統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識を当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である
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そういえば、かつて統一教会では、神の永遠なる創造理想というものを掲げており、信徒らはそれを“神の摂理”または“神のみ旨”と称して、世界に神の理想世界を築くのだと息巻いていた。
何てことを、このうすワサビが批判したところで、単に虚しいだけである。というのも、わたしも、かつては、そのみ旨の道とやらに完全投入していた一人だからである。その昔、あんなことも、こんなことも、したことが思い出される。
お父さまーって、叫んでいた若かりしあの日…。
若気の至りとは言え、アレはアレで真剣だった。いつの日か神の理想世界である地上天国と天上天国ができると信じていた。その日のために、自分は犠牲の道を歩むんだと思っていた。
そして、そのみ旨の道には、けっこう情熱的な使命感も、楽しいことも、うれしいことも、感動することも、神秘的な神体験のようなことも、さまざまなことがあった。おそらく、そうしたことは、この社会の平凡な生活の中では、経験できなかっただろうことに違いない。
わたしは今でも、心の片隅では、そのように思っている。そういうわたし自身の統一教会での過去の経験は、反社会的カルトなどと言った統一教会への社会的批判とはまったく別の場所に、わたし自身の人生の貴重な個人的体験としてそっくりそのまま残っている…。
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さて、そんな話は、もう、今は昔である。
統一教会などというところは、今のうすワサビから見れば、陳腐な面白みのない、人工的な、絵に描いたような世界に過ぎない。それはダイナミックさに欠ける、極めて静止画的な、時間の止まった、煮ても焼いても食えない世界である。
そう、神の理想という、予定された未来。それは、確かに、人生を賭けることのできる“理想”だったかもしれないが、同時に人生をつまらなくさせるものだった。
なぜかというと、それは、いつか必ず、神の計画に沿って、この地上に100%成し遂げられる“理想”だったからである。仮に信徒が何もしなくても、いつかは神のみ旨は成し遂げられるのだと、信徒たちはお気楽でいられた。
それから誤解なきように補足すると、わたしは今でも、そんな人類の理想がないとは決して思っていない。どこかにあると信じている。いつかそんな世界を成し遂げるのだという信念は良いものかもしれない。人生を豊かにするかもしれない。
けれど、統一教会の理想は、人生をつまらなくするするものだった。かつて、かの高杉晋作も、以下のように一句詠んでいる。
おもしろき こともなき世を おもしろく
彼が三十になる前に詠んだ、辞世の句とも呼ばれるものだったらしい。激動の時代に、未来がわからない中で、この世をおもしろく生きようと思いながら、彼は病気で死んでいった。
彼は、おもしろくない世をおもしろく生きたいと言ったのだが、ある意味、この句の意味はものすごく平凡で、そして現実的である。
そう、人生を生きるのに、これが当たり前なのである。
だから、神の計画、神の予定、それを信じたい気持ちもわかるが、そんなものは未定であると言ってみたい。そして、未定だからこそ、人生はおもしろいのである。
「予定は未定」
そんなのは当たり前だい、そう。韓国で天気予報が晴れだと言っているのに、なぜか雨が降っている瞬間と同じくらい、それは当たり前なのである。
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