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「俺は先に行く」19歳特攻隊員、弟に宛てた手紙 終戦2日前にゼロ戦で突入

終戦2日前に特攻で亡くなった星野實さん

 太平洋戦争の終戦2日前の1945年8月13日、京都に生まれ育った19歳の特攻隊員が沖縄の海に浮かぶ艦船へゼロ戦で突入した。青年は最後の2カ月間、鹿児島県の喜界島で出撃をひたすら待っていた。75年がたった夏。島の住民が在りし日の姿を語り、遺族が命の軌跡を振り返った。【写真】学徒出陣して戦死した京大生が恋心を綴った日記

「まじめ過ぎる兄」16歳で予科練に

 特攻で亡くなったのは星野實(みのる)さん。1926年、京都市伏見区下鳥羽の農家に四男として生まれた。「まじめ過ぎた男ですわ」。3歳下の弟の植村五市(ごいち)さん(91)=上京区=は兄の記憶をたどる。 五市さんによると、實さんは幼い頃からふざけたりすることもなく、勉学に励んでいた。下鳥羽尋常小(現・下鳥羽小)を卒業し、桃山中(現・桃山高)を経て1943年6月、16歳でパイロットの基礎訓練を積む海軍飛行予科練習生(予科練)になった。

最後に見た兄は七つボタンの制服姿だった

「俺は先に行く」19歳特攻隊員、弟に宛てた手紙 終戦2日前にゼロ戦で突入

星野實さんの遺品とみられる絹の布。行動した部隊の推移や「轟沈」「必沈」などの文字が書かれている(京都市伏見区下鳥羽)

 實さんは入隊して京都を離れた後、休暇で生家に帰省したことがある。予科練の象徴、七つボタンの制服を着ていた。五市さんは「飛行機乗りになりおったんやなあ、と思った。でも自分は戦争にはあまり意識がなかった」と話す。 五市さんが實さんと会ったのは、その時が最後となった。後に實さんは、用務の際に生家のある下鳥羽の上空を飛行すると家族に伝えていた、という。 五市さんも1944年に予科練に入り、神奈川県にあった海軍の教育機関に所属していた時、實さんから手紙が届いた。「俺は先に行く。お前は後についてこい」と記されていたという。「空中戦で死ぬ覚悟が伝わった。もしかしたら特攻を志した頃かもしれない」

「妹の話をしきりに」喜界島の住民は實さんを覚えていた

「俺は先に行く」19歳特攻隊員、弟に宛てた手紙 終戦2日前にゼロ戦で突入

星野實さんの思い出を語る栄ヤエさん(鹿児島県喜界町・喜界島)

 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)によると、1945年6月10日、實さんが所属した神風特攻隊「第二神雷爆戦隊」は鹿屋の基地から、沖縄へ向かう特攻機の中継基地となっていた奄美群島の喜界島へ移った。以降、出撃命令を待つ日々が続いた。 島に暮らす栄(さかえ)ヤエさん(96)は隊員たちと交流があり、實さんのことを覚えていた。自宅は兵舎の近くにあり、實さんはヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。稲刈りを手伝い、生家での農作業の様子を伝えた。柔らかな物言いで妹の話をしきりにしていたという。栄さんは實さんに手作りのお守りを渡した。ABEMAプレミアム