何かが動く時は、意識では「一気に動いたように」感じられる。
でも本当は、水面下で少しずつ、少しずつ、その流れの方に自然と誘われているんだろう。
流れ始めると、あとはもう、川底に長年かけて積み上げてきた泥や岩やいろんなものが一気にごそっと剥がれて、もうそこには留まっていられない重さとなって一気に押し流されていくように別の場所へと向かう。
そうなったらただ、無駄な抵抗はやめて、すうっとチカラを抜いて、流れに身を任せていくだけ。
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わたしは、仕事が大好きだった。
わたしにとってどんな仕事も「表現」だったから
とにかく、仕事が好きだった。
仕事をしている時の達成感や充実感
数字を追っている時の高揚感や
イベント毎の人との交流、息遣い、緊張と弛緩の繰り返し。
20代は文字通り、ワーカホリックだった。
日本で一番混雑すると言う電車に乗り、毎日会社に通った。
徹夜もたくさんしたし、深夜のタクシー帰宅も当たり前だった。
やがて、「働き方」というものを少しずつ緩めていったとき
わたしは、あの時のわたしがなぜあんなにも仕事狂いだったのか振り返って、考えてみたことがある。
それは
「仕事をしているときだけは、世の中と繋がっていられる」
そう、思い込んでいたからだった。
達成感や充実感や高揚感の裏側にある、繋がり感が私にとって最も重要だったからだ。
私たちは、大なり小なり、そういう無意識の所属欲を持って「仕事」をしている。
役割を与えられれば、ホッと安心できる。
やることがあれば、生きていける。
義務も生じるし責任感も感じることができる。
それはどこから来るか、というと実は
「自由への恐怖」だ。
突然、今から自由にしていいよ、と言われるとどうしたらいいか、わからなくなる。
自由にしたい、と心のどこかで願いながらも、それは自分には役割をもたらしてはくれない。自分で自分の役割を決めて、自分で自分を満たし続けなくてはならない。
それはものすごく孤独な世界で、怖い。いきなり放り出されて分離感を起こすと、勝手に想像している。
だからみんな、どんどん仕事にはまっていくんだな。
そこにいる時だけは、役割があるから。黙っていても役割が与えられるから。
「これがあなたのやることです」と、差し出される世界の方が安心だ、と無意識に決めているし、それを大切にしすぎてしまうんだな。
役割を与えられて、それを達成していくことで感じられる自分の感覚、それが生きること、生命に直結しているからなんだな。
でも、自由はそんなに孤独ではない。
自分の役割は、どこにいたって自分で決めていいし、自分で決める。
仕事という手段だけではないよ、だから役割がもらえる仕事というものだけに、そんなに固執しなくても大丈夫だよ、と昔の私に言いたい。
なんでも決められる自由さと、なんでも決めなくてはならない不自由さ。
その、2つの相反したもの、矛盾をわたしたちは常に抱えている。
愛おしき人間という生き物よ。
生きることそのものが、すでに自由に表現していくことなのだから
私たちはもっと、自由を素直に楽しんでいればいい。
ただ、それだけでいいのだ。