何かをやろう。
何かを学ぼう。
何かを知ろう。
こう思った時
「ワクワクする」
「ニヤニヤする」
「嬉しいから」
「楽しいから」
その時の気持ち、感情に間違いはない。
でも、よーくよーく、見てみて。
その奥。
その「ワクワク」の奥。
その「ニヤニヤの奥の奥の奥」
今ここ、にあなたはいる?
どこにいる?
「それを得られて最高級に輝いている私」
「それをマスターして自分らしく生きられる私」
それらを想像してニヤニヤ。
それはいい。
もっともっともーーーーーーっと、奥だよ。
そのスタートは、どこから来ている?
あなたは自分のどこを見ている?
自分の何を見ている?
「私の、ここがダメだから」
「私の、こういうところがよくないから」
「私の、この物の考え方がいけないから」
「あの人と比べて私これができてないから」
「この人と比べて私はこれが足りてないから」
だから。
だから。
だから。
「私はダメなんだ」
「もっともっとやらなきゃダメなんだ」
だから私はこれを学ぶ。
そうしたら、最高級に輝く私になれるー!!!!!
「私はダメなんだ」
「もっともっとやらなきゃダメなんだ」
だから私はこれをやる。
そうしたら、もっとずっと生きやすい私になれるーーーー!!!!!
「私はダメなんだ」
「もっともっとやらなきゃダメなんだ」
ここから始まる創造の世界。
それは「自分の全否定」から始まる創造。
それは一番最初は、堪らない快楽物質を分泌する。
自分のストイックさが痺れるような心地よさに感じられて、麻薬のように心躍る。
そう。
筋トレした後の筋肉痛みたいに。
「わたし、がんばってるー♫悦モード全開」
この、ストイックさがいいんだよね。
この、がんばってる感じが堪らないんだよね。
でも、それはそう長くは続かない。
がんばればこうなれる、という理想の姿にたどり着くためには努力と我慢と忍耐と、たゆまぬ精神力が必要。
がんばれば、ああなれる。
がんばれば、もっとこうなれる。
がんばれば。
がんばれば。
がんばれば。
理想の私になるためには頑張らなきゃいけない、という思い込み。
今を我慢して耐え抜いてこそ、輝ける未来に到達できるという思い込み。
で、それ、どうなった?
鞭打って頑張っても続かなくて、残ったのは自分への否定のみ。
「やっぱり私はダメなんだ」という、自分への嫌悪感と罪悪感。
もしたとえ、欲しいのものが手に入ったとしてもすぐにそれは「当たり前のもの」として消化され、また私は次の理想の未来へと意識を向ける。
もっとがんばらなきゃ。
もっともっと、がんばらなきゃ。
これができない。
あれができない。
これが足りない。
あれが足りない。
もう十分すぎるほどやってても、まだまだ。
周りの声なんて一切耳を貸さない。
だって、私がダメだと思ってるんだもの!!!!!!
誰がなんと言おうと、私がダメなんだもの!!!!!
苦しい。
辛い。
しんどい。
やめたい。
でも、やめたら手に入らない。
この「価値あるものを生み出さないと生きてはいけないゲーム」
そして「自分に何か欠陥があるから、それを埋めないとならないゲーム」
この、スタート地点は、どこ?
価値あるものを生み出せないことが「問題」
自分に何か欠陥があることが「問題」
「問題がある」というエネルギーから発せられる望み。
これらが私にもたらしたものは
「まだまだ」という渇望感
「全然足りない」という不足感。
そして「達成できなかった」という自己嫌悪感。
そう。
一番最初に自分に下した、強烈なジャッジがそのまんま自分に戻ってくるだけ。
自分が嫌いだから、世界は自分を嫌いになるものを感じられるように私に返してくる。
自分がダメだから、世界は自分がダメだと思えるようなことを返してくる。
なんでそんなに、自分が嫌いで
なんでそんなに自分にダメ出しして
なんでそんなに自分には何かが足りないと思っていて
なんでそんなに自分はがんばらなきゃいけないと思うか
苦しんで苦しんで得られたものは何もないのに。
そもそもそれはどうしてかと言えば
「自分が世界で一番、自分に厳しいからだ」
表面的に自分をいたわって、甘やかして「今日は休む」と言ってのんびりゴロゴロさせる。
なのに、気持ちはどこか「こんなことしてていいんだろうか」と、常に落ち着かない。
自分で自分を監視してるから。
自分の思考はそれを許していない。
ジャッジしまくっている。
行動は、確かに自分を労っている。
でもその意識は、めちゃくちゃ自分を責め続けているから。
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私は自分でもアホみたいに、この呪いばかり自分にかけてきた。
自分に厳しいから、他人にも厳しい。
そしてどんどん自分の首を絞めている。
なんでこんなに苦しいのか自分でも全く理解していなかった。
「厳しいのがデフォルトだったから」
何が厳しいのかわからなかった。
自分の「どれ」が厳しいのか。
昨日夜中に
「自分が31歳のときってどんなだったっけ」という話題になり
いろんな写真を持ち寄ってワーワー騒いでいた。
で、当然。
私、めちゃくちゃ今より痩せている。
びっくりするほど痩せている。
「なんだよ!! この頃十分痩せてるじゃん!!」と思った。
でも。
あの頃史上最高に太っていると「感じていた」し
今以上に自分に対して「このままじゃダメだ」とダメ出しし続けていた。
痩せること、ダイエットもさんざんやった。
でも、ほぼ続かない。
一度ガツーンと痩せてもすぐ戻る。
もういーや、と諦めたらどんどん太っていった。
そんな自分に対して自己嫌悪を覚え、また自分に鞭打つ。
この意識の使い方。
「なぜ私は、痩せないんだろう」
それはもう、一言。
自分に対して厳しすぎるからだ。
そして昨日ひとつの質問が来た。
「ぜっきーさんの美肌の秘密を教えてください。何をやられてるんですか」と。
何もしてない。
あまりにテキトーすぎて笑えるくらい、何もしていない。
4月、風邪引いてオロロン状態だったから、スキンケアほぼしてない。
化粧水すら塗ってない。
日頃から本当に何もしなすぎて、はてさてふふー状態。できるかな?
でも。
それを一度も「ダメだ」と思ったことがない。
そんな気づきの連鎖の中での、今日の出来事。
現在私の家はリフォーム中で、職人JJがコツコツと床を張り、余った材料でパソコンテーブルを作り、工事中でも私が仕事しやすいように環境を整えてくれた。
しかし私は、本当に本当に掃除機をかけることが大の苦手。
JJは、あり得ないくらい掃除が丁寧。
ひとつ荷物を片付けるごとに、掃除機を起動させて丁寧に埃を吸い取っている。
それを見て反応した自分にまた、ハタと気づいた。
「ああ、私はこういうことでいちいち、自分を責めていたんだな」と。
恥ずかしいと。
掃除くらいちゃんとできなくてどうする、と。
そういう日常に潜む「小さな自分責め」が
やがて大きな「自己嫌悪」につながり
やがて、それを埋めるために何かを外へ求めていくことになる。
ただの行動での自分癒し、ではなくて
意識で自分は自分をどう見ているか。
みっともない。
恥ずかしい。
ダメだ。
ダサい。
どうしようもない。
そんな自分への戒めのごとく、何かを始める前にただ、そっと。
自分自身への意識をただただ、自分に添わせよう。
自分へのかけがえのない
まっすぐな
「そのままの自分でいい」という許可。
自分への信頼。
愛情。
形ではなく、意識で自分に対していつでも味方である。
そういう姿勢こそが「自分を愛する」ということだ。
現代教育を受けて来た私たちにとってそれは限りなく難しいことかもしれない。
けれど、それは限りなく甘く優しい、自分への許しそのものだ。