このブログを始めて、まもなく1年。
ブログ開設当初の強い気持ちはだいぶ薄れてしまっているが、このまま何事もなくゆけば、ブログ2年目に突入できそうな気はしている。
もともとこのブログは「統一教会の問題点を考えたい」と思って運営してきた。上げた記事を読者が絶賛!とかはなかったが、地道に読んでくださる読者がいる点は、ありがたく思っている。
ここから先は、そうした記事の地道な積み重ねだと思う。私の中に、燃え上がるような信仰の炎🔥など特になく、まわりの炎(周囲の炎上のことかも)に浴びせかけて鎮火できるような鉄砲水🌊も持ち合わせてはいない。
ムン教祖?のように「統一教会をぶっ壊せ!」などという大義迷分を持っているわけではない。
という現状の中で、このブログはこのまま、治水重視で堤防を築くように、長期的に続けていければと良いと、思っている。
・・・
ただ、せっかくだから、統一教会界隈に、今でも燻っている信仰の炎らしきものについて、以下、淡々と想いを綴っていきたい。
統一教会は、平和を願っているなどというのは建前で、実は目の前の火事や荒波を望んでいたと思う。そして、その目の前に燃え上がる炎を鎮火することが、統一教会の信仰であり平和主義であった。
つまり、統一教会は“敵”を見つけるのが得意な教会であった。その“敵”のことを、時にサタンと言ったり、カインと言ったり、怨讐と言ったり、共産主義と言ったり、堕落世界と言ったり、堕落性と言ったり、先祖の罪と言ったり、蕩減と言ったり、悪霊の仕業と言ったりした。
私も信徒だったから、こうした信徒の心理として、“信仰の炎”をよく知っている…。
ところで、最近、私の周りには、そんな火事も荒波も少なくなっている。実際には、現実の生活は、いろいろ大変すぎて騒がしくもあるのだが、何とかコントロールできてはいる。
そんな日常は平凡であり、ある意味、退屈でもある。昔の私なら、そんな平凡な現実はムズかゆく、おそらく目の前に火事や荒波を探し求めて、わざわざ彷徨い歩いたであろう。
幸いにも、このブログ名は「静かな海に立つさざなみ」である。この平凡なブログ名は、もともと別の意味で付けたのだが、成り行きで、もう一つの意味ができてきた。
激動の人生の中に荒波を目指すのではなく、平凡な日常のさざなみの中で、まだ見ぬ次の陸地を目指したい。日々の現実は少し退屈ではあるが、そこに平常心と想像力を加えて、次に進みたい。
来年は引き続き、そうしていきたいと思う。
最後に、以下を一日一回クリックして頂けると、このブログを続ける力になります!