「今、目の前で起きている出来事は、100%自分に原因があるよ」

 

「私たちは100%、全ての責任を引き受ける」

 

 

この単語を耳にして、大抵の人が落ち込んだり悩んだりしてしまうのは何故だろう?

 

 

今までたくさんの人の出会いを通じて感じたことのひとつ。

 

 

この「原因」や「責任」という言葉が

根本的に、人の心を豊かにするものであるはずが

どうやら本来の意味とは全く違う歪んだものとして捉えられているようなのだ。

 

 

私たちは「責任」という言葉を過去の視点から捉えてしまいがちだ。

 

 

過去の失敗やトラブルや過ちの結果として受け止める

 

 

責任を取ります

 

 

という図式を経験している人は多いと思うけれど、

 

この言葉は、失敗した結果、やむを得ず取らざるを得ない何か、

として強固に記憶に刷り込まれている。

 

 

実は「100%の責任」という言葉は、過去ではなくて今現在、今ここの自分に直結している。

 

私たちが感じてそれを判断するときは

言うまでもなく私たちの経験から思考されていく。

 

私たちが体験している全ての事柄は、

私たちの精神を通して成り立っている。

つまり私たち精神を通してしか、成り立たせることは出来ない。

 

たとえ自分の隣りにいる人が、この世界の成り立ちを理解出来たとしても、

結局それはその人の内側で解釈された型の投影に過ぎないのだ。

 

 

「あの人のやっていることはよくないことだ」

 

「あの人は間違っている」

 

「あの人は正しい」

 

これらは全て、私自身の、あなたの中の問題に過ぎないのである。

 

 

 

 

 

何を言いたいかって?

 

つまりは「人生は所詮、勘違い」というお話。

 

 

私たちは目の前に現実に問題がある、と考えてしまいがちだけれど、

その現実を見るフィルターを自ら選んでいる、ということ。

 

 

そのフィルターは「幻想」に過ぎない。

 

世界に対して抱き続けて来た先入観をいまこそなくすとき。

 

 

私たちの解釈を挟まなければ、全てはニュートラル、中立の状態。

 

いま、目の前に置かれた一杯のミルクティは、この世に存在する全ての事象と同じように、1つの物体に過ぎない。

 

 

そのミルクティが、私の「責任」になるのは、それが私の意識に入って来た時。

 

おいしいかどうか

温度は

甘さと味のバランスは

好きかどうか

 

全ては自分次第。フィルターはひとつ、自分の意識だけ。

それを通して私たちは世界を見ている。それが全て。

 

 

 

そうやって考えると

 

「今、目の前で起きている出来事は、100%自分に原因がある」

 

「私たちは100%、全ての責任を引き受ける」

 

 

この言葉は、実は「100パーセントの可能性」だという事が分かる。

 

なぜなら、私たちの思考は全てわたしたちだけのモノだから

 

 

 

「外の世界には何もない。あるのはいつも“凝り固まった心の中の独房”の鍵だけ。

 私たちはそれを楽園の扉の鍵に変えられる秘密を知っているのだ」

 

 

 

これは私の師匠パトリス・ジュリアンに教えてもらったこと。

 

もう10年以上前に、あのおうちの庭でランチしながら

ゆるりと雑談した中にでてきたおはなし。

 
 
今年はフランスに会いにいきます。
 
 
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パトリスさんからお借りしました