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戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた?〈週刊朝日〉
日本軍が設営した本島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影

 戦死者約300万人の太平洋戦争末期、一度も本格的な戦闘をしないまま、兵士の7割以上、約5千人が命を落とした島がある。ほとんどが餓死か病死だったという。何が生と死を分けたのか? ノンフィクションライター・友松裕喜氏が真相を追った。

【写真】戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵

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 赤道に近い北緯7度東経143度、太平洋のメレヨン島=ウオレアイ環礁は、東西約8キロ、南北約5キロに海抜約3メートルの約16の島が点在している。

 久米宏氏が出演していたテレビ朝日「ニュースステーション」のディレクターとして、2001年、私は、「スターナビゲーション・星の航海術」の取材で初めて、この島に渡った。取材が不調に終わり、何もすることがない私の視界に入ってきたのは、「戦争の残骸」である野砲、銃器、壕などが散在する光景だった。本島・フララップ島の中心部には日本人が戦後、建立した慰霊の鐘「メレヨンの鐘」が設置され、コンクリートの台座には「友よ安らかに眠れ」の銅板が貼られていた。私はこの環礁が「戦地」だったことを初めて知る。鐘の台座の裏には「全国メレヨン会」という組織が建立した旨が明記されていた。

 帰国後、『メレヨン島生と死の記録』(朝日新聞社)などの資料を読んだ。戦争中、現在のミクロネシア連邦・ウオレアイ環礁には、約7千人の日本兵が駐留した。そのうち戦没者概数は約4900人に上る(厚生労働省調べ)。

 1941年、フララップ島に滑走路の建設が始まった。兵士にとって「太平洋の防人」として守備に就く準備を整える。メレヨン島に部隊本隊が上陸したのは、44年4月。3カ月後の7月にサイパン、8月にグアムが玉砕。そのため、それらの南に位置するメレヨン島への米軍の攻撃は皆無になった。加えて日本軍からの食糧補給は、ほぼ完全に止まった。米軍からも日本軍からも「見放された島」がメレヨン島である。

 しかし、兵士に食料は必要だ。やせた土地で農作物を作るなど現地自活生活を余儀なくされる。米の支給は制限され、飢餓はその極に達した。さらに風土病のデング熱に加えて、アメーバ赤痢などの併発により、多くの犠牲者が出た。

 65年、メレヨン島からの生還者と遺族で構成される「全国メレヨン会」が発足。それ以降、慰霊、遺骨収集、島民との交流などの活動を行っている。

 メレヨン島の「戦わない戦争」を記録したいと願った。「全国メレヨン会」の関係者に電話をかけ、手紙を書き、ファクスを送り、取材を始めた。

 03年6月には生還者1人、遺族3人とともに、再びメレヨン島に行く機会を得た。遺骨収集、台風災害見舞い、そして慰霊の旅だった。

 現地を2度訪ねたライターとして数年をかけて6人の生還者を取材した(現在は5人が故人)。生還者のインタビューで欠かせない質問があった。極限に際した時、「生と死を分けたものは一体何か?」と──。(亡くなった方の年齢は取材当時。五十音順)

 三重県志摩市の石野晋さん(77)は運のよさと言った。

「運がよかった。上司に恵まれた。大発(80人ほど乗船可能な船)に乗っていたという運や。食糧不足が深刻化したころ、ようやく潜水艦が入ってきた。大発は潜水艦に積んだ食糧を島に陸揚げする。その時、ワシが乗っていた大発の下に25俵の米を隠した。その後、幕舎の前に野菜やカボチャが植えてあった場所に移動させた。それで助かったな。規則違反はわかっている。良心が痛む? それはな、『役得』や」

 福島県白河市の大塚君夫さん(89)は、中国から転戦したことを挙げた。

「中国で少年兵として捕虜を銃剣で殺すところを見せられました。自分にはできないと感じたのです。それが嫌で、ちょうど『潜水艦乗組員希望者』を募っていたので、そちらを志願しました。そこが生死の分かれ目です。本当はトラック諸島に行くはずだったのが、なぜかメレヨンに行くことになりました。それも運命の分かれ目で、生と死を分けたことです」

 奈良県生駒郡の沖中慶二さん(83)は、ウイスキーのロックを傾けながらこう話した。

「木のぼりが得意だった。ヤシの木に実がなっとるでしょ。統制品だったあれを、こっそり夜、取るわけですよ。それを隠して自分の大切な食糧にした。軍隊という組織のなかには目の前で兵隊が死んでいっても知らん顔をする人もいる。ところが『それではいかん、供養しよう』、そう言って優しい気持ちを持っていた人ほど早く死んだ。死んだ兵隊の墓標を作るために体力を奪われたのかもしれん。メレヨンであった事実を、それがどんなにひどいことであってもきちんと伝えるべきだ。最近この年になって思う。死んだ戦友の心にこたえる道だとね」

 札幌市で今もなおトヨタカローラ札幌の取締役相談役を務める99歳の柿本胤二さんは今年7月の取材で両親への感謝と答えた。

「両親が健康な体で私を生んでくれたことが、まずは生と死を分けたことです。加えて、正直言ってね、やはり小隊長をやっていたことが大きく関与しています。畑を作って働いたわけですが、ただ、それを監督する立場で、体力の消耗は少なかったと言えますね。それとウニなんです。沖のかなり難しいところにウニがたくさんいるんですよね。体力があるもんだから、波に打ち勝ってウニを取ることができるんです。それをかなり食べていた」

 北海道小樽市の平野晴愛さん(83)は、どんなに質問を重ねても、「……」。無言を貫いていた。

 千葉県印旛郡の渡辺義尊さん(91)は、キノコで命をつないだという。

「腐れたヤシの葉っぱにね、雨が降るとキノコがね、うっそうと生えるのです。みんな怖がって食べなかったね。私は食べた。なんともない。そりゃね、名前がわからない。扇を開いたような小さなヤツ。コケのようになっているキノコが……」

 メレヨン島防衛の最高責任者・北村勝三氏は生還者。彼は全国各地の遺族を訪ねて弔問を続け、1947(昭和22)年8月15日、故郷・長野県の山中で自決している。北村氏の次男・内田崇(たかし)さんから「自決の仕方」を私は耳にした。彼自身に非があった、という死のメッセージが残されていた。

 厚生労働省によれば、メレヨン島の遺骨収集はこれまで10回。収容遺骨概数は3052柱(はしら)、直近では14年の32柱。未収容遺骨概数は1850柱。遺骨は千鳥ケ淵戦没者墓苑に納骨されている。

 今、私にできるのは「友よ安らかに眠れ」と祈ること。

 それにしてもメレヨン島で見た澄んだ青空に浮かぶ入道雲、海の青さ、夜空に輝きを放つ南十字星の美しさが、私の脳裏に焼き付いている。無添加アクネケア 薬用ニキビ1ヵ月集中セット