棄教から2年経った。
半年前にブログを始めてから、私の家族にもいろいろな変化があり、今後、家族が共に歩むか、離縁して別々に歩むかを、決めて行かなければならない状況となった。
今、私たち家族はそんな状況のため、とある周りの現役シックからは、教会に行かないせいだとか、霊的問題があるせいだとか、言われたこともある。
などと書くと、読者の方は、私が将来を悲観しているのではないかと思われるかもしれないが、私の気持ちは必ずしもそうではない。
ある意味、今の私の家族の状況は、私の身から出た錆であることを自覚している。これまで私の気持ちを偽り、家族の気持ちを無視して生きてきたツケを今払っているのだと私はわかっている。だから、ようやく私は、自分の気持ちと、家族の気持ちに向き合えるようになったわけだ。
ここまで来るのに長い時間がかかった。正直、良い大人が、恥ずかしい生き方をしてきたなぁと思ったりもする。
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さて、最近の気持ちの変化についてである。
私は、いつも何か未来への確信がないと不安定で生きるのが難しくなるという心のクセが、どうもあったようである。統一教会で人類一家族といった神の理想に没頭してひたすら追いかけてきた、いびつな信仰のクセが私に残っていたのかもしれない。
そんな生き方や気持ちにも、やっと変化が訪れたようである。
私は今、人生には未来への確信などないのが当たり前だし、未来など決まっていないことこそが生きる意味なのだと思うようになった。
そう、人生を自由に生きるというのは、未来への計画など度外視して、新しいことをしてみることなのだと気づいたのである。
私は、いつもこうあるべき理想を求め、未来を確信するとき、そこに幸せがあるのかと思っていたようだ。しかし、そのような理想を求めることは、返って幸せの障害になるのだと、年甲斐もなく、そんなことを最近は考えるようになった。
さて、これから2021年も後半を迎える。今年を終えるころには、どんな状況になっているのだろうか…。
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