私の心に残った言葉⑨「目的の目的を考えること」〜人間中心主義の言葉〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

知る人ぞ知る、統一教会という宗教とは、信徒たちが人類の救いために自己犠牲の公的な道を歩む絶対善の宗教。

このことを知らぬ社会の人々は今は迫害するかもしれないが、いつの日か世界が神側に復帰されるその日には、必ず人々から理解される日が来るものと、信徒たちは絶対信仰により信じておりました。
 
さて、ここで早速、ひとつ問いかけをしたいと思います。

 
あなたは自己中心的に生きていますか?
それとも公的に生きていますか?
その生き方は、本当は誰得なんでしょうか?
 
 
ところで、こんな偉そうな問いかけをする、うすワサビなんていう男は、人様の生き方をどうこう言えるような大した男ではありません。何せ、かつてはカルト宗教にかぶれていた男です。

そう、私は、棄教する前までは、この統一教会の教えこそが、人類を救う真理であると信じていました。この教えの実践こそが、絶対的に公的で善なる生き方なんだと信じていたわけです…。
 
 
・ ・ ・
 
 
さて、「目的の目的を考える」という言葉。この言葉は、私が棄教する数カ月前に出会った言葉です。今回、試しにググってみたら、この言葉について説明しているページが見つかりました(参考リンク)。

関心のある方は、そのページを読んでくださっても良いですが、そのページの内容自体は今回重要ではないのでスルーして頂いてかまいません。


この言葉に出会った私は、統一教会から棄教を決める直前まで、統一教会を信仰する目的の、そのさらなる目的は何かということを、あたかも修行僧のごとく必死に考えていました。統一教会の人類のためという目的は、果たして何のためなんだろうかと。

しかし私は、人類一家族の理想を成し遂げる目的は何だろうかと考えてみても、そこに幸福な人類の姿は想像できませんでした。そして私の出した結論は、結局その目的は統一教会の組織と教祖のためなのだということでした。

…。

…。

えっと、すみません…。

今、昔の私のことを考えると、我ながら絶句してしまいます。過去の自らの愚かさに、しかたないので、過去の自分自身に一言叫んでおきます。


もっと、早く気づけ、バカ、オレ!



 ・ ・ ・


さて、気を取り直して💦、私の人生、紆余曲折でいろいろありましたが、このようにして得た教訓は怪我の巧妙とも言えるべきもので、今の私の生き方の一部を形作っています。

統一教会で教えられていた「為に生きる」という公的な生き方。その「為に生きる」という目的は一体何なのかを突き詰めていくと、私はそれが「自分の為に生きる」ことと分離することはできないことに気付きました。

この記事の最初の質問、自己中心的か?公的か?という質問の答えは、どちらでもないと今は思います。人は自己中心的に生きながら公的にも生きるのだと思います。

 
目的の目的を考えること。
 
 
この言葉に沿って真摯に考えてみれば、人が何かを為すときには、その目的の中心に必ず人間が存在します。それは自分自身であったり、家族・知人であったり、赤の他人であったりします。

そして結局この言葉は、棄教前の私が神中心的な考え方から脱して、現代の人間中心的な考え方に導いてくれた言葉になったわけです。
 

 

最後に、やはり現代は人間中心主義だな!と思った方は、自己中心的なうすワサビにも清き一票で、以下を応援クリック^_^;;

 

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