「自分自身で在る時、わからないということはない」

 

 

 

 

すごい究極で、とてもシンプルな言葉。

 

 

 

普段私たちが「わたし」だと思っているこの存在は

果たして、何から創られているのでしょうか?

 

 

 

 

ではもうひとつ。

「過去は、存在しない」

 

 

 

とすると

普段私たちが「わたし」だと思っているこの存在は

果たして、どこから来ているのでしょうか?

 

 

:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-

 

おはようございます。ぜっきーです。

 

 

今日はちょいと哲学的なお話。

 

 

「わたし」を構成しているものは

私たちが過去と思っているものの中にあります。

 

 

私なら

 

・オオゼキアキコ

・43歳

・父と母と兄二人と犬がいて、私はインコを飼っている

・子供時代

・中学時代

・高校時代

・大学時代

・20代

・30代

・40代

 

 

 

それらも全て、この頭の中にある「過去」に過ぎません。

 

 

 

 

でも、その過去は本当にあったこと?

 

 

 

 

 

「私は、ペットのインコを飼っていました」

これは言葉だけ見れば本当の事のように感じられること。

 

 

 

 

だけれど

「私は、ペットのインコを365日飼っていました」

となると

 

 

私は、ペットのインコを飼っていなかった時があるのです。

 

 

 

「ペットのインコを飼っている」と認識できるのは

「ペットのインコ」が目の前にいるときだけ。

 

 

 

つまり、目の前にいないときは

飼っていることにならない。

 

 

 

学校に行ったり

旅行に行ったり

遊びに行ったりしている間に

ペットのインコは、認識できる存在ではないわけです。

 

 

 

私たちは、過去の出来事の中で

強い印象が残っていることや

関わる時間が長かったものを

中心として

 

 

その一部を切り取って、過去として認識しているに過ぎない。

 

 

 

チーズケーキのピースみたいなものだと考えるとわかりやすいね。

 

 

 

本当は、ホールサイズのケーキなのだけれど

1ピースを切り取って「これがこのケーキの全容です」と思い込んでいる。

 

 

 

この状況が理解できると

 

 

過去は、自分の脳内で捏造されていることがわかります。

 

 

 

 

同じ出来事を体験しても

人によって解釈の違いが生まれるのは

 

 

 

「その現象のどこにフォーカスを当てているか」の差

 

 

 

そうなると

「過去」によって発生したであろう

様々な感情

 

 

 

・嬉しかった

・楽しかった

・悲しかった

・辛かった

・寂しかった

・怒り

・我慢

・忍耐

 

 

 

これらも

過去が捏造だとしたら

 

 

過去に紐づいて

勝手に自分が自動的に選んだものだとたら

 

 

 

 

認識できる範囲での「わたし」という個は、存在しないものとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

・過去は脳内で勝手に作られている(捏造)

・それに付随してくる感情は、勝手に自動的に発動している(ジャッジや観念)

 

 

 

 

だとしたら

 

 

 

私という個の存在(と思い込んでいるもの)の定義そのものが

根底から見事にひっくり返ります。

 

 

 

 

 

 

 

今、ここにある

 

迷いや不安や悩みそのものは

自分ではない。

わたしではない。

 

 

 

 

 

それが発生している時点で

 

 

「わたしは、他の何者かになろうとしている」のでした。

 

 

 

この話は最高に面白く、最高にワクワクする着地点に到達します。

 

 

お楽しみにー♫

 

 

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