それは40年以上前、僕が中学三年生の時で、霧雨の降る夜のこと。午前零時を過ぎ
た途端、店の周辺に駐車していた車内から一斉に人が飛び出し、店のシャッターが開け
た途端、店の周辺に駐車していた車内から一斉に人が飛び出し、店のシャッターが開け
それは40年以上前、僕が中学三年生の時で、霧雨の降る夜のこと。午前零時を過ぎ
た途端、店の周辺に駐車していた車内から一斉に人が飛び出し、店のシャッターが開け
られ、我先にと店にある全ての物を持ち出すのです。 その光景を霧雨の中で見ていた
僕は(これが倒産かぁ)と呆然と眺めているしか出来ませんでした。 翌日にはスーツ
を着た人達が来て金額を書いた赤い紙を片っ端貼って行くのです。そう差押さえです。
家屋敷も全て人手に渡り、家族は祖父母と、母姉妹の別世帯に分かれて住むまで、それ
ほどの時間はありませんでした。僕は5才まで祖父母に育てられた事もあり、2人だけ
では可哀相な気がして、祖父母と一緒に暮らす事になった為、両親と過ごしたのは5才
~15才までの10年間だけで、この時が最後となるのです。
それからの暮らしは、生活レベルの変化より、人の目が気になる日々で高校に入って
からは、バイトをしないと何も買えません。 しかし当時バイトをするには学校の許可
が必要で、許可されるのは、牛乳配達か新聞配達程度だったように記憶しています。
でも、たいした収入に成らないので内緒でキャバレーで、オードブルを作ったり、スル
メを焼いたりと、フロアには出ないバイトで小遣いを稼いでいました。 生まれて初め
て他人の下で働く経験・・我が肉体を使っての仕事・・・仕事は縦社会であることなど、
他にも紙面には書き難い事も含めて、色々学べた結果として、その後の自分が居た訳で
すから、稼業の倒産によって得られたものは大きく、僕にとっては必要悪だったように
思えます。 今まで贅沢をさせて貰えた事に感謝ができるようになったのも、倒産した
後の生活が極普通なのだと思えるようになれたのも、そして、父親に対し恨み辛みの心
を持つ事なく過ごせたのも、稼業の倒産から学んだ事のように思えます。
ただ、ひとつだけ苦手な事がありそれが対親戚付き合いでした。 親戚が集まるのは、
仏事が圧倒的に多く当然のようにお酒が入ります。 すると毎回決まって父親非難をす
る親戚やら「なぁ本当に親父の居所知らねぇのか?」と聞く叔父さんや叔母さんに(て
めぇら、いつまでもしつけぇぞ!)と言いたいのを我慢するだけで精一杯でしたが、そ
の状況は10年間以上も続いたのです。 それでも我慢したのは僕に子供ができた時、
その子達の親戚が居なくなっては可哀相だと思ったからでした。 あれから40年が過
ぎて、親父の兄弟も全てこの世から居なくなり、そんな話しすら出る事は無くなりまし
たが、やはり親戚付き合いは最低限になっている自分がいます。
この家族も、きっと僕と似たような経験をしているだろうし、その上このタイミング
で父親の死に直面するのだから僕よりずっと辛いだろうけど、この経験を人生の肥やし
にして欲しいと思いながら、家族の談笑を聞いていたのです。
余命3週間が経ち、更に1ヶ月頑張ったお父さん
相談者の自宅をあとにして、前橋市の事務所に帰る車中「もう午前一時過ぎだ。今日
は葬儀の話じゃなくて人生相談でもしに来たようだね」と言いつつ、心は何処か晴々と
していました。
翌日の夜、病院の消灯時間が過ぎた頃、図面を持って自宅に伺うと昨日と違って歓迎
ムードです。 さきほどまで病院に居たようで息子達の顔は昨日より明るくなっている
し、お母さんは言われた通りアルバムを持ってお父さんの所に行き、思い出話をしてき
たようです。 実に素直な人です。図面を見たお母さんは「見ても良く分らないけど、
武井さんが大丈夫って言うならそれで良いです。全てお任せします」たった一日で随分
信用されたものです。 あまりの変化に少し戸惑いと不安はありますが、もしもの時は
全てをあんしんサポートが行うと決まったのです。
11月の終わりに宣告を受けた3週間も過ぎ、年の瀬を迎えた12月29日あんしん
サポートは前橋市で別の葬儀【新聞記事の写真】をしている最中でした。 葬儀で使用
する門標を取りに出掛けた先で偶然にも次男と会ったのです。「お、暫く!」そう言う
僕に、笑顔で会釈しながら「どうも」と言う次男に「お父さん元気になった?」と聞く
と「きっと身体は悪くなっているでしょうが、最近、我がままになってよく母さんと喧
嘩してますよ」と言って笑ったのです。 それを聞いて家族が毎日のように病院通いを
しているのが分ったので「うんうん、みんなは毎日病院通いを続けているんだね」「あ、
はい」なんで分ったんだろうとでも思ったのか少し不思議そうな顔をしました。
そのまま年が明け15日の小正月が過ぎた1月24日夜逝去の一報が入ったのです。
自宅からは10分ほどですが、あんしんサポート事務所からは50分程の距離にある病
院へ、お迎えに行き自宅に連れて帰ると息子達が部屋を片付けていました。 まだ片付
かない部屋ですが、布団に安置、ドライアイス処置をして末期の水を取って貰い線香を
あげると、火葬の予約は通常より一日先の予約をしました。 自宅葬儀なのでお寺さん
の都合だけは確認して貰う事で、明日の午後来るから、それまでには何とか片付けてお
いてくださいと早々に失礼しました。
通常なら、安置、打ち合わせ、死化粧と進むのですが、日常生活の全てを行なってい
る部屋を、葬儀ができるように片付けるのが大変であろう事は容易に想像できます。
それに、火葬の予約を一日延ばしたので日数的にも余裕はあるのです。
ここで、僕らがご遺体の化粧を始めたりすれば、当然片付けなど出来ない訳で、明日の
朝、親戚が来る前に片付けるのは大変だと思ったからです。 明日の午後に来ると言っ
たのも、午前中に親戚が来ても、何とか片付くと考えたからでした。
翌日の午後、約束通り伺うと、片付けも基本的には済んでおり、3兄弟揃って待って
いたので、すぐに白幕張りから始めます。30分ほどで安置祭壇まで全てが設置完了。
そこでお母さんの一言「本当だ、白幕って凄いですね。台所も見えないし、部屋も明る
くなって、広さも充分ですね」次は昨日出来なかった、お父さんの死化粧です。
改めて見ると、痩せこけて体力と気力の全てを使い切るまで、家族の声援に支えられて
の逝去・・・そんな印象を受けます。 化粧が終了した頃には隣に住むお母さんの両親
も含めて、家族全員が集まっていました。 本当は家族に対して、父親が迷惑を掛けた
話しを、すぐに持ち出すという親戚の集まる湯かん、納棺の儀で、余命宣告を受けてか
らは、父親と一緒に頑張った家族を褒める形で言おうと思っていたのですが、昨日まで
毎日病院に通い続け、父親の姿を目に焼き付けておこうとしているかのような家族を見
ていたら、僕のくちが勝手にしゃべり出していました。
「あれから約2ヶ月間、みんな良く病院に通い続けてくれましたね。 年末に次男と偶
然会った時に、それが分ったのですが、あの時、毎日通っているなんて一言も言ってな
いのになんで? みたいな顔をしていましたね」そう言って次男を見るとコクッと頷い
ています。 「それはね最近我がままを言うようになって、母さんと喧嘩していますよ
って言ったでしょ。それでみんなが病院に通っているのが分ったんですよ」・・いかが
ですか? 今ここに集まられた家族の皆さんにも、その理由が分りましたか?」家族を
見ると、みんな首をかしげています。 「人はね、遠慮をしていたら我がままなんて言
いません。お父さんが我がままを言えるくらい、みんなが通ったという証拠のようなも
のです。 だから、お父さんも頑張りました。 最長3週間の宣告から、さらに1ヶ月
も生きて来られたのは、家族みんなのお陰だと、お父さんも感謝していますよ。 残っ
ていた体力気力の全てを使い切ったこの身体が、それを証明してくれていますよ」そう
語る僕の目に入ったのは、家族全員が僕の言葉に頷きながらの泣き顔、でもそれは後悔
の顔ではありません。 各々が自分のできる精一杯を父親と過ごしたという満足感の顔
です。
翌日は湯かん、納棺の儀、翌々日は自宅での葬儀、そして火葬と進みましたが事前に
親戚の様子を聞いておいたので、要所、要所の話しの中でクサビを打ちながら進めたり、
お酒の入る、清めの席には前に書いたあんしんサポートオリジナル【故人を偲ぶ】用紙
に『お父さんとの楽しい思い出話しを聞かせてくださいな。きっとそれが父さんの望み
だから・・・そうだよね。父さん』と文末に書いて全員の料理の下に置いたので、大き
な問題もなく火葬が済むと、拾骨後に喪主である長男に挨拶をして貰い全てを終了した
のです。 自宅に戻ると、祭壇に遺骨を安置し、線香をあげれば葬儀終了で、後飾り祭
壇と枕飾りと呼ばれる線香具一式以外は全て片付けるのですが、葬儀後に無料新聞掲載
をする事になっているので、飾り一式も、暫くお貸ししておく事にしました。
事務所に戻ると、千明は請求書の作成、僕は葬儀写真アルバムを作り始めます。
明日は集金に伺うのですが、それまでに撮った100枚以上の写真から使えるものを選
んで、加工をしたり、文字を入れたり、文章を考えたりして、A4サイズの中に数枚か
ら数十枚が写っている10ページほどの写真アルバムを仕上げなければなりません。
つづく
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