亡くなった父方祖母は元家庭科教師でした。

ずっと前に亡くなった祖父は陸上の選手でこちらも教師。出征した戦地で結核にかかり、シベリア経由で帰国した後も普通に働ける身体ではありませんでした。

そんな祖父に代わって家族を支えたのが祖母です。夫と義父母、3人の子どもを養いました。産休や育休などない時代。産後は2週間ほどで教壇に復帰したといいます。

夫である祖父の体の調子は悪く、時には赤ん坊を背に雪の中を主治医の先生を呼びに走ったこともあるそう。生活は貧窮し、ついに子ども一人を養子にたすほどでした。

私の記憶の中の一番若い祖母は60歳くらいです。雑貨屋を営む母に代わって保育園に迎えにきてくれました。乗り物は荷台が籠のようになった三輪車です。私は荷台に座って、祖母ののんびりした運転で帰るのが大好きでした。

祖母も可愛がってくれていたようで、小学校の一時期、祖父母の家に住んでいたこともあります。

祖母は元家庭科教師だっただけあり、料理も裁縫もうまかった。社会人1年目に縫ってくれた赤い浴衣が形見になりました。

ろうけつ染めを教えてくれたこと、東京や名古屋など遠出の旅行に同伴してくれたこと、大学入学が決まったときに富山大和でスーツ買ってくれたこと、茶道を勧めてくれたこと、大学の下宿まであそびに来てくれたこと、大学の友だちが遊びに来たときお茶をたててくれたこと、結婚式にきてくれたこと、、、どんどん思い出が頭の中に
湧き上がってきます。

祖母が私に示した一番の道は

「女こそ学問を修め職業に就くべき」

です。何かあったら周囲を助けられる人間になれということです。

素晴らしい先輩働く母さん。いままで私を愛してくれて、本当にありがとう。またいつか会いましょう。


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