もう生きてるのが怖くて
生きる術が見つからない時は、
人はどうやって生きたらいいんだろう。
好きで不幸になった訳じゃないけど、
心細さでモヤのかかった現実から
人の心を見誤って、
人の言う通りに自分を責め立て
それでいつか分かってもらえるなんて、
報われるなんて、
なんで信じたんだろう。
ずっと小さい頃から、
いつか報われるんだと信じてた。
だから欲しかった物も、したい事も、
寂しさも、辛さも、優しさのない生活も、
我慢できた。
私に巧みな嘘を吐いて、
好きなように操ったのは、
親や、周りだけじゃなかったな。
私自身も自分を巧く騙して
何とかかんとかやってきた。
本当は、そう耐えるように
教えられたのかもしれないけれど。
子供は何でも信じるから、
「次ね」「いつか」「またね」「来年ね」
なんて言葉を真に受けてた。
我慢強く、2年待って3年待って
それでも「来年ね」なんて言われて、
4年目に少し抗議したら
あっさり無理だと言われた。
私の何年間の我慢なんて、
何でもないみたいに。
そんな事ばかり信じてた。
そんな人達を信じてきた。
そんな風に誤魔化されてきた。
信じなくなってからも、
我慢させられるのは
何も変わらなかったけど。
愛情を待ちながら、
いつかの幸せの為に我慢しながら、
「私の番は私の分は、いつくるのかな?」
なんて、本当に悲しい。
結局いつの「今」も、
色んな事が不足してて
経験も足りなくて
寂しくて虚しくて、不幸だった。
今だってそうだから、
もうどうしたらいいか分からない。
私の人生の日々を表す言葉は、欠乏だ。
人に与えられた「今」の内容は
決して平等じゃないと思う。
理屈では「今」の価値は平等でも、
やっぱり豊かな人は
それが生活水準でも体験でも人でも
違う形で来るだけで、
ずっと豊かな「今」を持っている。
その人に与えられた「今」の、
[時間の長さ]じゃない[内容]の、
豊かさの量は
人それぞれ
決められているんじゃないかと思う。
「今」の、内容の豊かさの量が
個人ごとに決められて一定なら、
全てはいっぺんには手に入らないと
よく言われてる事も納得ができる。
生きる術が見つからない時は、
人はどうやって生きたらいいんだろう。
好きで不幸になった訳じゃないけど、
心細さでモヤのかかった現実から
人の心を見誤って、
人の言う通りに自分を責め立て
それでいつか分かってもらえるなんて、
報われるなんて、
なんで信じたんだろう。
ずっと小さい頃から、
いつか報われるんだと信じてた。
だから欲しかった物も、したい事も、
寂しさも、辛さも、優しさのない生活も、
我慢できた。
私に巧みな嘘を吐いて、
好きなように操ったのは、
親や、周りだけじゃなかったな。
私自身も自分を巧く騙して
何とかかんとかやってきた。
本当は、そう耐えるように
教えられたのかもしれないけれど。
子供は何でも信じるから、
「次ね」「いつか」「またね」「来年ね」
なんて言葉を真に受けてた。
我慢強く、2年待って3年待って
それでも「来年ね」なんて言われて、
4年目に少し抗議したら
あっさり無理だと言われた。
私の何年間の我慢なんて、
何でもないみたいに。
そんな事ばかり信じてた。
そんな人達を信じてきた。
そんな風に誤魔化されてきた。
信じなくなってからも、
我慢させられるのは
何も変わらなかったけど。
愛情を待ちながら、
いつかの幸せの為に我慢しながら、
「私の番は私の分は、いつくるのかな?」
なんて、本当に悲しい。
結局いつの「今」も、
色んな事が不足してて
経験も足りなくて
寂しくて虚しくて、不幸だった。
今だってそうだから、
もうどうしたらいいか分からない。
私の人生の日々を表す言葉は、欠乏だ。
人に与えられた「今」の内容は
決して平等じゃないと思う。
理屈では「今」の価値は平等でも、
やっぱり豊かな人は
それが生活水準でも体験でも人でも
違う形で来るだけで、
ずっと豊かな「今」を持っている。
その人に与えられた「今」の、
[時間の長さ]じゃない[内容]の、
豊かさの量は
人それぞれ
決められているんじゃないかと思う。
「今」の、内容の豊かさの量が
個人ごとに決められて一定なら、
全てはいっぺんには手に入らないと
よく言われてる事も納得ができる。