲信ではないのです。あなたはダンマを、
自ら発見することができる。それはとても実践的な教えです。このことを、よく考えて
みてください。ダンマを学び、瞑想を修することは、やる価値のあることです。私たち
は時に迷います。
「瞑想するべき?それとも出かけて何かをするべき?」。もしあなたが瞑想の価値を

本当に知っていれば、気晴らしや娯楽や楽しみに執着せずに、もっとたくさんの時間を

瞑想に割くことができるでしょう。瞑想することの利益については、いつも考えておく

ようにしてください。

 

瞑想にはやる価値があると本当にわかった時、
あなたは人生をそのために使うでしょう。
より多く与えるほど、より多くを得ることができます。
誠心誠意やってください!


これはあなたが何をやるにせよ、成功するためには必要なもう一つのことです。何か
を真心こめてやったとしたら、あなたは成功するでしょう。同じことを、もしいい加減
にやったとしたら、しばらくした後、進歩があまり見られないものだから、長いことや
っているにもかかわらず、どこにも行き着くことができていないと考えてしまうでしょ
う。あなたはがっかりしてしまう。何かをいい加減にやってしまえば、進歩に必要なだ
けの動機を育むことができず、そして進歩が何もないから、やっていることの価値を、
それ以上信じることができなくなるのです。
もう一つ必要なことは節制です。節制は自由の反対語だと考えるがゆえに、この言葉
を聞くのを嫌がる人たちがいることは知っています。ですが、それは真実ではありませ
ん。自由という言葉によって、何でもしたいことをするということを意味するとすれば、
それは本当の自由ではないのです。

 

自由の本当の意味は、何が役に立ち、
何が有益で価値があるのか、
何が健全で何が不健全なのかを知ることです。
そして健全であり善であり正しいものを選んだ上で、
それを真心こめて行うことです。

 

節制にはたくさんの意味がありますが、その一つは戒を守ることです。なぜ戒を守る
必要があるのでしょう? 在家の人には五戒か八戒。僧侶には二百以上の律があります。
最初に私たちが戒を守ろうとする時は、ひどく窮屈に感じられて、身動きする余地があ
まりないように感じます。何もできないのです!
心の訓練を続けてしばらくすると、
戒とともに生きることに慣れてきます。こうなると、戒を守るために更なる努力をする
必要はありません。実際のところ、それは私たちの本性になり、とても自由に感じるの
です。
戒を守らなかった時には、何が起こるのでしょうか? 殺したり、盗んだり、不倫を
したり、ドラッグを摂取したりしたら何が起こりますか?
その人には何が起こる?
戒を守らなければ、その人には自尊心がもてません。自然なこととして、私たちは内面
の深くで、何が適切なことで何がそうでないのかを知っているのです。私たちは誘惑に
負けてしまう。私たちは欲望に負け、怒りに負け、その他の感覚的な楽しみに負ける。
自身を節制しなければ、私たちは不適切なことをするのです。私たちは他者を傷つけて
しまう。他者を傷つける過程で、私たちは自分自身も傷つけます。他者を傷つけながら、
自分は傷つけない仕方などないからです。そんなことは不可能ですよ。
私はこのことに、ほんのささいなことから気づかされた経験があります。ある時、私
の寺院でのこと。その時は雨が降っていて、ドアの外には足ふきマットがあり、そして
小さな犬がいたのです(この犬のことを「彼」と呼ぶことにします。私にとって、犬は
人間のようなものなのですよ。彼らには意識があるし、それにとてもセンシティヴでも
ありますしね)。雨のせいで、彼は乾いたところにいたかった。私と同じようにです。
雨が降った時には、私は乾いたところにいたい。濡れたくはないですからね。この小さ
な犬は私のクティ(小屋)に上がってきて、ドアマットの上で眠る。外に出ようとする
たびに、彼がそこで寝ているものだから、私はドアが開けられず、時にとても腹が立つ
ことがあったのです。私はこの犬に、ここにやって来て寝てはだめだと、教えなくては
ならないと思いました。私がどうしたかわかりますか? バケツ一杯の水を持ってきて
ドアを開け、それを犬にぶちまけたのです。ただ彼に、ここに来たら濡れるということ
を教えるためだけに。そんなことをしていたら、突然、気づきがやって来て、私は自分
の心の状態を把握しました。
「私は何をやっているんだ?」。私は自分が、ある種の痛み
を感じていることに気づきました。私は、自分が善良で思いやりのある人間ではないと
感じていた。実際、私は冷酷だったのです。この感覚は、私をとても傷つけました。自
分が冷酷な人間で、思いやりがあって慈愛に満ちた人間ではないということは、とても
辛いことでした。我に返った時、私は自分が犬を傷つけていたことに気がつきましたが、
濡れたことで、彼は実際に傷ついたわけではありません。しかし私を最も傷つけたのは、
自身の安らぎと平静、そして自尊心を失ったことでした。
このほうがずっと有害なのです。様々な事例において、私はこのことに何度も繰り返
し気づかされました。故意には誰も傷つけなかった場合もあります。例えば、人が来た
時、あまりフレンドリーな気分になれず、その人に時間を割きたくないことがありまし
た。この人は何度も繰り返しやって来ましたが、私には彼に割く時間がない。だから私
は、出て行って彼を迎えることをしなかったのです。自分の心を調べてみると、私は、
もしそうする気があったなら、この人に時間を割くことはできたことに気がつきました。
数分ばかりのことなのです。しかし、私は自分の内側に、とても冷たいものを感じまし
た。愛がなく、親切でもなく、温かみもない。そのことを観察した時、私はそれを、と
ても辛いことだと感じました。人を無視するのはとても辛いことです。他者を承認して
おり、愛があって親切だと感じられないのはとても辛いことです。この種のことをする
たびに私たちは自尊心を失いますが、それはとても辛くて害のあることです。「ここま
で」というリミットを、設定しなければならない場合もあることは事実です。しかし、
そうする時には、理解と親切心をもってやらねばならない。冷たい心でもってやっては
だめです。

 

私たちが五戒を守らない時、
他者を自分自身と同様に傷つけるのです。
この戒は誰かに課されるものではありません。
それは人間の本性なのです

 

内面の深いところで、私たちは五戒を守らないことが不適切であり、有害であると知
っています。ある人は五戒を守っていないかも知れないけれど、内面の深いところで、
彼には持戒の人に対する尊敬の念があるのです。慈愛に満ちて、親切で寛大な人に対し
て、彼は尊敬と敬服の念を抱き、その人を評価する気持ちをもっている。
自尊心を失った時、私たちは自分を価値あるものと感じられません。自分を価値ある
ものと感じられなければ、どうなると思いますか?
もし何かをやったとしても、自分
がそれに値すると思えなくて、誠心誠意やることができない。いい加減にやってしまう
のですよ。自分に価値がないと感じる人は、本当に全力を出すことができないでしょう。
彼らは自分が何かをやっているふりをしているだけで、本当は違うのだと感じてしまう。
何かに自分が値すると感じることは、とても重要なことなのです。愛に、自由に、平静
に、深い智慧に、そして理解に値すると感じること。「あなたが至れるのは自己評価の
高さまで」。このことはとても重要です。
では、どうしたら自己評価を高めることができるのでしょう?
正しいことをする。そして間違ったことをするのを避けるのです。自己評価がきちんと

あれば、自信と自尊心ももつことができる。それによって、あなたは自分が良い人間で

あると思えます。良いことをし、良くないことをするのを避けた時、あなたは自分が良

い人間であると感じる。私たちは、正しい態度でもって、不健全なことをせず、健全な

ことをするように、自らを誠心誠意、鍛えていかねばなりません。動物も含めた、全て

の存在に対する慈しみの念を育てることは、心の栄養になって、たくさんのエネルギー

をくれるでしょう。
そうすることで、あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ、そして同時に、自分
が愛を受けるに値するとも感じるのです。自分がメッター(慈愛)に値すると感じるこ
と、何か善いものに値すると感じることは、とても重要です。それがなければ、瞑想す
ることはできません。この徳性を育てる行為を、どんどん行なっていってください。

 

ー 引用終了 ー

 

 

生きることすべてに氣づきがあるものです。
日々学習ですね照れ

今日は時間をとって久しぶりに瞑想をしたいと思います。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

それではまたお会いしましょうニコニコ

バイバイ