あなた自身が何をしようが

何をやろうが

何を思おうが

何を言おうが

 

 

 

それによって

誰かの人生が

歪んだり

曲がったり

間違った方向に行くなんてことは、ない

 

 

 

あなたが、あなたである以上は

 

 

 

 

あなたが一番の

あなたの味方であるならば。

 

 

 

 

 

 

あなた自身が

どんなに、あなた自身を嫌っていても

「それ」はいつでもあなたと共にある。

 

 

 

あなたが、それに気づいていないだけ。

 

 

 

 

 

 

あなたがもし

世界中の人に賞賛され

愛されたとしても

 

あなたが内なる自分と離れているならば

それはなんの意味もなさない。

 

 

いつでもあなたは

外側にある何物かに対して

「正しい存在」でいようとする。

 

「正しい存在」でいるために

あれこれと

いつ何時も

説明をして

理解を求める。

 

 

それを、やめることだ。

 

 

 

その説明をし続ける限り

あなたは

 

いつ取られるかわからない

椅子取りゲームの椅子を

奪い、守り、見張り続けなければならない。

 

 

そんな戦いのステージから

永遠に降りられなくなる。

 

 

奪われる恐怖。

追い越される恐怖。

嫌われる恐怖。

なくす恐怖。

 

 

理解を求める

わかってほしいという思いのその先にある

 

 

 

「どう思われているか」

その視点をいま、捨てるときだ。

 

 

 

 

 

世界中の人がもし

あなたの敵になったとしても

 

あなたが内なる自分に

しっかりと根を下ろし

 

その静寂さの中に身を浸し

そこで感じられる

その、絶対唯一の安堵感があれば

 

 

何物をも、おそれることなどないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

おはようございます。

 

 

内なる自分にこもる時間が

長ければ長いほど

そこにある、創造のエネルギーは

どんどん輝きを増し

どんどん放出される。

 

 

尽きることなく。

湧き出る泉のように。

 

 

 

もし他者に目が向いた時

外側に目が向いた時

 

一瞬でそれは濁り

 

またそこから

溢れるように

ひと、もの、ことに対するジャッジが始まる。

 

 

 

そして、やり尽くすと

「まあ、どうでもいいか」になる。

必ず。

 

 

 

 

「まあ、どうでもいい」なら

やめてもいいよな。

 

 

 

 

 

 

究極

わたしたちが

自由に動けないのは

 

 

ただひとつ。

 

 

 

「人にどう思われるか」を

気にしているから。

 

 

 

 

こんなことしたら、あの人にどう思われるか

あんなことしたら、この人にどう思われるか

 

 

 

誤解されたくない

私を理解してほしい

 

 

 

その「罠」とも呼べる

おかしな思考が

我々の足を止め

無限の創造力を奪い

 

「今ここ」から意識を遠ざけ

「いつもと同じ」毎日に引き戻す。

 

 

 

 

 

 

 

 

あっしはね(寅さん調)

 

 

 

「究極に好かれるか、究極に嫌われるか」

その二択しかない人間関係でした。

 

 

 

 

なぜか、嫌われるし

なぜか、好かれる。

 

 

昔は嫌われるのって、自分が悪いからだと思ってた。

 

 

「何もしていないのに、生きているだけで嫌われる」

これってものすごい恐怖で

 

 

好かれるために行動しようとするから余計嫌われた。

「どうしたら好かれるか」そればかり考えていた。

 

 

でも、これらのことをしている時

私の中に「平穏」はなかった。

「心地よさ」はなかった。

 

 

いつでも怯え

いつでも周りの目を気にして

周りの声は全部自分への批判だと思っていた。

 

 

何か言われないか

常にビクビクしていて

相手の顔色を伺い

媚びてみたり

反対に虚勢を張ってみたり

 

 

ありとあらゆることをやっていて

 

 

 

まさしく

「気分が良かった」ことなんて一度もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

あなたが、あなたで生きることに

誰かの承認が必要なのだろうか

 

あなたがあなたのやりたいことをやるのに

誰かの許可が必要なのだろうか

 

あなたがあなたらしく生きようとするのに

誰かの応援が必要なのだろうか

 

 

 

 

最初から「誰か」の「何か」なんて

求める必要は、一切ないのだ。

 

 

 

ある時点から一切、説明をやめると決めました。

 

 

私がわたしであることを

誰かに説明する行為

 

 

「なぜ」そう思ったか

「なぜ」そう感じたか

「なぜ」それをやったか

 

誰かの理解を求めるために

「説明すること」を一切やめました。

 

 

私がわたしを理解していたら、それだけでいい。

私の価値は、私自身が決めていい。

 

 

自分が世界を創ることを知っているならば

自分の世界では、自分がルールだ。

 

 

好きな存在も

嫌いな存在も

あってほしいものも

消えてほしいものも

全て、私が創り出しているものに過ぎない。

 

 

 

だとしたら

わたしは、どこに意識を向け続ければいいか。

答えは、ひとつ。

 

 

 

 

 

私は、ただわたしであればいい。それだけ。

そこにしか、わたしの真実はない。

私の真実は、誰かに理解してもらう必要は一切ない。

 

 

 

 

 

 

 

忘れたら、いつでもここに戻ってきて。

大丈夫だから。

ここにいるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良き休日を。