カルト宗教を長い間信じていると、人生を生きる上で受け身の立場や弱者の立場に追い込まれることもよくあると思う。
私の場合、これまで幸いにも経済的な部分は何とかうまくやってきたが、やはり家族関係の問題がかなり大きな負担になって、それに人生の大半のエネルギーを奪われてきた。
数年前は、家族の現実に向き合えず、半分自暴自棄のあきらめの気持ちで生きていたし、今でも家族内における人生の負の財産の精算処理に追われているような状況である。
そうこうしているうちに、家庭の中で、または社会生活の中で、ポジティブなエネルギーの使い方というのが難しくなっていた。こういう状況をこじらせると、おそらく気を病むのではないのだろうか。
私は幸いにも、いろいろなことをナーナーにして、少し手を抜きながら、何とか精神を保ってきたところもあったように思う。
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ところで、統一教会では心と体の統一だとか、知・情・意や愛の成長とかを生きる目的として謳っていたのだが、統一教会の本音というか現実は「意」のみに偏っていた。つまり、統一教会の信仰というのは、ひたすらに「強い意志」が要求されていたように思う。
絶対信仰・絶対愛・絶対服従なんていう信仰の路線も、結局のところ求められていたのは、「強い意志」であったと思う。
このため、統一教会の棄教者は、そうした人生の路線を直ぐには方向修正できず、意志を強く持たなければならないという強迫観念が残りやすいのではないかとも思う。
私もそういうところがあったのだが、今は、意思などというものは過度に強く持てば自分を束縛し、苦しめ、人生を改善に導かないのではないかと思うようになった。
生きるのに必要なのは、強い意志よりも、強い気持ちである。仮に意志は薄弱であっても、気持ちは強く持ちたい。そうそう、若かりしオザケンも、↓のように歌っていた。
強い気持ち 強い愛 心をギュッとつなぐ
幾つの悲しみも残らず捧げあう
今のこの気持ちほんとだよね
にしても、オザケン若いな。なんてこと言っていると、私の歳がバレてしまう。
それから、オザケンの歌い方が指揮者のようであることにも注目したい。
というわけで、私は気後れせず、気持ちを強く持って生きていきたいと思う。
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