失敗したからって何なのだ?
失敗から学びを得て、また挑戦すればいいじゃないか。
ウォルト・ディズニー
成功があがりでもなければ、失敗が終わりでもない。
肝心なのは、続ける勇気である。
ウィストン・チャーチル
私たちは、日々結果を求められます。
学校でも、仕事場でも、良い結果を求められます。
でも、結果として、上手くいったり、いかなかったり、または、思い通りに進んだり、思い通りにいかず、悩んだり、苦悶したりと、試行錯誤の繰り返しです。
忘れてはならないのは、そこには、結果までの道のり、つまりプロセスが必ずあることです。
プロセスの蓄積こそ、生きた知恵の宝庫であり、自分で作り上げた、次に進むための階段です。
<夕焼けと青空のグラデーションがきれいだったので、思わずシャッターを切りました。>
さて、
「淡々とシンプルに生きる」
5つの方法
シリーズも、今回が最後に、なります。
前回までに、そのうちの4つについて説明しました。
1 過去の辛い経験や失敗の記憶を、「右から左へ 次から次へと 流していく」
2 感情に波を作らず、出来事に「良い悪いの評価をしない。」
3 物や人に、必要以上に執着しない。
4 心無い人の言葉は、無反応で聞き流し、その場を速やかに去る。
または、「そうなんだ」と言って、やり過ごす。
今回は、最後の5つ目について説明します。
5 途中の「プロセス」を自分が認める。
不登校、ニート、引きこもりの多くの場合は、「劣等感」から発生します。
(アドラー心理学を参考にしています。)
何度もお伝えしているように、競争原理が浸透した、現代社会においては、私自身も含めて、誰もが、陥る可能性があり、決して、特別なことではありません。
以降は、
※ 少し耳障りな表現になるかもしれませんが、決して、不登校等を非難したり、否定するものでなく、自己の精神構造を客観視するためのものですので、誤解のないようにお願いします。
不登校、ニート、引きこもり等の多くは、
「自分はこんなものじゃない」
「自分は、やればできるが、やらないだけ」
という気持ちを維持するために、
失敗し、できない自分をさらけ出すことを避けるために、
「土俵に上がらない」ことを選択している場合が考えられます。
もちろん、陰湿ないじめや特定の心無い人からの言動によって、酷く傷つき、トラウマになって恐怖心や自己防衛のために、そのような行動をとっている場合もありますので、慎重な分析と判断が必要です。
前者の場合は、
言わば、
「転ぶことが恥ずかしいのではなく、転んだ自分を見られるのが恥ずかしい」のです。
その心理状況を詳しく説明するならば、現実世界の中に自分をさらすと、自分の現在の実力が露呈するので、みじめな自分の姿を周囲にさらし、場合によっては、そのような実力のない自分を見透かされ、なめられたり、馬鹿にされることが怖く、その事実を自分が認めたくないがために、学校や社会に出ることを拒んでいるのです。
何らかの失敗の繰り返しによって、自信を無くし、一方では、自分の実力はこんなものではないという心理が働くことにより、現実を見ないようにするために、その土俵から逃げようとするのです。
ある意味、自尊心や自己肯定感が崩れ、自己否定に陥るのを防御しているとも言えます。
何度も繰り返しますが、これは不登校、ニート、引きこもり等の状態になっている人に特別にある精神状態ではなく、誰においても起こり得る、又は、少なからず内包している普通の状態です。
自己否定をして、生きることは非常につらく、自信や活力を減退させます。
自己否定をするくらいなら、その土俵に上がらないことを選択することも、一理あるのです。
そして、自分が不利な土俵に上がりたくないという心理状況は、裏を返せば、自分が周囲から認められ、又は、優位に立つことができ、自尊心を維持し、自己を肯定することができる土俵ならば上がりたいという心理を表しているのです。
では、なぜ、不登校、ニート、引きこもりなどの状態をなんとか克服し、解決しようとするのでしょうか。
そのままではいけないのでしょうか?
実は、いけないことは全くないのです。
現実的な話をすれば、一生このような状態であっても、経済的に誰かが援助してくれるなどして、生活に困ることがないのならば、それでも全く問題はありません。
でも、おそらく、そのような人は、相当少ないでしょう。
つまりは、「将来的に、経済的に困る。」という理由から、周囲も心配し、それに同調するようにして、本人も不安感を抱き、何とかしなければいけないと無意識に感じるのです。
経済的に裕福で、一生困らないという方なら、立ち直りを全く考える必要はありません。
ですが、もし、そうでなければ、現実的には何とかする必要があるでしょう。
しばらくの間は、親が経済的な援助をしてくれるかもしれませんが、親も歳をしますからいつまでも援助できるわけではありません。
そして、自分自身もいつまでも若いわけではなく、ある程度の年齢になったなら、自分が自立して生きていける最低限の経済力を身に付ける必要があります。
場合によっては、育ててくれた親が高齢になった際には、逆に面倒を見る必要もでてきます。
親や周囲が、学校や仕事場へ行くように促したり、不安に感じる理由は、いつまでも助けられないという不安と現実があるからです。
ですから、最終的には、自分自身が何とかするしかないのです。
不登校、ニートや引きこもりは決して悪いわけでないですが、これが、現実であることを理解する必要があります。
不登校等の状態を解消しようとするもう一つの理由は、「人間は社会的な動物である」という言葉に象徴されるように、結局、人は一人では生きていくことはできないことにあります。
人間が個人として存在していても,その個人が唯一的に存在し,生活しているのではなく,絶えず他者との関係において存在しているのです。つまり個人が社会のうちにおいて生活し生存しているのであって,社会なくしては個人が存在しないことを意味しています。
また、他者からの承認要求が根本に存在することにより、自身の中に常に葛藤が生じた状態が継続することによる精神衛生上の問題があります。
ですが、この場合も、「生涯、人と関わらないで生きていける、人から認められなくても全く問題ない、一生一人で生きていく」という割り切りと、実生活ができる人であれば、問題はありません。
あとは、この場合も最終的に経済的な問題に行きつきますが、人と全く接点を持たずに、孤独に耐えることができ、衣食住に困らないのであれば、全く問題はありません。
敢えて言うまでもありませんが、現実的には、非常に困難なことですので、この選択肢は、難しいと考えます。
厳しい説明内容になったかもしれませんが、これが現実であり、冷静になって考えれば、実にシンプルな理屈です。
現実を客観的に直視したところで、解決法について説明をします。
不登校、ニート、引きこもりの心理状況について説明してきましたが、克服・解決には、こうした心理状態を理解することが大切であり、糸口になるのです。
では、どうすればいいのでしょうか。
まず、不登校、ニート、引きこもりのような状態の方は、大抵、程度の差はあれ、自尊心が高く、完璧主義の場合であるケースが多くあります。
全くそうでないと感じる場合は、例えば、周囲が完璧主義であり、「こうあるべき」という圧力が強い場合が考えられます。
自分は普通に、平凡に生きればいいと思っていても、親の期待に答えなければならないとか、人との比較によって、「こうでなければ生きる価値がない」などとオーバーに考えるのです。
「こうでなければいけない」
「こうあるべき」
という、高い理想像があり、それと合致しない場合に、
「自分は駄目だ」
「恥ずかしい」
という感情が出てくるのです。
このような、「全か無か(All or Nothing)」の思考に陥っていることを認識し、「中間」があることに気付くことが大切なのです。
そのためは、結果だけに注意を向けるのではなく、自分自身が、努力の過程(プロセス)をしっかりと適切に評価し、そして、認めることが大切なのです。
つまり、途中の経過を「成長の途上にある」というように、考えることが大切です。
物事には、成長過程というものが必ず存在します。
それは、植物や生き物、企業や経済など、全てのものが発展・発達の途中経過があるのです。
ですから、自分が何かをするときに、最初からパーフェクトである必要はなく、常に右肩上がりである必要もなく、時に、紆余曲折や上下動を繰り返しながら、一歩一歩進んでいけばいいのです。
このことをしっかりと理解して、「結果」だけに目を向けるのでなく、「プロセス」に目を向け、自分が試行錯誤し、くじけたり、立ち直ったりすることを繰り返すことが、「長い人生の中での成長」であることを理解することが大切です。
このように考えれば、現時点の満足のいかない状態についても、自尊心を傷付けることはありません。
特に、スポーツの世界では、結果がすべてと思われがちですが、スポーツ心理学においても、こうした「プロセス」に目を向けることで、自己否定に陥ることなく、次のステップに進めることができ、最終的に記録が伸びるだけでなく、メンタルの強さや、人間的な成長につながると言われています。
金メダルを取ることも大切ですが、金メダルを取れなかったからといって、その人のそれまでの努力は否定されるものではありません。
間違いなく、人間として大きく成長しているのですし、その人の「生き方」を、「外的な結果」だけで評価するものでもないからです。
人生の途中で、上手くいかないことがあっても、「発展途上」「成長途中」にあると、考えることが大切です。
そして、そのプロセスに対して、「よく頑張った、よく我慢した、よく努力した、よく耐えた、よくやった」と、自分自身が賞賛してあげることです。
事実、その「プロセスは、成長以外の何ものでもない」のですから。
つまり、閉塞感のある感情を整理し、次に進むための解決方法は、「プロセス(途中経過、過程)を自分自身が認める」ことです。
努力をしても、直ぐに良い結果が出るとは限りません。
むしろ、努力が形としてあらわれるのは、往々にして、長い時間・期間が必要になるものです。
このことも、併せて理解しておく必要があります。
言わば
「継続して努力した分だけ、良い結果としてあらわれる可能性が高くなる。」のであり、「怠ければ、良い結果として、あらわれる可能性は低い。」ということです。
あくまで、可能性です。
経験上、努力は、何らかの形で生かされることが多いと思いますが、努力をしたからといって必ず良い結果が直ぐにあらわれるわけではありません。
逆に、怠けたからといって、必ず失敗するとも言えませんし、運よく棚ぼたのようなことに出会うこともあります。
努力することが良く、怠けることが悪いわけではなく、このような事実を、そのまま受け止めることが大切です。
努力して良い結果が直ぐに出なくても、諦めたり、くさったりする必要はなく、努力不足で良い結果が出なければ、それはそうだと割り切る感覚が必要です。
「2 感情に波を作らず、出来事に良い悪いの評価をしない。」
において説明しましたが、
そこに、自己に対する良い悪いの評価は、特段、必要はないのです。事実を事実として、淡々と受け止めるだけです。
良い結果が出る可能性を高くしたければ、努力を積み重ねればよく、望まないのであれば、経済的に困らない程度に、頑張ればいいのです。
これらのことを、シンプルに理解して、結果として、上手くいっても、上手くいかなくても、必要以上に一喜一憂することなく、「そういうものだ」と淡々と受け止め、次の行動に移ることが大切です。
さて、
「淡々とシンプルに生きる」
5つの方法
について、説明をしてきましたが、何かのお役に立てれば幸いです。
次回からは、「実践編」について説明する予定です。
お楽しみに。