職場での自分、、
知人の前の自分、、
家族の前の自分、、
配偶者の前の自分、、
本当の自分を忘れてない? 何処なら出せる? 誰なら出せる?
職場の顔、友人との顔、家族に見せる顔、配偶者への顔、その中に
本当の自分の顔、素の自分はありますか?
親の前では良い子を演じ、学校ではいじめっ子、悪がきでは済まさ
れない事なのに、悲しいかな何処にでもある話しになりました。
会社は共同作業で利益を出し、会社の利益を出し、自分達の生活を
ゆとりあるものにするのが目的だから、我慢もあれば、妥協もあり
足並みを揃える事が、個の能力発揮より優先することも当然ある。
そう考えると、会社や組織が最も本音で生きにくい集団だろう。
『知人、友人の前の自分』
会社ほどでないが妥協や歩み寄りは当然必要だし、各々の家庭環境
によって相当な違いがあるだろう。 学生時代からの友人だとして
旦那の職種や収入によっては友達付合いが難しい? もっと言えば
旦那同士が同じ会社の上司と部下だったら・・・どうだろう?
友人知人も本音での付合いが難しい部類と言えるかもしれない。
あとは『家族や配偶者の前』これが駄目なら自分だけの時って事に
なるだろうが、人前で出せない自分、、、では意味がない。
せめて家族や配偶者の前では、家族全員が本音に近い感覚で過ごす
べき場所であり、最もそうであって欲しい場所が家庭だと思う。
ところが世界中の人間がそうなのか、日本だけなのか分らないけど
『外面(そとづら)が良い』という人は非常に多い。
自分、配偶者、兄弟姉妹を始めとした家族の中に外面の良い人って
いないだろうか? いる! 自分!? そんな人のほうが多い!?
実はこの感覚、僕には全く理解できない・・・
『外面が良いってなんの為? 夫婦や親子なら少しの我慢と内面(
これが僕の本音、これが我が心の言葉でもある。
たまに会って挨拶する近所の人や隣保の人、犬の散歩で会う人達、
或いは滅多に会わない親戚には、笑顔を振り撒き、挨拶をし、素の
自分ではない良い人を演じる・・・これってなんの意味がある?
愛想を振りまいて家に戻ると、無口、無愛想、横柄な態度に豹変、
なんで? どうして? やる事が逆だろ!? としか思えない。
いつも顔を合わせ、人生の多くを共有する家族だから、朝起きて
顔を合わせたら「おはよう」何かして貰ったら「ありがとう」と
笑顔と一緒に言葉を出せば、それを聞いた家族の心もほぐれる。
「コーヒー飲む?」「うん ありがとう」「あー旨い」と笑顔、
更に上手な人なら「お母さんの入れたコーヒーは、やっぱ最高」
たったこれだけで夫婦円満、平穏な家庭、親子関係が続くのです。
会話のある家族、一緒に遊べる家族、落ち着ける自宅を望むなら
外面ではなく『内面を良く』すべきだと思うけど・・・
僕自身5才まで母親の存在を知らずに育ち、15才で稼業が倒産
すると一家離散したので、家族と一緒に生活したのは10年間だけ
と短く、家族との縁が薄いせいか、家族は大切と考えてるようだ。
最も父親は家族が困った時の防波堤のようなもので、平穏な時は
存在感は無い方が良いが、一旦事が起これば頼もしい存在と家族
みんなが思うのが最高の立ち位置だと思ってきた。
現実は多分そうではないでしょうが・・・
家族でカラオケに行き、パチンコ屋に行き、時間があれば外食に
出掛け、笑顔と会話のある家族のほうが良いと思いませんか?
ほんの少しの歩み寄り「ありがとう」「おはよう」「おやすみ」と
当たり前の事を当たり前に言う事から始めてみません?
気がつけば、前より会話のある明るい家庭なんてことも・・・
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