私は神への信仰を否定してはいないけれど、もしその信仰が何かに対して依存的であったとしたら、その信仰が人生を生きる選択肢を自ら狭めているということは確かだと思っている。
私の統一教会の信仰も依存的な面が多くあったから、その心の姿勢は自ら人生の選択肢を狭めてきたと思っている。かつて私が信仰していて心の底で願っていたことは、何かを成し遂げたいという前向きな思いよりかは、自らの精神的な安全と安定だったと思う。
私は自分の人生で安全と安定を脅かすような冒険はしたくもなかったし、未知なる体験や新しい出会いといったものには、必ずしも積極的ではなかった。
こういうと、統一教会の信仰は、万物復帰(物販など)活動や伝道活動、そして海外宣教など、危険を冒すような未知なる活動が多かったと言う人もいるかも知れない。しかし、多くの信徒は、または少なくとも私の場合は、そうした一見危険な活動をしていたとしても、その“本音”は神様による保護のもとで精神的な安全と安心を求めていたのではないかと思う。
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私の今後の人生のことだが、私は残る人生を自分の力で生きていきたいと願っている。
その意味は、安全と安心を求めて尻込みしていた自分を捨てて、自分の足を一歩前に差し出すことである。
それは決して大それたことをしようとするものではない。
たとえば、今まで話しかけなかった人に話しかけてみるとか、日々の中で人任せにしてしまっていたことを自らがやってみるといったことである。
以上、青臭い話をしてしまったが、これが現状の思いであるから仕方ない。私は、そんな生き方をしていきたいと思っている。
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