あんしんサポート設立のきっかけとなった、父親逝去に伴い
遺書を開封するので同席するか、委任状を返送してください。
八王子裁判所からの手紙と、後日父親の最後を看取りハワ
イの海に散骨をしてくれた女性と、じっくり話ができたことで、
その女性から感じた達成感と満足感のある火葬式ってのは
どんな葬儀なんだろう? そんな良い意味での関心が湧き
自分も知りたいと思い、調べることから始まりました。
でも予想は外れ、調べれば調べるほど理解も納得もできない
葬儀の実態ばかりだった事と、、、なぜ彼女はあれだけ満足
できたのだろうか? このギャップがスタートラインだと思う。
僕が中学3年のある夜、僕の部屋をノックした父親は優しい
顔で「暫くぶりだけど元気か?」と言い、僕が頷くと「お前は男
なんだから何があっても強く生きていくんだよ」と笑顔で言葉を
続けたが、何も知らない僕は「はぃはぃ分ったよ」と軽く返事を
したまま当時の言葉で言えば蒸発をしたのです。
翌日稼業は倒産、債権者達は我先にと品物を持ち出す姿を
霧雨の降る中、茫然と見ているだけの僕でした。
翌日は銀行が入り、家具や家の中のあらゆる物に赤い値札を
付けて帰る・・・その後、母親と姉と妹は借家に移り、祖父母と
僕は県営住宅に移り住む、生活は一変して、学校に行くのも、
道を歩くのも嫌なほどでしたが、当時の友人達は今までと何も
変わらない態度で接してくれた事が救いでした。
突然倒産をし、家族を捨て自分だけ逃げた父親なのは確かで
したが、著書にも書いた通り、妹が遺書の開封に行ってくれて
最後を看取ってくれた女性から、国内外問わずあちこちに旅行
した話や、それなりに幸せに過ごしていた様子を聞かされたの
でしょう。 自分達に苦労させて自分だけ幸せだったのが納得
できない、、、という雰囲気で報告を受けました。
しかし、僕の中では安堵感のほうが大きかったし、この数十年
父親に対して恨みつらみは抱いたことが無かったのがなぜ?
と思う自分もいて、、正直今でも何故かの答えは出ていません。
見栄っ張りで、気が良くて、短気だけど子煩悩で、髪型は当時
GIカットと呼ばれ、風貌はジェリー藤尾さんに似て、ハーフにも
思えるような父親、、、でも蒸発、、小心者でもあったようです。
『食べ物の事で文句を言うな育ちが分かる』とか『女性と一緒
の時はドアは自分で開け先に中に入れろ』とか、これからは
ナイフとフォークくらいは使えるようにならなきゃと、今は僕の
住む前橋市のレストランまで連れていき、マナー実践をさせて
くれたのも父親だし、高崎のデパートまで洋服を買いに連れて
行ってくれたのも父親でした。
レディーファーストは今でも身についており、日本の男性には、
珍しいタイプのようですが、僕の息子にも伝えました。
僕にとっての父親は、そんな良い教訓も、倒産、蒸発のような
反面教師としての教訓も、どちらも教えてくれた父親です。
倒産した当時は、あまりに生活の変化が大きくて戸惑いやら
困惑もありましたが、そこで学んだ事も大きかったと思えます。
だからこそ、今の僕がいるとも思えるのです。
それから40年の時を経て、人生最後の大仕事に導いてくれた
のも父親だったとしか思えません。
還暦を前にした初老の息子に、これからの人生に大きな目標
生き甲斐、遣り甲斐を残す、、、人生を生きるうえで最も大切な
ことを与えてくれたのが父親だと思っています。
遺書を開封するので同席するか、委任状を返送してください。
八王子裁判所からの手紙と、後日父親の最後を看取りハワ
イの海に散骨をしてくれた女性と、じっくり話ができたことで、
その女性から感じた達成感と満足感のある火葬式ってのは
どんな葬儀なんだろう? そんな良い意味での関心が湧き
自分も知りたいと思い、調べることから始まりました。
でも予想は外れ、調べれば調べるほど理解も納得もできない
葬儀の実態ばかりだった事と、、、なぜ彼女はあれだけ満足
できたのだろうか? このギャップがスタートラインだと思う。
僕が中学3年のある夜、僕の部屋をノックした父親は優しい
顔で「暫くぶりだけど元気か?」と言い、僕が頷くと「お前は男
なんだから何があっても強く生きていくんだよ」と笑顔で言葉を
続けたが、何も知らない僕は「はぃはぃ分ったよ」と軽く返事を
したまま当時の言葉で言えば蒸発をしたのです。
翌日稼業は倒産、債権者達は我先にと品物を持ち出す姿を
霧雨の降る中、茫然と見ているだけの僕でした。
翌日は銀行が入り、家具や家の中のあらゆる物に赤い値札を
付けて帰る・・・その後、母親と姉と妹は借家に移り、祖父母と
僕は県営住宅に移り住む、生活は一変して、学校に行くのも、
道を歩くのも嫌なほどでしたが、当時の友人達は今までと何も
変わらない態度で接してくれた事が救いでした。
突然倒産をし、家族を捨て自分だけ逃げた父親なのは確かで
したが、著書にも書いた通り、妹が遺書の開封に行ってくれて
最後を看取ってくれた女性から、国内外問わずあちこちに旅行
した話や、それなりに幸せに過ごしていた様子を聞かされたの
でしょう。 自分達に苦労させて自分だけ幸せだったのが納得
できない、、、という雰囲気で報告を受けました。
しかし、僕の中では安堵感のほうが大きかったし、この数十年
父親に対して恨みつらみは抱いたことが無かったのがなぜ?
と思う自分もいて、、正直今でも何故かの答えは出ていません。
見栄っ張りで、気が良くて、短気だけど子煩悩で、髪型は当時
GIカットと呼ばれ、風貌はジェリー藤尾さんに似て、ハーフにも
思えるような父親、、、でも蒸発、、小心者でもあったようです。
『食べ物の事で文句を言うな育ちが分かる』とか『女性と一緒
の時はドアは自分で開け先に中に入れろ』とか、これからは
ナイフとフォークくらいは使えるようにならなきゃと、今は僕の
住む前橋市のレストランまで連れていき、マナー実践をさせて
くれたのも父親だし、高崎のデパートまで洋服を買いに連れて
行ってくれたのも父親でした。
レディーファーストは今でも身についており、日本の男性には、
珍しいタイプのようですが、僕の息子にも伝えました。
僕にとっての父親は、そんな良い教訓も、倒産、蒸発のような
反面教師としての教訓も、どちらも教えてくれた父親です。
倒産した当時は、あまりに生活の変化が大きくて戸惑いやら
困惑もありましたが、そこで学んだ事も大きかったと思えます。
だからこそ、今の僕がいるとも思えるのです。
それから40年の時を経て、人生最後の大仕事に導いてくれた
のも父親だったとしか思えません。
還暦を前にした初老の息子に、これからの人生に大きな目標
生き甲斐、遣り甲斐を残す、、、人生を生きるうえで最も大切な
ことを与えてくれたのが父親だと思っています。
↓↓↓↓
にほんブログ村
ひとつひとつの葬儀を確認・反省・向上する為に書く実践日誌でもあり、
これから葬儀を経験される方々が後悔しない為に役に立てたらとの
思いを込めて書いています。 宜しければクリックをお願いします