大地と自由 原題 Land and Freedom
スペイン内線の内実を描いた力作 横田安正
イギリスのケン・ローチ監督が1995年に制作したイギリス・スペイン・ドイツ合作映画である。スペイン内戦には「動物農園」、「1984年」などで有名なイギリスの作家ジョージ・オーエルが参加、ルポルタージュ「カタロニア賛歌」を1938年に発表した。この映画はジョージ・オーエルの体験にかなりの部分が重なっていると云われている。
スペイン内戦
第1共和国が倒れてから60年近く王政が続いたスペインだったが、1931年4月、国民の大きな期待を受けて第2共和国が誕生した。しかし、政府内で左右の権力闘争が激化する。1936年2月、左翼的イデオロギーを掲げる人民戦線派が総選挙で勝利した。これに対しドイツ、イタリアの支援を受けたファシスト派のフランコ将軍が領内のモロッコで反乱軍を組織、クーデターを図った。
この報道が広がるとスペイン共和国をファシズムから守ろうという運動が欧米で起こり、多くの若者が義勇軍として参加、その中にはアメリカからヘミングウェイ、イギリスからジョージ・オーエル、フランスからマルローなどの作家、ハンガリー生まれのロバート・キャパなどの写真家、そのほか多くの芸術家がいたことが知られている。義勇軍は55か国から延べ6万人、そのうち1万人が死亡したと云われる。(この映画には登場していないがジャック白井というアメリカ在住でパン職人だった日本人が参加、1937年に戦死している。当時、日本では2・26事件が起こっており、ドイツ・イタリアとの枢軸体制が成立しつつあった。1937年4月26日、ドイツ空軍はバスク地方の都市ゲルニカを爆撃したが、これに憤激したピカソが大作「ゲルニカ」を完成させたことは有名である)。しかし、内線の結果はフランコ将軍の勝利に終わり、その後スペインはフランコ独裁政権に支配されることになった。
反ファシズムの戦いはなぜ敗北したのか?
ケン・ローチ監督は敗北の原因をスターリン指揮下のソビエト共産党の極端な教条主義的暴走とフランスやイギリスの“見て見ぬふり”にあると主張する。内線の実情は「フランコ派対反ファシズ派」の戦いというよりは、反ファシズム派の内部分裂にあるとし、それを促進したスターリニズムを厳しく糾弾した。フランス、イギリス、アメリカなどはフランコのスペイン支配を許したことに後ろめたさを感じたのかスペイン内戦について“黙して語らず”の態度をとり続けた。ケン・ローチ監督は「内戦の中の内戦」を“怒りを込めて”克明に描写した。
物語の発端
イギリスの港町リバプールでデイヴィッド・カーと呼ばれる一人の老人が息を引き取った。遺品を整理していた孫娘キムは古いボストンバッグの中に、大量の古い新聞の切り抜き、写真、それに赤い布に包まれた乾いた土片を見つけた。その下には祖父がしたためた長い手紙があった。キムは夢中で手紙を読み始める。
場面は一転して1936年のリバプールに。
デイヴィッド内戦に参加
失業中の若きデイヴィッドはスペイン内線に参加を求める共産党の集会に出ていた。ファシストと戦う民兵の姿がスクリーンに映り「ノー・パサラン!(奴らを通すな)」の掛け声で沸き返った。デイヴィッドは恋人キットを残し、スペインに密入国する。汽車のなかで出会った若者たちの勧めでPOUM(マルクス主義統一労働党)に参加することになった。指揮官ビダルのもとPOUMはCNT(アナーキスト系労働組合)と共同戦線を張り、労働者と農民の革命を目指していた。
女兵士ブランカとの出会い
スペイン北部アラゴン地方で戦闘が始まった。デイヴィッドは離れたところに腰を下ろしている美しい女兵士に目をとめる。周りの男たちは「彼女の名前はブランカ、部隊で一番の尻軽女。誰でも受け入れるよ。特に新参者が大好きなんだ」とけし掛けた。デイヴィッドはナンパを目論んで話しかけるが「馬鹿なことを言わないで。私にはクーガンという恋人がいるのよ」と一喝される。男たちは笑い転げた。クーガンはアイルランド出身の部隊長だった。やがて部隊は激戦のすえ敵側の村を解放した。しかし勇敢な部隊長クーガンが敵弾で命を落とす。隣にいたデイヴィッドは自分の援護が足らず助けられなかったと自分を責め、後悔の念にかられた。しかし、クーガンの恋人ブランカは悲しみにくれながらも戦いにまい進することを誓うのだった。そんなブランカにデイヴィッドは惹かれていった。
農民たちとの議論
村人たちは農地改革について議論していた。革命のため土地を全員で所有する“集産化”を唱える者と“私有地を一部認めよう”とする者とが対立していた。村人はPOUMのメンバーにも意見を求めた。理想とする革命を求める若者たちは真剣に議論に参加した。特にデイヴィッドと同郷のローレンスは熱弁を振るい村人たちをリード、けっきょく多数決で集産化することに決定した。(ローチ監督はこのシーンの撮影に力を入れ、俳優だけでなく実際の農民を多数参加させ臨場感を高めたという)。
コミンテルンの台頭
共和国政府内ではふたたび左右の対立が始まり四分五裂の有様となった。ソビエト共産党はそれに乗じ政府内の左派を糾合、“人民軍”を組織した。民兵にも人民軍に参加することを求めた。共産党国際統一戦線、いわゆるコミンテルンの思想に沿うものだった。スターリニズムを嫌うPOUMの指揮官ビダルは断固とそれを拒否した。人民軍はPOUMを反スターリン主義者、トロッキストと決めつけ凄まじい圧力をかけるようになる。武器や食料の供給を絶たれたPOUMやCNTは疲弊のどん底に追い込まれながら優勢なフランコ軍と戦い続けた。
バルセロナ5月事件
1937年5月、人民軍がPOUMと共闘していたCNT(アナーキスト系労働組合)の民兵に攻撃をしかけ苛烈な市街戦がくり広げられた。反ファシズム派の兵士たちが本来は味方である筈の人民軍の砲火を浴びることとなったのである。内紛の結果、ソビエト共産党が指導権を握るスペイン共産党の力が強くなりPOUMも非合法化され、指導者たちの逮捕・監禁が執行された。
デイヴィッドの大怪我
武器が不足したPOUM は50年も前に使われていた旧式の銃に頼らざるを得なかった。その銃が暴発したためデイヴィッドは大怪我をした。病院に運ばれるデイヴィッドにブランカは退院後に静養する宿を紹介する。傷が癒えたデイヴィッドはその宿でブランカとやっと結ばれる。しかし、POUMの在り方に疑問を感じていたデイヴィッドは入院中に人民軍に入っていた。それを知ったブランカは激怒して彼のもとを去った。自分の誤りに気付いたデイヴィッドは党員証を破り捨てPOUMに復帰する。仲間たちは疲弊しているものの最前線で戦い続けた。
人民軍との対峙
ある日、トラックに兵を満載した大部隊が到着した。援軍が来たとデイヴィットたちは狂喜したが、それは彼らを捕まえるためにやって来た人民軍だった。包囲された民兵たちは武装放棄を求められ、応じない者は容赦なく射ち殺された。人民軍を指揮しているのは何とデイヴィッドの同郷人ローレンスであった。射殺されそうになった仲間をかばおうとしたブランカの背を銃弾が貫いた。
フランコ軍の勝利
内紛に明け暮れた反ファシズム派は結局フランコ軍に勝てなかった。生き残った兵士たちは命からがらスペインを去った。ブランカの生まれ故郷を訪れたデイヴィッドはブランカの埋葬に立ち会う。墓の土を一握り、彼女の形見である赤いスカーフに包んだ。
物語の終焉
映像は現代のリバプールに戻り、キムは祖父の埋葬の日を迎えた。祖父の青春と理想を知ったキムは遺品のなかにあったウイリアム・モリスの詩The Day is Comingの一節を朗読する。
Come, join in the only battle 誰も敗者とならぬ
wherein no man can fail, 戦いに参加しよう
Where whoso fadeth and dieth, たとえ死が訪れても
Yet his deed shall still prevail. その命は永遠なり
赤いスカーフに包まれた土をキムは地中に降ろされた棺の上にまいた。そして赤いスカーフを握った手を力強く天に突き上げた。
ケン・ローチ監督の手法
映画監督は大きく分けて「芝居派」と「額縁派」に分けられる。前者は役者に思い切り芝居をさせカメラが適宜それを拾って行く。後者はカメラがしっかりした画像(額縁)を作り、その中で役者を動かす。もちろん、どの監督もこの2つを使い分けるのだが、どちらに重きを置くかでスタイルがまるで違ってくる。ローチ監督は90%前者である。役者陣を思い切り動かし、自由に喋らせ、カメラはそれらの断片を拾って行くだけだ。その結果、フィクションなのに観客は迫真のドキュメンタリーの映像を見たかのような感興を覚えるのである。また戦場となったアラゴン地方の荒涼とした光景が苦闘する若者たちの絶望的な心象を赤裸々に語っている。
主役のデイヴィッドを演じたのはイギリスの性格俳優イアン・ハート、ヒロイン役ブランカはスペインの人気女優ロサナ・パストール、いずれも好演である。型にはめずのびのびと演技させるケン・ローチの演出が生きている。
ケン・ローチの政治的立場
一貫して労働者階級、抑圧される側の人間に寄り添って映画を作ってきたケン・ローチは自らをマルキストと称していると云われている。しかし、この映画で抑圧する側に回ったスターリン派の共産軍を激しく糾弾しているように、彼は共産主義者というよりは抑圧を嫌い、自由を愛し、人間の尊厳を謳う人間主義者(ヒューマニスト)と呼ばれるべきではないかと筆者は考える。
November 18, 2018

